後燕

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publish: 2021-11-23, update: 2026-04-13

概要

名称 成立 滅亡 期間
後燕 384 407 23

後燕は慕容垂が建てた王朝。 前秦の残党を吸収して一時は前燕の再興を彷彿とさせる失地の回復を成したが、慕容垂の死後は衰退し中原を失った。 以後は、遼東、遼西を保持する小国として存続するも、親高句麗政権の北燕への移行をもって滅亡した。

主な出来事

背景

慕容垂は前燕の初代皇帝・慕容儁の弟であり、前燕を支えた皇族の一人だったが、内訌によって前秦に亡命した。 前秦において一定の厚遇を得た慕容垂だが、苻堅の理想に過ぎた民族融和の姿勢を、危うい隙として見たのであろう。 東晋への出師において朝議が反対を占める中、慕容垂はあえて賛成して淝水の戦いを決定づけた。 慕容垂は内心では苻堅を驕気と評して、慕容部再興の兆しに喜んだという。

果たして、淝水の戦いで前秦が大敗すると、前秦の国内は瞬く間に動揺した。 ただし、慕容垂は前秦に代わって天下を求める冷徹な大局眼は持たなかった。 淝水の戦いにおいて敗退する苻堅を保護して国内まで撤退させたのは慕容垂であるし、苻堅を殺して自立しようと弟・慕容徳に持ちかけられても慕容垂はこれに応えなかった。 慕容垂は鄴に駐屯すると苻丕と争って燕王を称して自立するが、それでもなお皇帝を称さずに前秦への従属の姿勢を見せた。 これには、慕容垂自身が嫡流ではないために慕容暐や慕容泓の勢力に憚ったであろうことと、個人的な苻堅への恩義があったと思われる。

独立

384
慕容垂が独立し後燕を立てる

一般に、後燕の成立は慕容垂が燕王を称した時点とされる。 384年に慕容暐が苻堅によって殺され、385年に苻堅が姚萇によって殺されると、年が明けて386年に慕容垂は皇帝に即位した。その後、鄴の苻丕を晋陽に追いやり、黄河南岸に割拠する翟魏、山西の西燕を滅ぼして、東晋からも山東半島を奪還するなど、かつての前燕に匹敵する領土を回復した。

395
参合陂の戦いに敗れる

当初、後燕は北魏と友好関係にあったが、その友好の利益を享受した北魏が徐々に影響力を拡大させると、西燕の衰亡を巡って両者は完全に敵対した。 西燕を滅ぼした後燕は次いで北魏へ出軍するが、後燕は参合陂において北魏に大敗を喫する。

この頃、慕容垂は齢七十に達しようとする高齢の病人であり、10万という万全の大軍を擁しつつも、その総大将は皇太子・慕容宝であった。 慕容宝にとっては偉大な父の容体は常に気にかかる問題であり、万が一にも出陣中に父が崩ずるようなことがあれば、後継の諸問題から戦どころではなくなる不安を抱えていた。 参合陂の戦いの成否は、まさにこの枢機と機微を北魏の拓跋珪が知っていたことによる。 この敗北に焦った慕容垂は、病をおして親征し、翌年、北魏の首都・平城を攻略、拓跋珪を敗走させるが、その陣中にて没する。

407
慕容熙が馮跋に殺される(後燕の滅亡)

慕容垂の死後、後燕はまとまりを失った。慕容垂の死を好機と見た北魏は、徐々に後燕の国境を侵した。 後燕では慕容会、慕容詳、慕容麟らの反乱が相次ぎ、慕容宝自身も北魏の攻勢に耐えられず、龍城に遷都して中原を完全に失った。 このとき、滑台において未だ余力を残した慕容徳は燕王を称し後燕は分裂した。

以後、後燕は故郷とも言うべき遼東、遼西に割拠する辺境政権として存続するも、慕容部の明らかな没落を呈しては、もはや人心の収攬は難しかった。 慕容宝は中原回復の望みを持ちつつも配下の蘭汗らに殺害され、蘭汗は擁立した慕容盛に殺されるという泥沼の後継劇を繰り広げる。 慕容盛は聡明だったが厳格さが災いして、反乱の騒ぎに横死する。 その後を継いだ慕容熙は半ば政治への興味を失っており、馮跋に殺される。 慕容熙の死をもって後燕の滅亡とし、その勢力は北燕へ引き継がれる。

