景丹
publish: 2021-08-15, update: 2026-04-19
?-26年。字は孫卿。馮翊櫟陽県の人。王莽の頃、上谷郡の吏を務め、劉玄の即位に伴って上谷郡の長史となった。劉秀に従うと偏将軍、奉義侯となり河北平定で大きな功を成した。呉漢に次ぐ軍権を持った。蘇況の討伐を病を押して遂行し、そのまま没した。驃騎大将軍、櫟陽侯。
関連
李績
生没年不詳。字は伯陽。范陽郡の人。李産の子。後趙の范陽郡功曹を務めた。後趙が混乱すると自立した王午に従い主簿となった。父・李産は既に前燕に降伏しており、節義を重んじた王午によって郷里に返され慕容儁に仕えた。昇進を重ねたが、慕容暐の不興を買って章武郡太守に左遷された。
王弥
?-311年。字は子固。王頎の孫。洛陽を留学したとき劉淵と親交を深めた。劉柏根が東莱で挙兵するとこれに従った。劉柏根の死後は青州、徐州を中心に反乱を継続するが、まもなく劉淵に従った。西晋の洛陽を陥落させ、大将軍、斉公まで昇るも、石勒と対立し誅殺された。飛豹と称された。
王融
467年-493年。字は元長。名門貴族である琅邪王氏の出身。王道琰の子。竟陵八友の一人。蕭賾の死後、蕭子良を擁立するが、蕭子良に即位の意思はなく、蕭鸞が蕭昭業を奉じて強く反対したため、蕭昭業の即位の後、逮捕され、ほどなく自殺を命じられた。