范曄
publish: 2021-11-22, update: 2026-04-19
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398年-445年。字は蔚宗。南陽郡順陽県の人。会稽郡山陰県の生まれ。范寧の孫。范泰の子。名門、順陽范氏の人。奇特ともいうべき奔放さがあり、度々不祥事を起こしては避難を買った。左遷された任地で『後漢書』を編纂した。後に、劉義康の反乱に加担したとして処刑され、一門は断絶した。
范曄の時代、『後漢書』は既に幾つかの種類が編纂されていた。 しかし、范曄はこれに満足せず、既存の『後漢書』を整理して、新たな『後漢書』を作り上げた。 結果として、最も普及し後世に残ったのは范曄の『後漢書』であり、袁宏の『後漢紀』を除いて残りはほとんどが散逸してしまった。
関連
宇文憲
544年-578年。字は毗賀突。宇文泰の子。北周建国時に幼くして既に重臣の身であり、益州総管としての治政は善政と評価される。斛律光を相手に善戦し、人心掌握にも優れて人望が厚かった。専横する宇文護の信任を得て朝廷内の調整役を担った。宇文邕の死後、その権威を恐れた宇文贇に殺害された。
赫連定
?-432年。夏の第3代皇帝。赫連勃勃の第5子。兄赫連昌が北魏に捕らえられると即位した。残党を糾合して一時は関中やオルドス地方を奪還するが北魏の逆襲を受けて失地回復は成らなかった。北魏に圧されて西秦を滅ぼすが吐谷渾の攻撃により捕縛され北魏に送られて処刑された。
慕容恪
?-367年。字は元恭。慕容皝の第4子。後趙、宇文部、高句麗を相手に多くの戦線に従軍した。後趙滅亡を機に中原へ進出し版図を広げた。治政にも優れ前燕の最盛期を築いた。病没。当代随一の宰相、将軍として歴史に残る。武廟六十四将に数えられる。