竇憲
publish: 2021-12-31, update: 2026-04-19
章節
標籤
?-92年。字は伯度。扶風平陵県の人。竇勛の子。竇融の曾孫。妹を劉炟の皇后として外戚となった。妹の寵臣・劉暢を暗殺して逮捕された。刑務として北匈奴討伐を行い大いに成果を得たため大将軍として朝廷に君臨した。帝位簒奪を目論むが、察知した劉肇に賜死を受けた。
後漢初の外戚の禍を招いた人物でもある。
竇憲が暗殺した都郷侯・劉暢は、光武帝・劉秀の兄・劉演の曾孫にあたり、傍系ではあるが皇族の一員である。 劉暢は邪僻と表現される人物でありながら、竇氏の寵臣となり、兄たる竇憲はその権限を劉暢に奪われることを恐れた、というのが暗殺の理由とされる。 しかし、その後、贖罪として北匈奴の討伐を行い、前例のない成果を挙げたため、かえって外戚としての地位を向上させた。
刑務として、兵権を得るのは通常では考えにくいことで、この辺りは複雑な事情がありそうである。 というのも、匈奴は前漢の頃とは異なり、勢力を縮小させて、北匈奴と、南匈奴に分裂していた。 南匈奴はすでに後漢に従属しており、竇憲の北伐の前、北匈奴では飢饉が起こり、南匈奴は北を併呑せんとして出兵を上奏していた。 北方の異民族は、むしろ匈奴から鮮卑への過渡期にあり、北伐の難度は前漢の武帝期などとは比較できないであろう。 一言でいえば、竇憲は自分の手柄として匈奴を上手く利用したのである。
関連
慕容詳
?-397年。後燕の開封公。慕容皝の曾孫。中山に鎮した。慕容宝と対立する慕容会が中山へ逃げると捕縛し処刑した。慕容宝が北魏に敗れて薊に逃れると、皇帝を称して建始と改元した。悪政と評されて長続きせず、慕容麟に攻められ殺された。
徐羨之
364年-426年。字は宗文。東海郡郯県の人。徐祚之の子。東晋の太子少傅の主簿を務め、桓玄が楚を興すと劉裕の挙兵に従った。劉裕の死に際し傅亮、謝晦、檀道済と共に劉義符の補佐を遺言された。劉義符の廃位を進め劉義隆を即位させた。やがて専横が目立つようになり、劉義符殺害の罪を問われて自害した。
陳叔宝
553年-604年。字は元秀。陳の第5代皇帝。後主。陳頊の第1子。父陳頊の死後即位した。施文慶、沈客卿、江総ら奸臣を重用し、自らは飲酒や詩作に耽って政治を顧みなかったため、国政は乱れて国力は衰退した。隋の攻撃に降伏し、警戒されることなく余生を全うした。在位7年。