王戎
publish: 2021-04-24, update: 2026-04-19
234年-305年。字は濬沖。王雄の孫、王渾の子。琅邪王氏。魏、晋の官職を歴任した。呉討伐の一軍を率いるなど大きな功績を残す一方で、職権乱用、軍法違反、贈賄などの容疑を受けた。処世に巧みで、積極的に政治力を発揮しないことで寿命を全うした。竹林の七賢の一人に数えられる。
関連
王元姫
217年-268年。東海郡郯県の人。王粛の娘。司馬昭の妻。司馬炎の母。幼くして礼節と孝行を持ち合わせ祖父の王朗からは男子でないことを惜しまれた。鍾会の禍を予見した。没後も質素と謙譲の姿が偲ばれ、その都度親族の女性への追贈がなされた。諡は明。文明皇后。
趙廞
?-301年。字は叔和。祖先は張魯に従ったが、張魯が曹操に降伏してから趙に移った。県令、郡太守を歴任して司馬倫からの評価を得、益州刺史、大長秋まで昇った。賈氏が誅殺されると婚姻関係にあった自らの立場を危ぶみ、李特ら流民を私兵として益州の占有を図った。配下の鎮撫に失敗し李特の攻撃を受け横死した。
拓跋鬱律
?-321年。代の第4代王。拓跋弗の子。拓跋猗盧の死後、相続が混乱すると代王に擁立された。各地へ遠征し西は烏孫、東は勿吉を攻略し、鮮卑を北方最強たらしめた。前趙、後趙とも敵対し、前涼の朝貢を受け、東晋の爵位を拒絶した。拓跋猗㐌の妻・惟氏に殺害された。