王経
publish: 2026-04-27, update: 2026-04-27
?-260年。字は彦緯。冀州清河郡清河県の人。農家の出身だが曹丕の代に名士として名を知られた。軍事には明るくなく姜維の北伐に大敗して陳泰から批判を受けた。魏の司隷校尉、尚書まで昇ったが、甘露の変にて曹髦に近侍し続けたため反逆罪に問われて処刑された。後に司馬炎によって名誉を回復された。
三国名臣頌に魏の名臣の一人として数えられた。 なお、同頌において字は承宗として残る。
かつて王経が江夏太守であった頃、大将軍・曹爽が私的に絹を王経に贈った。 しかし、王経はこれを禍の元と見て、すぐに職を辞して帰郷した。 このとき王経の母は子の職務放棄を詰問して王経を棒で叩く一方で、分に過ぎた官位は災いの元であるから出仕は控えよと忠告した。 その後、王経は雍州刺史を経て中央へ召還されたところで甘露の変に遭った。 王経は司馬氏一党を除こうとする曹髦をひたすら諫めた。 多くの者が曹髦の下を去ってその振る舞いを司馬昭へ報告したが、王経だけは曹髦の下にあって説得を試みた。 この姿勢が反逆罪に見なされた。 王経は処刑に際して、母にかつての忠告を無視して出仕し、結果として災いをその身に受けることになったことを詫びた。 しかし、王経の母は相応しい死に場所を得たのだとして微笑んだという。
司馬炎は王経の仁徳と忠孝を評価して、その子孫を取り立てた。
関連
陶侃
259年-334年。字は士行。陶丹の子。劉弘に招聘されて張昌の乱を皮切りに江南に続出した反乱を鎮圧した。やがて江南を支配する司馬睿に帰順すると、杜弢、王敦、蘇峻の乱で功を成し西府軍団の母体を築いた。晩年は襄陽を回復した。朝廷への干渉を慎み続けた。病没。
陳頊
530年-582年。字は紹世。陳の第4代皇帝。宣帝。陳霸先の兄陳道談の第2子。陳蒨の死去にあたって劉師知や到仲挙らとともに陳伯宗の補佐を託されるが、劉師知や到仲挙を排除して陳伯宗を廃位し、皇帝に即位した。内政に力を注いだが、北斉を滅ぼした北周に圧迫された。在位13年。
桓温
312年-373年。字は元子。桓彝の子。庾翼の後を継いで西府を統括した。成漢の討伐、中原の回復、大規模な土断に成功して、東晋史上最大級の功を成した。司馬奕を廃して司馬昱を擁立し、簒奪の準備を進めたが、謝安らの反対に遭い禅譲は実現しなかった。病没。