慕容麟
publish: 2021-10-19, update: 2026-04-19
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?-398年。後燕の趙王。慕容垂の庶子。参合陂の戦いでは配下の慕輿嵩が擁立騒ぎを起こすなど、敗北の一因を作った。中山にて反乱を起こすが失敗して太行山に逃れ、慕容詳の悪政を機会にして慕容詳を攻め自ら即位した。北魏に攻められると鄴の慕容徳を頼った。後に造反し慕容徳に処刑された。
後燕きっての危険人物である。
慕容垂が前秦へ亡命した理由は、叔父・慕容評、および皇太后・可足渾氏との対立のためであった。 当初、慕容垂は可足渾氏との和解に努めており、亡命前夜とも言えるタイミングで、慕容垂は龍城に向かって疑惑を解こうと計画していた。 ところが、慕容麟は鄴へ引き返すと亡命の計画を暴いてしまったため、慕容垂は亡命せざるを得なくなってしまった。
また、亡命後、兄・慕容令が王猛の策略で誤って前燕に帰国すると、慕容令は沙城にて反乱を計画したのだが、慕容麟が慕容亮に密告したため、慕容令は慕容亮に殺されてしまった。 前燕の滅亡後、慕容麟の母は処刑され、慕容垂からは縁を切られたが、後に、再び慕容垂の信用を得るようになっている。
参合陂の戦いでは拓跋珪が慕容垂の訃報を流し、慕容麟の配下・慕輿嵩を唆して慕容麟を擁立させようと謀略した。 この計画自体は失敗したが、慕容宝と慕容麟には亀裂が生まれ敗北の遠因となった。 拓跋珪が慕容麟の人間性を見抜いて謀ったものかは分からないが、少なくとも人を見る目、配慮の点では、慕容垂よりも拓跋珪が上回っていたと言えるかもしれない。
その後、再び慕容宝の信頼を得たというから、人たらしにもほどがある。 しかし、任地の中山では北魏との戦いを避け、慕容農と慕容隆の反感を買っており、後燕の勢力が衰退するに連れて保身に動き出したのは間違いないであろう。 中山にて反乱を起こし、これは失敗するものの、慕容詳が僭称して失政すると、この後釜を狙って攻め、皇帝に即位した。
しかし、北魏に対抗することはできず、鄴に駐屯した慕容徳を頼り、慕容徳に皇帝即位を薦めた。 これが南燕の始まりである。 ここでも、慕容麟は慕容徳に信任されており、どこまでも人につけ入るのが上手い人間であった。 だが、結局その浮ついた悪癖も抜けなかったのであろう、やがて、造反を企んで処刑された。
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司馬睿
276年-323年。字は景文。東晋の初代皇帝。元帝。司馬懿の曾孫、司馬伷の孫。父司馬覲が死去すると琅邪王を継ぐ。鄴で司馬穎の監視下に置かれたが脱出して琅邪に帰還した。王導の献策に従い建業へ移った。愍帝が殺害されると皇帝に即位した。五馬王の筆頭。病没。在位6年。
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生没年不詳。字は令姜。謝奕の子。謝玄の姉。謝安の姪。王凝之の妻。才女として知られる詩人。降りしきる雪を風に舞う柳の花に例えて謝安を感嘆させた。柳絮(詠雪)の才の故事成語となる。孫恩の乱では賊を切り殺す気性の激しさを持った。夫とは不仲であった。
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430年-464年。字は休龍。劉宋の第4代皇帝。孝武帝。劉義隆の第3子。皇太子であった兄劉劭が劉義隆を殺害すると、これを打つべく挙兵、皇帝に即位し、建康を陥落させ劉劭を処刑した。寒門を登用して中央集権を進めたが、残虐な一面も多く国を疲弊させた。在位11年。