王戎 ( おうじゅう )

publish: 2021-04-24, update: 2026-04-19

234年-305年。字は濬沖。王雄の孫、王渾の子。琅邪王氏。魏、晋の官職を歴任した。呉討伐の一軍を率いるなど大きな功績を残す一方で、職権乱用、軍法違反、贈賄などの容疑を受けた。処世に巧みで、積極的に政治力を発揮しないことで寿命を全うした。竹林の七賢の一人に数えられる。

関連

斛律金

488年-567年。字は阿六敦。朔州勅勒部の人。斛律大那瓌の子。塵を見て敵の数を知り、地を嗅いで敵の距離を測ったという。破六韓抜陵に従ったが降伏して爾朱栄に帰順した。その後、高歓に従い東魏、北斉の変遷の中で自身のみならず一族を繁栄させた。咸陽郡王、左丞相。

慧遠

334年-416年。姓は賈。雁門郡楼煩県の人。釈道安を師として出家した。前秦との戦乱を尋陽郡柴桑県に避け、廬山に入って以後30年間、山を下りなかった。白蓮社なる念仏結社を創り中国浄土宗の祖となった。仏法は王法に従属しないと説き、桓玄と意見を対立させた。

元賛

生没年不詳。広平王。元悌の子。北魏の広平王を継ぎ、驃騎大将軍、開府儀同三司となった。叔父にあたる孝武帝・元脩が関中に入るとこれに従った。元脩が宇文泰に殺害されると皇帝に擁立する動きがあった。司徒、太尉、司空を歴任した。尚書・元烈が宇文泰に殺害されると、不満を漏らす元欽を泣いて諫めた。

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