後秦

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publish: 2021-11-23, update: 2026-05-20

概要

名称 成立 滅亡 期間
後秦 384 417 33

後秦は羌の姚萇が建てた王朝。 独立当初から厳しい外圧にさらされ、前半には前秦の残党に苦慮し、後半には東晋の圧力を受けて衰退した。 中華の歴史上はじめて仏教を支援した王朝にあたり、姚興の代に仏僧の鳩摩羅什を保護した。

主な出来事

背景

姚氏は隴西一帯に居住した羌の末裔である。 三国時代の魏では姚柯迴が鄧艾に従って蜀を滅ぼした功績が残り、その子・姚弋仲は西晋、前趙、後趙と歴代の王朝に臣従した。 333年に石勒が死ぬと姚弋仲は石生の反乱に加担したが敗れ、349年に石虎が死ぬまで部族ごと隴西から遠く冀州清河郡へ抑留された。

石虎の死後、河北が混乱したとき既に七十歳を超えていた姚弋仲は何れの勢力に従属することも潔しとせず、部族は姚襄に率いられて半ば流民となった。 姚襄は東晋や前燕など当世の強国に服属し各地を転戦して部族を養いながら故郷である関中への帰還を企図した。 356年に許昌で桓温に敗れると、北に迂回して平陽から関中の北部へ侵入した。 しかし、姚襄は関中に既に割拠する前秦の苻生が派遣した苻黄眉らに討ち取られた。

姚襄の弟・姚萇は部族と共に前秦に降伏した。 以後、姚萇は前秦の揚武将軍となり太守や刺史を歴任して軍政両面で重用された。 淝水の戦い直前には姚萇は兗州刺史であった。

独立から最盛期まで

384
独立

淝水の戦い以後、姚萇は西燕と戦ったが敗れて逆に西燕に従った。 このとき姚萇は長安を逃れた苻堅を処刑し関中を占拠した。 一方、西燕内部では鮮卑諸族の統制が取れず、主導者の代替わりが相次ぎ、故地への帰還を目指して長安を棄てて東進した。 この混乱の中で姚萇は関中に自立し一般にこれをもって後秦の始まりとする。 姚萇が皇帝に即位するのは386年となる。

394
姚萇が没する
394
廃橋の戦い

跡を継いだ姚興は、姚萇の死を好機ととらえて攻勢をかけた前秦の苻登を廃橋の戦いにおいて返り討ちにした。 同年、敗残兵を糾合しようとする苻登を馬毛山でとらえて処刑すると、その残党は西秦に滅ぼされた。 これをもって前秦は消失した。

401
姑臧を包囲し後涼を服属させる

403年に後秦が後涼を統合した(後涼の滅亡)。

402
柴壁の戦い
405
後仇池を服属させる

属国の離反

407
後仇池が東晋に従う
407
赫連勃勃が離反し夏を建てる
409
乞伏乾帰が離反し西秦を再興する

東晋の劉裕が405年に桓玄を滅ぼして実権を掌握すると後秦の南境は俄かに緊張した。 姚興は南燕や後蜀と連合を形成して東晋に対抗したが、東晋の圧力は強く各勢力の離反が相次いだ。 特に、東晋への対抗に反して北魏と強調しようとした姿勢は、赫連勃勃の不満を煽ってオルドスを失陥した。

宗族の争い

東晋によって410年に南燕が、413年には後蜀が滅びると後秦は孤立した。 414年以降、姚興が病に伏せるようになると一族の統率もままならなくなり、姚弼、姚愔と反乱が相次いだ。 416年に姚興が没すると、さらに姚宣、姚懿、姚恢らが反乱した。 夏、後仇池、西秦も東晋と共に圧力を加えたため、後秦は文字通りの四面楚歌となった。

417
東晋が長安を攻略する(後秦の滅亡)

系譜

  • 姚弋仲

    【追】景元帝

    -

    • 姚襄

      【追】魏武王

      -

    • 姚萇

      武昭帝

      1

      • 姚興

        文桓帝

        2

        • 姚泓

          末主

          3

    • 姚緒

      晋敬王

      -

    • 姚碩徳

      隴西恭王

      -

    • 姚紹

      魯公

      -

  • 左側が年長者
  • 数字は皇位の継承順
  • 継承に関係のない筋は省略

歴代君主

姚萇

331年-394年。字は景茂。後秦の創建者。武昭帝。姚弋仲の子。姚襄の弟。羌の出身。父の代では前趙、後趙に帰属したが兄・姚襄が前秦と戦い敗死した背景を持つ。前秦に降伏した後は各地を転戦して功績を挙げた。淝水の戦い以後独立し苻堅を殺害した。病没。在位8年。

姚興

366年-416年。字は子略。後秦の第2代皇帝。文桓帝。姚萇の子。前秦の残党を滅ぼし関中一帯を統一した。一時は西秦、南涼、北涼、西涼、後蜀を属国としたが、西秦や夏の独立、北魏の圧迫によって国威は徐々に衰退した。在位22年。熱心な仏教徒であった。

姚泓

388年-417年。字は元子。後秦の第3代皇帝。末主。姚興の第1子。弟の姚弼と後継争いのすえ帝位を継ぐが、その後も一族の造反が絶えず、夏や東晋の圧力の前に後秦は一気に衰退した。東晋の王鎮悪の攻撃に降伏し、建康にて処刑された。在位1年。

主な宗族

姚弋仲

279年-352年。羌の首長。姚柯迴の子。南安郡赤亭県の人。前趙および、後趙に帰属し部族を維持した。石虎の代に河北の清河郡へ移住した。石虎の死後、後趙が混乱すると冉閔や苻洪と戦った。後趙が滅亡すると東晋への臣従を図ったが、まもなく病没した。胡人で天子となった者はいないと言葉を残した。

姚襄

331年-357年。字は景国。姚弋仲の子。姚萇の兄。父の死後、前秦と戦いつつ河北を南下した。淮南に駐屯して東晋の藩屏を成したが、東晋の揚州刺史・殷浩と対立し前燕へ帰順した。許昌、洛陽、平陽と徐々に西進し、関中の攻略を目論んだが、苻黄眉らに敗北し処刑された。

主な人物

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