韓范
publish: 2026-04-20, update: 2026-04-20
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?-410年。慕容徳に従った南燕創業の臣。姚興と共に前秦の太子中舎人を務めたことが、後に後秦との和親に繋がった。劉裕が北伐したとき後秦に赴くも、援軍を得られないと知って南燕の天命を悟り東晋に降った。劉裕からは信任され南燕の旧領を委任されたが、劉穆之に謀反を告発されて処刑された。
率直な人格が見て取れる逸話がある。 慕容徳が皇帝に即位して宴を催したとき、慕容徳は自身が過去の皇帝に比べてどれほどのものかを問うた。 そこで鞠仲は夏を復興させた少康や、漢を復興させた光武帝を引き合いに出した。 鞠仲にとっては酒の席の軽口ではあった。 慕容徳は喜び、布帛千匹を与えると言ったが、あまりの褒美に鞠仲が恐懼して辞退すると、気分を損ねた慕容徳は虚言に対して虚言で返したのだと取り繕った。 半ば白けた席で韓范は、君臣共に虚妄に満ちた発言があってはならず、今の問答は君臣どちらも欺きあったものだから両方の手落ちだと諫めた。
また、東晋に降ったとき、劉裕から南燕に降伏を勧告するよう要請されたが、韓范は仕えた国を滅ぼすようなことはできないとして拒否した。 劉裕もまたその忠義を良しとしてそれ以上強要しなかった。 劉裕が広固を攻略した後、城内の民を皆殺しにしようとしたが、韓范は晋の遺民を殺せば東晋に帰服する者はいなくなると諫言した。
関連
王永
?-386年。北海郡劇県の人。王猛の子。扶風郡太守を務め幽州刺史となった。淝水の戦い以後、続発する反乱に尽力した。苻堅の処刑が河北に伝わると、苻丕を皇帝に推戴し諸国へ檄を飛ばした。晋陽を拠点として交戦したが、西燕の攻撃を受けて戦死した。
張祚
?-355年。字は太伯。前涼の第7代君主。威王。張駿の庶長子。張重華の遺詔を隠匿し自らを張耀霊の後見とし権力を掌握する。後に位を簒奪し、王を称した。乱暴で政治を顧みず人心を失ったため、張瓘・宋混らの反乱を招き殺害された。
王曇首
394年-430年。字は子陵。琅邪郡臨沂県の人。王珣の子。劉義隆に仕えて属官として昇進し、劉義隆の即位に伴って中央に入り、侍中、驍騎将軍を務めた。王華らと共に劉義隆政権の確立に務め、その功は多大であった。兄・王弘が劉義康から妬まれたとき、兵を分配することを勧めた。