南燕

(section)

publish: 2021-11-12, update: 2026-04-17

概要

名称 成立 滅亡 期間
南燕 398 410 12

南燕は慕容徳が立てた王朝。 慕容垂の死後、瓦解していく後燕の中で、黄河以南から山東半島にかけて勢力を保持した。 東晋を掌握した劉裕の圧力により、北方諸王朝は後秦を中心に緩やかな連合を成していたため、南燕も後期には後秦に臣従した。

年表

慕容徳は、前燕の皇帝・慕容儁と、後燕の皇帝・慕容垂の弟である。 慕容徳自身には宗族に対する反逆は無かったが、苻堅を殺して独立しようと慕容垂に提言するなど、元来独立心は高く、またその才覚に自負があったと思われる。 実際に、慕容徳の政治は短命政権としては比較的安定しており、戸籍の整備や、人材登用などの内政の拡充が見られる。 しかし、後燕が存続する中での統治の正統性や、経済規模の小ささなどから、南燕は北魏、後秦、東晋の圧力の間で揺れ動く小国に過ぎなかった。

独立と滅亡

398
慕容徳が燕王を称する

慕容徳は後燕において鄴以南を統括したが、慕容宝が北へ逃げ、分裂を余儀なくされたため、もはや後燕には頼むところが無いと見て燕王を称した。 皇帝を称さなかったのは後燕への配慮であろうが、後に皇帝に即位した。

410
東晋の劉裕が広固を攻略する(南燕の滅亡)

405年に慕容徳が死に、甥の慕容超が即位すると、一時の小康は失われた。

慕容徳は前秦から独立する際、妻子を長安に残したがために、反乱の罪で一族を処刑されており、後継すべき実子が居なかった。 慕容超は慕容徳の同母兄・慕容納の子であり、母である段氏は慕容超を懐妊していたために処刑を免れた。 その後、産まれた慕容超は長い浮浪を経たうえで、その境遇を知った慕容徳に迎えられた。 そのような青年期までの経験が慕容超の失政に繋がったかもしれない。 慕容超の政治には粛清や享楽が目立った。 一方で、後秦に留まっていた生母・段氏や妻・呼延氏を、後秦に臣従することで送還させることに成功していることは、慕容超の家族に対する素朴な渇望を感じさせる。

後秦との修好は東晋との敵対も誘発させ、当時、東晋で権力を掌握していた劉裕の攻撃を受け南燕は滅亡した。 慕容超は東晋にて処刑された。

系譜

  • 慕容皝

    【前燕】文明帝

    -

    • 慕容納

      【前燕】北海穆王

      -

      • 慕容超

        末主

        2

    • 慕容徳

      献武帝

      1

  • 左側が年長者
  • 数字は皇位の継承順
  • 継承に関係のない筋は省略

歴代君主

慕容徳

336年-405年。字は玄明。南燕の初代皇帝。献武帝。慕容皝の子。前燕の范陽王。前燕が滅びると前秦に降って張掖太守を任じられた。淝水の戦いで前秦が大敗すると兄・慕容垂に従って後燕の車騎将軍となる。北魏の攻撃により慕容宝が北へ逃れると、山東半島で独立し皇帝を称した。

慕容超

385年-410年。字は祖明。南燕の第2代皇帝。末主。慕容徳の兄慕容納の子。慕容垂が独立したとき長安に在留した父慕容納は処刑され母段氏は後秦、後涼へ逃亡した。後に慕容徳に迎えられた。慕容徳の死後即位するも失政が続いた。東晋の劉裕に攻撃され捕虜となったのち処刑された。

主な宗族

主な人物

段氏

生没年不詳。字は季妃。南燕の献武帝・慕容徳の皇后。 諱が伝わらず段季妃と通称する。 段儀の子。 姉の段元妃と共に才色を兼ね備えて志が高かった。 慕容徳が前秦から離反した時に嫁ぎ、後に后となった。 男子が無く慕容超を皇太子としたが、慕容超即位後は慕容超の廃位に加担し、皇太后を廃された。

段宏

生没年不詳。 南燕の尚書左僕射、後に徐州刺史。 後燕の中原喪失時に慕容徳に従った。 慕容超が即位すると公孫五楼による体制に不安を得て、慕容鍾、慕容法らと反乱した。 企ては失敗し北魏に逃れるが、後に東晋に帰順して功を成し、宋の征虜将軍、青州冀州刺史まで昇った。

慕容法

生没年不詳。南燕の中軍将軍、兗州刺史。 後に、征南大将軍、都督徐州揚州兗州南兗州諸軍事として南燕の軍事を支えた。 あからさまに慕容超を軽侮した。慕容超の即位後は不和が明確になり、慕容鍾、段宏と共に謀反するが、失敗して北魏へ逃亡した。

慕容鍾

生没年不詳。 字は道明。 慕容運の孫。 慕容制の子。 始め西燕に属して慕容永に従ったが、後に妻子を捨てて後燕に離反した。 慕容徳を補佐した南燕創業の功臣で、司徒、都督中外諸軍事、録尚書事など重職を務めた。 慕容超が即位すると失脚し、慕容法、段宏らと反乱したが失敗、後秦へ亡命した。

韓范

?-410年。慕容徳に従った南燕創業の臣。姚興と共に前秦の太子中舎人を務めたことが、後に後秦との和親に繋がった。劉裕が北伐したとき後秦に赴くも、援軍を得られないと知って南燕の天命を悟り東晋に降った。劉裕からは信任され南燕の旧領を委任されたが、劉穆之に謀反を告発されて処刑された。

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