劉喬 ( りゅうきょう )

publish: 2021-12-05, update: 2026-04-19

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249年-311年。字は仲彦。南陽郡安衆県の人。劉阜の子。前漢の長沙王・劉発の末裔。王戎の属官となり呉征伐の功で滎陽県令となった。楊駿の誅殺や賈氏の排斥に協力し昇進を重ねた。豫州刺史として張昌の乱を鎮め、承制する司馬越に反発した。司馬越が実権を握ると許されたが、司馬越の死後、石勒の攻撃により捕縛、処刑された。

正論を好む人物だったようである。 司馬冏が嵆紹を下にも置かない厚遇をしたとき、劉喬はこれを諫めて止めさせた。 嵆紹は唐突な扱いの変化に戸惑い劉喬に相談すると、劉喬は「正人からの忠言があり、特別待遇に値しないと悟られたのです」と答えた。 嵆紹は訝しげに「その正人とは誰か」と問うと、劉喬は「近くにいるでしょう」と言ったので、嵆紹は閉口したという。

また、司馬冏が朝廷を統括してその腹心の董艾が政治を専横したとき、劉喬はこれを真っ向から弾劾すること6回におよび、煙たがられた董艾によって左遷された経緯がある。 司馬越が司馬顒に反発したとき、司馬越は承制して勝手な人事を布告したが、劉喬はことごとく服さなかったために、かえって司馬顒の急先鋒として司馬越と戦った。 劉喬はもともと司馬顒の長安遷都に反発し、皇帝奪還を目指して兵を起こしていたため、この敵対は全く本意ではなかったに違いない。 自らが信条とする勤皇と形式が一致せず、自縄自縛となった劉喬の苦悩である。

後に司馬越からは許されており、そもそも、楊氏や賈氏の排斥にも加担しながら罪を得ず、正論を論じながら身を滅ぼさなかった背景には、時の正義に忠実ではあるが、権力には染まりきらない割り切った態度が見て取れる。 なかなか凡人にはできないことをやる人ではあるが、人間関係の距離感がおかしい変人とも言える。 一方で、司馬越亡き後は石勒に対して為す術なく、若干大略に欠けた傾向も感じられ、良くも悪くも官僚的であったと言えよう。

関連

李蕩

?-303年。字は仲平。李特の子。父に従って益州に入り、李特が羅尚と対立すると共に戦った。羅尚の奇襲により李特が戦死した後も、李流の指揮下で抗戦した。羅尚の勢力を覆す善戦をしたが傷がもとで没した。学問に通じ容姿が美しかった。

袁紹

?-202年。字は本初。汝南郡汝陽県の人。何進の属官となって以後、昇進して西園八校尉など務めた。何進の死後、宦官を排斥し、董卓と対立すると冀州を拠点に群雄として割拠した。河北四州を統べて一大勢力を築くが、官渡の戦いで曹操に敗北して以降は衰退した。勢力回復に奔走するなか病没した。

慕容策

386年-398年。濮陽王。慕容宝の子。美少年と記録が残る。父・慕容宝からは愛され、慕容会が太子から廃されると新たな太子として立てられた。段速骨、および蘭汗が反乱すると、擁立されたが、間もなく殺された。

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