豆盧寧
publish: 2022-02-15, update: 2026-04-19
500年-565年。字は永安。昌黎郡徒河県の人。豆盧萇の子。後燕の北地王・慕容精の玄孫。爾朱天光、侯莫陳悦に順に従い、侯莫陳悦が討たれると宇文泰に従った。身丈八尺、容姿に優れて騎射を得意としたという。功を挙げてなお宇文護の傀儡政権でも失脚せず、楚国公まで昇った。同州刺史として在地で病没。
豆盧氏はもともと慕容氏の支族で、慕容精の子・慕容丑の代に北魏に帰化して、豆盧氏の姓を賜ったとされる。 その後、家系は祖父の豆盧什伐へと続き、父・豆盧萇は柔玄鎮の将を務めた。 家系を遡るとその祖は慕容運、慕容渉帰にあたる。
関連
陳叔宝
553年-604年。字は元秀。陳の第5代皇帝。後主。陳頊の第1子。父陳頊の死後即位した。施文慶、沈客卿、江総ら奸臣を重用し、自らは飲酒や詩作に耽って政治を顧みなかったため、国政は乱れて国力は衰退した。隋の攻撃に降伏し、警戒されることなく余生を全うした。在位7年。
沈約
441年-513年。字は休文。沈璞の子。竟陵八友の一人。幼少期に父・沈璞を劉俊に殺害された経緯がある。宋、斉、梁の3朝に仕官した。蕭子良に招かれて文学サロンを興隆せしめた。梁の尚書令となるが、晩年は蕭衍の不興を買って、不遇の中病没した。宋書、晋書、斉紀を編纂した。
閻式
?-309年。天水郡の人。閻彧とも。李特たちが難民を連れて益州へ移るとこれに従った。益州刺史として羅尚が着任すると李特の使者として度々往来し、難民側の主張を羅尚に伝える一方で、羅尚から李特への懐柔の窓口となった。李雄の代に尚書令まで昇るが、配下の訇琦、張金苟に殺害された。