陳羣 ( ちんぐん )

publish: 2026-05-02, update: 2026-05-03

?-237年。字は長文。豫州潁川郡許昌県の人。陳寔の孫。陳紀の子。孔融に認められて名を世間に知られた。始め劉備に仕えたのち荀彧の推挙で曹操に招聘された。曹操の魏公封爵に従って御史中丞となり、重職を歴任して司空まで昇った。人物鑑定に長けた。九品官人法を建議した。潁陰靖侯。

辛陳杜趙の一人。三国名臣頌に魏の名臣の一人として数えられる。

乱世にあって軍事的功績のない陳羣の実績は地味に映るかもしれない。 実際、当時から陳羣の働きぶりを疑問視する人はいたようで、呉質は陳羣を名指しして高官にありながら何も仕事をしていないと痛烈な批判を浴びせた。 曹叡は呉質の言葉も尊重して陳羣を問責したが、多くの人は呉質の批判こそが的外れだと考えていた。 なぜなら、陳羣は多くの密奏を行って、その草稿を人に知られることが無かったため、陳羣の働きは傍からは見えなかったからだ。 陳羣は時に表から、時に裏から様々な進言を行い、魏の国政を方向付けた。

そのような陳羣の働き方は、陳羣の名誉や道義を重んじた価値観によるだろう。 曹丕が禅譲を受けて魏帝となると陳羣と華歆は喜ばずに曹丕の不興を買った。 しかし、漢朝の臣であった道義心が表情に出てしまったと弁明したことで、かえって曹丕からの敬意を得た。

同時に人物鑑定に優れて、多くの者を推挙すると同時に弾劾もした。 陳羣が推挙した陳矯と戴乾はいずれも活躍して名を残した。 一方で、曹操が王模と周逵を登用すると陳羣はこれに反対した。 後に彼らが罪を得て処罰されると曹操は改めて陳羣の人を見る目を認めた。 また、陳羣は行跡の悪い郭嘉を度々弾劾した。 曹操は郭嘉の才を敬愛して陳羣の言葉を用いなかったが、陳羣の言葉もまた尊重したという。

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王雄

507年-564年。字は胡布頭。太原郡の人。王崙の子。太原王氏を称するがその字から自称と考えられる。賀抜岳に従って関中に入り、梁領である漢中方面を攻略した。宇文護の下で北斉を攻めたとき、斛律光の矢が当たったとされ、陣没した。庸国公。

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?-388年。字は烈祖。西秦の創建者。宣烈王。乞伏司繁の子。隴西鮮卑の出身。前秦から南単于に封じられた。淝水の戦いの前、叔父の乞伏歩頽が反乱を起こすと討伐に当たったが、淝水の戦いで前秦が大敗すると慰留されて状況を静観した。苻堅が姚萇により殺害されると独立した。

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