謝霊運
publish: 2021-10-28, update: 2026-04-19
385年-433年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。謝瑍の子。謝玄の孫。東晋の康楽公を継いだが、宋では侯に降格された。永嘉郡太守、秘書監、侍中を務めながらも度々辞職し詩作に没頭した。隠遁しつつも生活は豪勢で、騒乱の罪を得て広州に流刑された。道中、脱走の容疑で処刑された。
謝玄の孫と言えば名門貴族ではあるが、謝霊運の代では一族の謝混が劉裕に処刑されており、王朝交代時の移行に失敗があった。 故に、謝霊運は名門ではあったが、微妙な政治的不遇も得ていた。 とはいえ、その職歴を見れば賤吏とは言えない高級職であり、ここに彼自身の名門としての自負も見て取れる。 彼自身には才能も多かったが、性格には傲慢さがあり、このため政界に居場所を作るには至らなかった。 半ば隠棲して詩業に励んだが、名門ゆえに政界から完全に離れることもできず、その性格から処世に失敗し処刑される。
そんな彼が美を見出した先は、人間ではなく自然であった。 山水詩の祖とも言われ、既存の自然観を脱却して山水を美の対象としたことは大きな変革とされる。 また、仏教にも深く精通し、改訂、注釈を行った著書が残る。
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宇文贇
559年-580年。北周の第4代皇帝。宣帝。宇文邕の第1子。宇文邕の死後即位する。皇太子時代から資質を疑問視され宇文邕から厳しく教育されたが改善されなかった。在位1年足らずで子の宇文闡に譲位した。政治への興味がなく朝廷を楊堅に一任し、北周滅亡の要因を作った。
張軌
255年-314年。字は士彦。前涼の創建者。武公。八王の乱により中央が乱れると涼州刺史を望んで赴任した。涼州に独自の勢力を築いたが一貫して西晋への臣従を貫いた。洛陽失陥以後、前趙の首都平陽の攻略の計画するが実行されなかった。病のため死去。
姚泓
388年-417年。字は元子。後秦の第3代皇帝。末主。姚興の第1子。弟の姚弼と後継争いのすえ帝位を継ぐが、その後も一族の造反が絶えず、夏や東晋の圧力の前に後秦は一気に衰退した。東晋の王鎮悪の攻撃に降伏し、建康にて処刑された。在位1年。