楊震 ( ようしん )

publish: 2021-08-15, update: 2026-04-19

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54年-124年。字は伯起。弘農郡華陰県の人。楊宝の子。前漢の楊喜を祖とする名家の出身。長らく仕官せず50歳で鄧騭の推挙を受けた。荊州刺史、東萊太守などを歴任し、中央に召されて太僕、太常、太尉を務めた。鄧氏の失脚後は王聖、伯栄、閻顕、耿宝、樊豊ら佞人の讒言を受け免官、蟄居した。自害。

楊震は、贈賄や縁故主義を徹底して拒絶した。賄賂の受け取りを拒否する逸話は、四知の故事成語となった。いわゆる「天知る地知る~」のことわざである。しかし、その姿勢は当時の時代背景を些か逸脱するものだったと言えなくもない。楊震の働きによって多くの名士が登用され朝廷の質が一新されたが、その背景には外戚や宦官の放恣があったからに他ならない。処世を顧みない真っ直ぐな性格は、結果として免官、蟄居、自害という結果をもたらした。葬儀は許されず棺は放置された。一族は庶民に落されたが、順帝・劉保の代に改葬と復職が許された。

西晋以後、一族は北朝の高官を輩出した。後世、隋の楊堅は楊震を祖と称した。

関連

陳琳

?-217年。字は孔璋。広陵郡射陽県の人。何進の主簿を務めた。何進が各地の将軍を召集したとき反対した。何進の死後は冀州に逃れて袁紹に仕えた。官渡の戦いを前にして曹操を中傷する檄文を書いた。後に檄文は蕭統が編纂した『文選』に名文として収められた。病没。

王鎮悪

373年-418年。北海郡劇県の人。王猛の孫。王休の子。前秦が崩壊して関中が混乱すると、叔父の王曜に従って東晋へ亡命した。武芸は不得意だったが学問には優れ、推薦を受けて劉裕に仕えた。劉裕の北伐に大きく貢献した。沈田子の救援に譴責をもって応えたため、沈田子の不信を買って殺害された。

夏侯玄

209年-254年。字は太初。豫州沛郡譙県の人。夏侯尚の子。昌陵郷侯。太常まで昇る。若くして名声を高めて曹叡からはその軽薄さを嫌悪された。興勢の役として蜀へ出兵するが成功しなかった。九品官人法の実務を批判した。李豊、張緝らと司馬氏一党を除く政変を企み露見して処刑された。

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