袁術
publish: 2021-11-23, update: 2026-04-19
155年-199年。字は公路。汝南郡汝陽県の人。袁逢の子。名門出身で孝廉を経て河南尹など務めた。何進の暗殺を機に宦官を誅殺するが、董卓が入朝すると禍を恐れて南陽を実効支配した。曹操らと争って拠点を寿春へ移し、皇帝に即位して国号を仲とした。失政と外患により国威は失せ、病死した。
袁紹は異母兄、または従兄とされるが定かではない。 いずれにしても、董卓政権の中で袁氏の有力人物の多くが処刑されたため、袁術が袁紹を差し置いて袁氏の総領としての立場を自任していたことは確からしい。 このことは、袁紹を妬んで度々中傷していたことや、結果として袁氏が一致団結しなかったことで、董卓死後の群雄の外交を複雑なものにしている。 呂布への援助や、孫策の後援を行ったが、呂布は敗亡し、孫策は離反するなど、その経略はことごとく失敗した。
性格は横柄、生活は豪奢であり、善政を布かずに帝位を維持したため、配下の豪族や軍閥は離反し、最終的には半ば自壊した。 袁術は帝位を袁紹へ譲り、代わりに庇護を得ようとした。 袁紹もまた哀れに思ったものか、青州刺史の袁譚に迎えさせたが、袁術の北上を察知した曹操、劉備の勢力に阻止された。
袁術の死後、一族の袁胤が後を継いだが、勢力は保持し得ず、廬江太守・劉勲に保護された。 後に、孫策が勢力を台頭させると、その保護に入り、袁術の娘は孫権の側室となった。 断絶した袁紹とは対称的に、おおよそ、亡国の末裔としては厚遇されたといえよう。
関連
劉毅
?ー412年。字は希楽。小字は盤龍。沛郡沛県の人。徐州で任官して桓弘の属官となった。桓玄が楚を立てると劉裕、何無忌と共に挙兵して江北を制圧した。東晋復興と続く盧循の乱で功績を残したが、自負が強く劉裕と折り合わず、劉裕から謀反の嫌疑をかけられて自害した。
苻法
?-357年。字は永則、幼名は阿法。苻雄の庶長子。清河王。苻生殺害の政変を決行し、弟の苻堅に皇帝即位を促した。憚った苻堅は皇帝ではなく大秦天王を称した。賢明で人望があったがゆえに、苻堅の生母・苟氏に猜疑され賜死を受けた。
劉淵
?-310年。字は元海。前趙の創建者。光文帝。南匈奴の出身。於夫羅の孫、劉豹の子。司馬昭に厚遇を受けるも罪の連座により罷免される。司馬穎より招聘を受けて復職したのち独立して前趙を建てた。八王の乱で混乱する西晋の中原一帯を圧迫し続けた。病没。在位6年。