夏侯玄 ( かこうげん )

publish: 2026-05-04, update: 2026-05-04

209年-254年。字は太初。豫州沛郡譙県の人。夏侯尚の子。昌陵郷侯。太常まで昇る。若くして名声を高めて曹叡からはその軽薄さを嫌悪された。興勢の役として蜀へ出兵するが成功しなかった。九品官人法の実務を批判した。李豊、張緝らと司馬氏一党を除く政変を企み露見して処刑された。

三国名臣頌に魏の名臣の一人として数えられるが、評価が明暗する人物である。

夏侯玄が曹叡に謁見した際、同席した毛曾(毛皇后の弟)に対して不快を示したため曹叡の不興を買った。 美男子であった夏侯玄に対して毛曾の風采は優れなかったため、夏侯玄が世間の風評を気にしたのだという。 夏侯玄は鄧颺、諸葛誕、李勝らと親しく交際し、互いに称号を付けて四聡、八達、三豫などを自称した。 曹叡はこれらの勢力を浮華の徒と呼んで忌み嫌い、免職して官吏の資格をはく奪した。 また、傅嘏からは器量を越えた野心を持って道徳から外れていると評された。 曹芳の代に散騎常侍、中護軍となったが、後任の司馬師に代替わりするまで賄賂が横行した。

自己顕示欲や承認欲求を強く出して、自らの経歴、人脈、努力を演出するものの、その実、行動や人格が伴わない例は、いつの時代にもある人間の本性であり、その欲を責めることはできない。 盧毓が曹叡に述べているように、名声が先行しても勉学して生来の人格を矯正することで、名声と内実は一致するようになる。 夏侯玄もまた名声が先行しつつも内実を追いつかせた人ではなかったか。

夏侯玄は施政者としてよりも、むしろ著述家や学者としての経歴がふさわしかったかもしれない。 著書には『楽毅論』『張良論』『本無肉刑論』があり、その文章は明快で、『楽毅論』は後世に王羲之が書写した。 夏侯玄に対して、何晏はその造詣を絶賛し、荀粲はその人物を英傑と賞し、和嶠はその人柄を敬慕した。 李豊は夏侯玄に心酔したからこそ夏侯玄を擁立して政変を謀った。 廷尉・鍾毓の取り調べにおいて夏侯玄はただ肯くのみで黙秘を貫き、堂々とした態度で腰斬に処された。 後年、蜀を攻略した鍾会は諸葛誕や夏侯玄でも姜維ほどではなかったと述懐し、姜維への尊敬と共に夏侯玄への評価の高さが窺い知れる。

関連

徐幹

171年-218年。字は偉長。北海郡劇県の人。建安の七子の一人。貧しい旧家に生まれた。品行が良く、文章に優れて司空軍師祭酒掾属、五官将文学を務めた。著作『中論』は曹丕から絶賛され、一家の言を成したと評された。病没。

拓跋什翼犍

318年-376年。代の第10代王。拓跋鬱律の子。拓跋翳槐の弟。若年を後趙の人質として襄国、鄴で過ごした。在位は38年の長期にわたり、安定した治世は代の最盛期を作った。後趙、前燕の滅亡時はいずれも南進しなかった。前秦の攻勢が強まると病により諸族の統率が弱まり、拓跋斤に唆された拓跋寔君に殺害された。

苻洪

284年?-350年。字は広世。元の姓を蒲とする。氐の出身。前趙、後趙に従い、石虎の代には使持節、都督六夷諸軍事、冠軍大将軍を受任し、西平郡公に封じられた。石虎の死後は冉閔と対立し、関中一帯に自立したが、麻秋に毒殺された。その勢力は子の苻健に引き継がれ、前秦の実質的な創建者と捉えられる。

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