姚弋仲 ( ようよくちゅう )

publish: 2021-10-15, update: 2026-04-19

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279年-352年。羌の首長。姚柯迴の子。南安郡赤亭県の人。前趙および、後趙に帰属し部族を維持した。石虎の代に河北の清河郡へ移住した。石虎の死後、後趙が混乱すると冉閔や苻洪と戦った。後趙が滅亡すると東晋への臣従を図ったが、まもなく病没した。胡人で天子となった者はいないと言葉を残した。

関連

楊逸

500年-531年。字は遵道。弘農郡華陰県の人。楊津の子。河陰の変では爾朱栄に従い、孝荘帝・元子攸を河陽に迎えた。元子攸が爾朱栄を粛清すると活路を一族で協議したが、爾朱仲遠の使者により殺害された。行政に優れてその慧眼を千里眼と畏敬され、成語としての千里眼の語源となった。

殷景仁

390年-441年。陳郡長平県の人。殷道裕の子。劉毅の属官を経て劉裕に従い、そのまま宋の成立と共に入朝した。当初は劉湛との関係も良好で、荊州に出向した劉湛の呼び戻しを推薦したが、後に一方的に劉湛からは憎まれた。病を称して家に留まること五年におよび、その間、劉義隆との書簡の往来で職務を全うした。

劉祜

94年-125年。安帝。後漢の第6代皇帝。清河王・劉慶の子。父・劉慶は元々劉炟の皇太子であり、廃嫡された経緯を持つ。劉隆が夭折すると代わって即位した。皇太后・鄧綏の死後、皇后・閻氏や宦官の助力を得て鄧一族を追い落としたが、側近の利己主義を統制できず朝廷を衰微させた。

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