鄧羌
publish: 2022-03-27, update: 2026-04-19
章節
標籤
生没年不詳。安定郡の人。前秦に仕官して苻生の治世に将軍となった。姚襄を敗死せしめ、張蚝、劉衛辰を捕縛した知勇兼備の将で、苻堅に近侍して万人の敵と評された。清廉で法整備に明るく御史中丞として綱紀粛正に貢献したほか、その剛直な性により苻生や王猛へも諫言した。
代の滅亡後、并州刺史を最後に事績は途絶え、前後に没したと考えられる。
関連
宇文貴
?-567年。字は永貴。昌黎郡棘城県の人。宇文莫豆干の子。夏州で育ち、学問に馴染めず軍功を志したという。夏州刺史・源子邕の下で、破六韓抜陵、葛栄らと戦った。源子邕の戦死後は爾朱栄政権で昇進し、元脩が関中に入ると従って、宇文泰からは同族として信任された。許国公まで昇った。阿史那皇后を迎えて帰還中に没した。
劉植
?-26年。字は伯先。鉅鹿郡昌城県の人。王郎が挙兵して河北が揺れたとき、昌城県を守って劉秀を迎え入れた。真定王劉楊との婚姻外交を行い、郭聖通との縁組を成立させた。これにより劉秀の河北における地盤を固めた。驍騎将軍、昌城侯。
王鎮悪
373年-418年。北海郡劇県の人。王猛の孫。王休の子。前秦が崩壊して関中が混乱すると、叔父の王曜に従って東晋へ亡命した。武芸は不得意だったが学問には優れ、推薦を受けて劉裕に仕えた。劉裕の北伐に大きく貢献した。沈田子の救援に譴責をもって応えたため、沈田子の不信を買って殺害された。