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publish: 2021-11-12, update: 2026-07-13

概要

名称 成立 滅亡 期間
407 431 24

夏は赫連勃勃によって建てられた王朝。

主な出来事

背景

赫連勃勃は南匈奴の鉄弗部を出自とする。 遡れば鉄弗部の祖は屠各種、攣鞮部の去卑に当たり、血筋の上では前趙の宗室と類を同じくする。 赫連勃勃が生まれた時期は前秦が華北を統一した全盛期にあたるが、その直後に前秦が崩壊したため、赫連勃勃はその混乱期に長じた。 赫連勃勃の父・劉衛辰は前秦に臣従しながらもオルドスに一定の影響力を持ち続け、鮮卑拓跋部などの他の異民族と抗争を続けた。 前秦の崩壊後もこの姿勢は変わらず、西燕、後秦、後燕の後ろ盾を得てオルドスの支配を拡充しようとしたが、北魏との抗争に敗れて横死した。

赫連勃勃は北魏に帰順した薛干部(叱干部とも)へ亡命したが、これを察知した北魏の拓跋珪が薛干部の太悉伏へ身柄の受け渡しを要求したため、太悉伏によって破多羅部(破多蘭部とも)の没弈干(没弈于とも)の下に送られた。 赫連勃勃は没弈干の娘を娶って養子となり共に後秦に降った。

407
後秦から独立する

後秦の姚興は赫連勃勃に心酔したという。 赫連勃勃は北魏への備えとして安北将軍、五原公まで昇るが、やがて北魏の圧迫によって北魏と和親しようとする姚興と対立した。 赫連勃勃は義父の没弈干を殺して部族を統合すると、いにしえの夏の末裔を称して大夏天王、大単于を自称し、国号を大夏、元号を龍昇とした。

418
長安を占拠し帝位に就く

前年に東晋が長安を攻略して後秦が滅びると、赫連勃勃は軍を南下させて東晋から長安を奪取した。 統万城を都とし、長安を南都とした。

425
赫連勃勃が没する

赫連勃勃は病を得ると長子・赫連璝を廃嫡して第四子・赫連倫を立太子した。 赫連璝はこれに反発して長安から挙兵し赫連倫を敗死させた。 だが、第三子・赫連昌が逆襲して赫連璝を殺すと、赫連昌は赫連勃勃によって改めて立太子された。 赫連勃勃は実子三人が殺し合ったというのに、結果として赫連昌を喜んで太子に認めたというから、この親子に何か複雑な対立があったことは推して知れる。

428
赫連昌が上邽において北魏に捕らえられる
431
赫連定が西進して西秦を滅ぼす
431
吐谷渾によって赫連定が捕縛され北魏において処刑される(夏の滅亡)

系譜

歴代君主

赫連勃勃

381年-425年。字は敖雲。夏の創建者。武烈帝。劉衛辰の第3子。匈奴鉄弗部の出身で去卑の後裔。父劉衛辰が北魏に敗れると後秦に従った。北魏に対して敗北を重ねる後秦を見限りオルドス地方で独立した。周辺国を圧迫し続けたが、後年は後継問題を引き起こした。病没。

赫連昌

?-434年。字は還国。夏の第2代皇帝。赫連勃勃の第3子。廃太子された赫連璝が立太子された赫連倫を攻撃し敗死させると、赫連璝を討って太子となった。西方では優位を維持したが、北魏に対しては各地で敗北を重ね安定で北魏に捕らえられた。助命されるが後に殺された。

赫連定

?-432年。夏の第3代皇帝。赫連勃勃の第5子。兄赫連昌が北魏に捕らえられると即位した。残党を糾合して一時は関中やオルドス地方を奪還するが北魏の逆襲を受けて失地回復は成らなかった。北魏に圧されて西秦を滅ぼすが吐谷渾の攻撃により捕縛され北魏に送られて処刑された。

主な宗族

劉衛辰

?-392年。匈奴鉄弗部の大人。劉務桓の子。赫連勃勃の父。鉄弗部を率いて代と前秦の間で離合集散を繰り返した。前秦の攻撃で代が滅亡すると、代の東西分割に伴って西単于に封爵された。前秦が崩壊すると西燕、後秦、後燕と外交して北魏と争ったが、北魏に本拠・代来城を攻略され殺害された。

主な人物

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