王祥
publish: 2021-08-06, update: 2026-04-19
185年-269年。字は休徴。琅邪郡臨沂県の人。王融の子。伯父・王叡が孫堅に殺害されると一族と共に廬江へ逃れ、以後仕官を固辞し続けた。60歳を過ぎて徐州刺史・呂虔の招聘に応じ別駕となった。以降、経歴は温県令に始まり大司農まで昇り魏の重臣となった。西晋では太保、睢陵公まで昇った。
王祥は二十四孝に選ばれる人物で、親孝行の逸話が残る。王祥は実母を早くに亡くし継母の朱氏に育てられたが、この継母には疎んじられて愛されなかった。それでも、王祥は恭しく朱氏に接した。王祥が凍り付く川から魚を取る話は歌川国芳によって浮世絵として描かれている。王祥に対する朱氏の悪意は、王祥の毒殺を試みるほどであったというから、王祥の姿勢は親孝行というよりは継母に殺されないための処世術とも受け取れる。これを孝行と捉えるかは、儒教思想が根強い当時の時代背景を鑑みなければならない。
また、王祥は魏が滅亡し西晋に入っても高位に上った人物ではあるが、本人は魏の臣として本分を貫いた。司馬昭によって曹髦が暗殺されたとき、王祥は慟哭して自らの無力を嘆いた。その様に、周囲の余人は恥じ入ったという。司馬昭が晋王となると王祥は荀顗ともに謁見に赴いたが、謁見に望んで荀顗は「晋王には拝礼を行うべきでしょう」と王祥に相談した。しかし、王祥は「晋王は貴いが我らと同じ宰相職であり、拝礼を行えば魏の名望と晋王の徳を損なう」と言い、結局拝礼を行わなかった。これを受けて司馬昭は王祥に重く見られていることを知り、かえって王祥は司馬昭の信任を得た。
死後、同族の王戎は故人を偲んで「清らか」と評した。
直系の子孫は伝わらず、家系は弟・王覧の系統が栄え、東晋の王導や書聖の王羲之を輩出している。王覧は前述の継母の毒殺未遂から王祥をかばった異母弟であり、王祥はかねてより王覧を見込んで「お前の子孫は興隆するだろう」と遺言し、かつて呂虔から拝領した剣を与えた。
関連
蕭子良
460年-494年。字は雲英。竟陵王。蕭賾の第2子。斉代随一の文化人で各種の書物や仏典に通じた。自邸である鶏籠山の西邸には当時の文人たちが多く集まり、著名人は竟陵八友と称される。蕭賾の死後、王融らに擁立される動きがあったが、権力闘争を避け実現しなかった。間もなく死去。
李勢
?-361年。字は子仁。成漢の第5代皇帝。李寿の子。李寿が死去するとその後を継いだ。政治を顧みなかったため国を乱し、ついに東晋の攻略を受ける。大司馬桓温を自ら迎撃するが連戦連敗を喫し葭萌城にて降伏した。在位5年。東晋より帰義侯に封じられ建康で没した。
封奕
?-365年。字は子専。渤海郡蓨県の人。封悛の子。祖父の封釈は西晋の侍中であり、東夷校尉として遼東一帯を管轄した。幼少より慕容廆と面識を深め、早くから前燕の黎明に携わった。国相を務めて官吏の筆頭となり、前燕の中原進出を支えた。慕容儁が皇帝に即位すると太尉に任じられた。病没。