何氏
publish: 2021-12-26, update: 2026-04-19
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?-189年。霊思何皇后。南陽郡宛県の人。何真の女子。何進、何苗の妹。屠殺業の家に生まれたが、賄賂によって後宮に入り、劉宏の寵愛を受けて劉弁を産んだ。同じく劉協を産んだ王氏を嫉視して毒殺し、劉協を養育する姑・董氏と後継を争った。董卓が劉弁を廃位すると李儒によって毒殺された。
妹は張譲の養子の妻にあたる。このため何氏一族と宦官の癒着は強く、何進がいかに宦官排斥に動いても、一族全体としては煮え切らず、その計画は宦官勢に筒抜けも同然であった。何進の配下であった袁紹はこれを危惧して何進の参内を止めさせようとしたが、不用意に参内した何進は取り囲まれて殺害されたという。何進の異父弟である何苗もこの混乱によって死んだため、結果として何氏一族の権力は一気に失陥し、宦官と親族の両方の拠り所を失った何氏本人は、董卓に対して為す術がなかった。
関連
呂婆楼
生没年不詳。字は広平。略陽郡の人。苻健が後趙から独立すると従った。侍中、尚書など高官を歴任した。苻堅の政変で王猛を推挙し、苻生の殺害に関わった。王猛、強汪、梁平老と共に王佐の才と評された。後涼の呂光は子にあたる。
斛律金
488年-567年。字は阿六敦。朔州勅勒部の人。斛律大那瓌の子。塵を見て敵の数を知り、地を嗅いで敵の距離を測ったという。破六韓抜陵に従ったが降伏して爾朱栄に帰順した。その後、高歓に従い東魏、北斉の変遷の中で自身のみならず一族を繁栄させた。咸陽郡王、左丞相。
侯莫陳崇
?-563年。字は尚楽。代郡武川鎮の人。侯莫陳興の子。爾朱栄、および賀抜岳の下で転戦した。賀抜岳が侯莫陳悦に殺害されると宇文泰を迎え入れた。宇文護の死を予想したため、宇文邕の譴責を受けたほか、宇文護の圧力を受けて自害した。