系譜

  • 慕容皝

    【前燕】文明帝

    -

    • 慕容垂

      成武帝

      1

      • 慕容宝

        恵愍帝

        2

        • 慕容盛

          昭武帝

          3

      • 慕容熙

        昭文帝

        4

  • 左側が年長者
  • 数字は皇位の継承順
  • 継承に関係のない筋は省略

蘭汗は慕容宝を殺して昌黎王を称しているが、皇族ではなく政権も三ヶ月という短期間であるため、ここでは皇帝や君主には数えない。

歴代君主

慕容垂

326年-396年。字は道明。後燕の創建者。成武帝。慕容皝の第5子。桓温の北伐を撃破した。慕容恪の死後、慕容評との確執を恐れ前秦に亡命した。淝水の戦い以後前秦から独立し後燕を建てた。翟魏、西燕を滅ぼした。北魏に出兵したおり陣中で病没。在位13年。

慕容宝

355年-398年。字は道祐。後燕の第2代皇帝。恵愍帝。慕容垂の第4子。参合陂の戦いで大敗し衰亡の端緒を作った。慕容垂の死後一族の内紛を抑えられず、北魏の圧力と南燕の自立により中原を失った。失地回復のため北魏と戦うが敗北し配下の蘭汗に殺害された。在位3年。

慕容盛

373年-401年。字は道運。後燕の第3代皇帝。昭武帝。慕容宝の第1子。幼年時代を長安で過ごしたが西燕が安定しなかったため後燕に亡命した。蘭汗が慕容宝を殺害すると一時は蘭汗に従うがまもなく殺害して皇帝に即位した。治政は厳格に過ぎ相次ぐ反乱の中で横死した。在位3年。

慕容熙

385年-407年。字は道文。後燕の第4代皇帝。昭文帝。慕容垂の子。慕容盛の死後帝位を継ぐ。皇后の苻訓英ともに贅沢を極め国力を傾けた。苻皇后の死後は精神を病んだ。葬儀のため外出すると高雲に龍城を占拠された。逃亡したが見つかり殺害された。在位6年。

主な宗族

慕容会

?-397年。清河王。慕容宝の庶子。慕容垂に皇太孫とされたが、父、兄弟と折り合いが悪く慕容垂の死後、廃された。龍城に駐屯して北魏に敗れた父を救ったが、軍を取り上げられて慕容農と慕容隆に分配されたため、二人の暗殺を謀った。暴挙を知った慕容宝と交戦するも敗北し、中山へ逃亡したところを慕容詳に捕殺された。

慕容隆

?-397年。後燕の高陽王。慕容垂の子。兄・慕容農と共に父の進退に従った。苻丕を軍を破るなど各地を転戦、慰撫し、慕容農に次ぐ人望と名声を得た。慕容垂の死後は、一貫して慕容宝を支援した。後継問題を機に謀叛した慕容会に暗殺された。

慕容詳

?-397年。後燕の開封公。慕容皝の曾孫。中山に鎮した。慕容宝と対立する慕容会が中山へ逃げると捕縛し処刑した。慕容宝が北魏に敗れて薊に逃れると、皇帝を称して建始と改元した。悪政と評されて長続きせず、慕容麟に攻められ殺された。

慕容策

386年-398年。濮陽王。慕容宝の子。美少年と記録が残る。父・慕容宝からは愛され、慕容会が太子から廃されると新たな太子として立てられた。段速骨、および蘭汗が反乱すると、擁立されたが、間もなく殺された。

慕容麟

?-398年。後燕の趙王。慕容垂の庶子。参合陂の戦いでは配下の慕輿嵩が擁立騒ぎを起こすなど、敗北の一因を作った。中山にて反乱を起こすが失敗して太行山に逃れ、慕容詳の悪政を機会にして慕容詳を攻め自ら即位した。北魏に攻められると鄴の慕容徳を頼った。後に造反し慕容徳に処刑された。

慕容農

?-398年。後燕の遼西王。慕容垂の子。前秦への亡命、前秦からの独立では常に父に従った。河北辺縁を攻略し前燕の旧都・龍城に駐屯し統治した。各地の平定に貢献したが、参合陂の戦いの敗北後は施政も乱れた。慕容垂の死後、一族が散り散りになる中で慕容宝を支えたが、段速骨の反乱に降伏、暗殺された。

主な人物

蘭汗

?-398年。慕容垂の母・蘭氏の弟、慕容盛の舅。段速骨が反乱すると呼応して龍城を陥落させた。段速骨を殺害して慕容宝を迎え入れようとしたが、弟・蘭加難が慕容宝を殺したため実現しなかった。大単于、昌黎王に即位し青龍と改元した。慕容盛を迎え入れたが慕容盛に謀られ殺害された。

苻訓英

?-407年。慕容熙の皇后。苻謨の娘。慕容垂が後燕を立てたとき、苻氏の一部が取り立てられ父・苻謨が中山尹となった。慕容詳の反乱で父が殺されると、逃れて慕容熙の妻妾となり後に皇后となった。姉の苻娀娥と共に絶世の美女と評され、文字通りの傾国となった。

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