解思明 ( かいしめい )

publish: 2021-05-07, update: 2026-04-19

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?-345年。出自は不明。李寿の長史に任じられた。李寿が皇帝・李期と対立すると羅恒とともに謀り、成都を占拠して李期を廃し東晋に従属することを進言した。李寿の死後、李勢の後継として皇太弟を立てることを求めたため、李勢の怒りを買って処刑された。諫臣。

補記

李寿が政権を握るにあたって、東晋に従属することを勧める者と、自立を勧める者があった。 従属派としては、羅恒、解思明、李奕、王利らがあり、自立派としては、任調、蔡興、李艶、張烈らがあった。 李寿はこの是非を占わせると、占者は「数年の間は天子になれましょう」と告げた。 任調は「一日でも十分なのに、数年も天子いられますぞ」と喜んだのに対し、解思明は「数年の天子と、代々の諸侯のどちらが良いでしょう」と諫めた。 結局のところ、李寿の皇帝に対する意志は強く、「今は朝に道を聞かば夕べに死す時世だ」として、李寿は皇帝に即位した。

李寿が引用した言葉は、孔子の言葉「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」であり、朝、真理を聞くならば夕方に死んでも悔いはないという意味である。 ただし、異説も多く、真理を知る時間は短いことを説いて弟子を励ました言葉ともされる1

李寿は道を天子に置き換えて、皇帝となるならば数年後に死んでも悔いはないと覚悟したものである。


  1. 三省堂「今週のことわざ」より ↩︎

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慕容運

生没年不詳。慕容渉帰の子。慕容吐谷渾、慕容廆の弟。事跡に乏しいが子孫は興隆して、孫の慕容永は西燕最後の皇帝となったほか、同じく孫の慕容精、曾孫の慕容勝は姓を豆盧(とうろ)に変えて北魏から隋唐時代にかけて繁栄した。

賈復

?-55年。字は君文。南陽郡冠軍県の人。王莽政権では県令を務めた。更始政権における漢中王・劉嘉の校尉となったが、劉嘉の勧めで河北を攻略する劉秀に仕えた。生涯無敗。天下平定後は軍縮に務めた。人となりは剛毅で節義に富むと評される。左将軍、膠東侯。

阮佃夫

427年-477年。会稽郡諸曁県の人。元嘉年間に湘東王劉彧に仕えて劉彧に信任された。劉彧が劉子業に監禁されると、諸方と連絡を取り合って劉子業の廃位を計画、実行した。対抗する反乱には軍を率いて転戦した。劉彧の死後、劉昱の廃位を実行したが失敗し処刑された。

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