崔琰
publish: 2026-05-05, update: 2026-05-15
163年-216年。字は季珪。冀州清河郡東武城県の人。崔密の子。始め袁紹に仕えたが袁紹が死ぬと袁譚、袁尚のいずれにも出仕せず曹操の招聘に応じた。曹操の魏公封爵とともに尚書となり後に中尉まで昇った。魏王昇爵を賛美する上奏を批判したとして丁儀に讒言され処刑された。直言の士。
三国名臣頌に魏の名臣の一人として数えられる。
清河崔氏は名門だが崔琰は若いころ剣術を好んで兵士として出仕した。 折しも黄巾の乱が起きた頃である。 ほどなくして学問にも打ち込み鄭玄に師事した。 崔琰が三十歳ごろに黄巾の残党が北海郡を荒らしたために、鄭玄が弟子たちに帰国を命じた。 崔琰は四年をかけて青州、徐州、兗州、豫州、揚州を放浪して帰国した。
直言の記録はいくつか残っているが、その中には、的を射て主君の怒りを買いかねないものや、過度に剛直で周囲の反発を買いかねないものがあった。 諫言は誰の耳にも痛いものであり、全く配慮が無ければ徒に敵を作りかねない。 崔琰を死に追いやる讒言をした丁儀は曹植に仕えて曹丕とは敵対していた。 一方で崔琰は兄の娘が曹植の妃であったにもかかわらず、長幼の序を重んじて曹丕を皇太子とするよう諫言し続けた人物だった。 崔琰の正論は曹丕派を潰したい丁儀たちの派閥争いの道具として使われてしまった。 奇しくも崔琰自身がその正論の揚げ足を取られて丁儀らに攻撃されてしまったと言えるだろう。
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