楊震
publish: 2021-08-15, update: 2026-06-25
54年-124年。字は伯起。弘農郡華陰県の人。楊宝の子。前漢の楊喜を祖とする名家の出身。長らく仕官せず50歳で鄧騭の推挙を受けた。荊州刺史、東萊太守などを歴任し、中央に召されて太僕、太常、太尉を務めた。鄧氏の失脚後は王聖、伯栄、閻顕、耿宝、樊豊ら佞人の讒言を受け免官、蟄居した。自害。
楊震は、贈賄や縁故主義を徹底して拒絶した。賄賂の受け取りを拒否する逸話は、四知の故事成語となった。いわゆる「天知る地知る~」のことわざである。しかし、その姿勢は当時の時代背景を些か逸脱するものだったと言えなくもない。楊震の働きによって多くの名士が登用され朝廷の質が一新されたが、その背景には外戚や宦官の放恣があったからに他ならない。処世を顧みない真っ直ぐな性格は、結果として免官、蟄居、自害という結果をもたらした。葬儀は許されず棺は放置された。一族は庶民に落されたが、順帝・劉保の代に改葬と復職が許された。
西晋以後、一族は北朝の高官を輩出した。後世、隋の楊堅は楊震を祖と称した。
関連
侯景
503年-552年。字は万景。侯標の子。出身は定かではない。爾朱栄の部将として頭角を現した。爾朱栄の死後は高歓に従って河南大行台を務めて河南の軍事を監督した。高澄に疑われて謀反し、後に侯景の乱と呼ばれる中華全土の勢力図を書き換える契機を作った。建康陥落後に皇帝を称するが、王僧弁らに追われて敗死した。
杜洪
?-352年。京兆郡の人。冉閔と石祗が対立すると、王朗、麻秋は長安から洛陽に入ったため、張琚と共に関中を占拠した。枋頭から関中攻略を目指して西進する苻健に敗れ、司竹、宜秋に逃れた。張琚によって殺害されたとも、苻健の攻撃によって敗死したともある。
李輔
?-303年。字は玄政。李慕の子。李特の長兄。巴氐族の出身。略陽郡臨渭県の人。斉万年の乱が起きると一族が蜀へ避難するなか実家に留まった。趙廞が乱を起こすと弟たちと合流し乱を鎮めた。李特が自立を強めて羅尚と対立すると驃騎将軍となったが、羅尚の奇襲を受けて李特と共に戦死した。