謝霊運
publish: 2021-10-28, update: 2026-08-13
385年-433年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。謝瑍の子。謝玄の孫。東晋の康楽公を継いだが、宋では侯に降格された。永嘉郡太守、秘書監、侍中を務めながらも度々辞職し詩作に没頭した。隠遁しつつも生活は豪勢で、騒乱の罪を得て広州に流刑された。道中、脱走の容疑で処刑された。
謝玄の孫と言えば名門貴族ではあるが、謝霊運の代では一族の謝混が劉裕に処刑されており、王朝交代時の移行に失敗があった。 故に、謝霊運は名門ではあったが、微妙な政治的不遇も得ていた。 とはいえ、その職歴を見れば賤吏とは言えない高級職であり、ここに彼自身の名門としての自負も見て取れる。 彼自身には才能も多かったが、性格には傲慢さがあり、このため政界に居場所を作るには至らなかった。 半ば隠棲して詩業に励んだが、名門ゆえに政界から完全に離れることもできず、その性格から処世に失敗し処刑される。
そんな彼が美を見出した先は、人間ではなく自然であった。 山水詩の祖とも言われ、既存の自然観を脱却して山水を美の対象としたことは大きな変革とされる。 また、仏教にも深く精通し、改訂、注釈を行った著書が残る。
関連
劉志
132年-168年。桓帝。後漢の第11代皇帝。蠡吾侯・劉翼の子。梁冀に擁立され、長らく梁冀の傀儡も同然の扱いを受けた。長じて梁冀誅殺を目論み、宦官の単超の助力を得て梁冀を自殺に追い込んだ。一方、宦官への権力集中が進み党錮の禁なる官僚への弾圧が始まり、対宦官の権力闘争が激化した。
李遠
507年-557年。字は万歳。李文保の子。李賢の弟。李穆の兄。鮮卑拓跋部を出自とするが隴西李氏を称した。爾朱天光、次いで侯莫陳崇の下で従軍し、宇文泰から厚遇されるようになった。宇文泰の側近として昇進を重ね、後嗣問題では宇文覚を支持した。宇文護の専断に反発して子の李植と共に処刑された。
張方
?-306年。寒門の出身だったが、関中を統治した司馬顒に仕官して累進した。以降、司馬顒、司馬穎の一派として、司馬倫、司馬乂、司馬越と戦って軍の中核を成した。後に、司馬顒の敗色が濃厚になると、謀叛の罪を着せられて司馬顒に殺害された。