劉楨
publish: 2021-08-11, update: 2026-04-19
?-217年。字は公幹。東平郡寧陽県の人。劉梁の孫。曹操の辟召に応じて丞相掾属、平原侯庶子、五官将文学を務めた。曹丕、曹植と親交したが、曹丕の夫人・甄氏を平視した不敬で朝歌県県令に左遷された。誠実で才能があるが自制や遠慮に乏しいと王昶に評された。病没。著作は『詩品』に残る。
平原侯庶子の庶子は妾の子の意味ではなく役職のこと。平原侯は当時の曹植の爵位で庶子はその下に設置された。同様に五官将文学は、曹丕が務めた五官中郎将の内部に設置された文学という役職を意味する。
関連
劉喬
249年-311年。字は仲彦。南陽郡安衆県の人。劉阜の子。前漢の長沙王・劉発の末裔。王戎の属官となり呉征伐の功で滎陽県令となった。楊駿の誅殺や賈氏の排斥に協力し昇進を重ねた。豫州刺史として張昌の乱を鎮め、承制する司馬越に反発した。司馬越が実権を握ると許されたが、司馬越の死後、石勒の攻撃により捕縛、処刑された。
王梁
?-38年。字は君厳。漁陽郡要陽県の人。彭寵から狐奴県県令代行とされた。河北を攻略する劉秀に従い、野王県県令を務めて洛陽方面を守備した。劉秀の即位時に大司空に抜擢され、中郎将、執金吾を歴任した。軍法違反や運河工事の失敗など度々蹉跌した。河南尹、阜成侯。
石弘
313年-334年。字は大雅。後趙の第2代皇帝。海陽王。石勒の次子。石勒の死後、石虎を恐れて帝位を譲ろうとするも、石虎に拒まれて強制的に皇帝に即位した。しかし、実質は石虎の傀儡であり石虎の権力掌握は進んだ。その後、石虎によって廃位され殺害された。在位1年。