祭遵 ( さいじゅん )

publish: 2021-08-12, update: 2026-04-19

?-33年。字は弟孫。潁川郡潁陽県の人。更始政権下で県の吏だったが、容姿と態度を劉秀に気に入られ河北攻略に従った。性は温厚でありながら苛烈であった。儒者であり清廉潔白を信条とし、罪を犯した者は劉秀の一族であっても格殺した。怒った劉秀に逮捕されたが、許されて厳正さを称えられた。征虜将軍、潁陽侯。

関連

王琳

526年-573年。字は子珩。会稽郡山陰県の人。王顕嗣の子。姉妹が湘東王・蕭繹の妃となったため早くから蕭繹に信任された。王僧弁と共に侯景の乱を収めたが、江陵が西魏に陥落すると、陳霸先政権や後梁政権を認めず、蕭荘を擁立して北斉を後ろ盾とした。呉明徹の北伐に抗ったが、北斉の救援を得られず捕縛され、護送中に殺害された。

孟宗

?-271年。字は恭武。江夏郡の人。李粛に学問を学び、朱拠の属官となった。呉県令を務める間に母を亡くした。職務を放棄して喪に服したため、処刑されそうになるが陸遜の助命により減刑された。孫亮の廃位に関わり、司空まで昇った。母に筍を食べさせた逸話から孟宗竹の語源となった。

陳羣

?-237年。字は長文。豫州潁川郡許昌県の人。陳寔の孫。陳紀の子。孔融に認められて名を世間に知られた。始め劉備に仕えたのち荀彧の推挙で曹操に招聘された。曹操の魏公封爵に従って御史中丞となり、重職を歴任して司空まで昇った。人物鑑定に長けた。九品官人法を建議した。潁陰靖侯。

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