前趙
(section)publish: 2020-07-27, update: 2026-05-15
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 前趙 | 304 | 329 | 25 |
前趙は南匈奴の劉淵が西晋から独立して建てた王朝。 西晋を直接滅ぼして五胡十六国時代の先駆けとなった。 劉淵が建てた国号は漢でのちに劉曜が趙に改めた。 石勒が建てた後趙と区別して前趙と通称する。
主な出来事
劉淵が出自とする 匈奴 屠各種 攣鞮部 は南匈奴の単于を輩出する中核部族である。 匈奴は古くは漢室と婚姻関係があり、匈奴が南北に分裂した後、南匈奴は長城以南に移住して漢化を強めた。 単于の称号は呼廚泉を最後として、曹操は南匈奴を左、右、南、北、中の五部に分け并州刺史の管轄に置いた。 これは南匈奴を五部匈奴として漢に組み込もうとする同化政策であった。 劉淵は左部匈奴を出自とし、この頃は既に攣鞮ではなく劉の氏姓を使用した。 264年ごろ、左部匈奴を統率する左部帥(後に左部都尉に改称)の職にあった父・劉豹に代わって劉淵は朝廷に出仕したが、これはていの良い人質であった。 279年に劉淵は父の死をもって左部帥を代行すると、以後、劉淵の輿望を慕って多くの人士が集まった。 一時、劉淵は罪に連座して免官されたものの、成都王・司馬穎に再度招聘される頃には、名実ともに五部匈奴を統括する人物であった。
独立
- 304
- 劉淵が南匈奴の単于となる
劉淵の従祖父である劉宣は并州において鄴にあった劉淵を密かに単于に推戴した。 これは八王の乱で混乱した世情のなか胡族としての自活を単に模索したものではない。 呼廚泉以来途絶えていた単于に就くことで、前漢をも服属させるほど強勢を誇ったかつての匈奴に回帰しようとする夢でもあった。 胡族としての民族同一性を持ちつつも、実態は漢族の仕組みに同化、統合されていく南匈奴の人々にとって、劉淵が単于として立ったことがいかに彼らの心を奮わせたか想像に難くない。
劉淵は司馬穎に背いた并州刺史・司馬騰と都督幽州諸軍事・王浚の討伐を名目に出陣すると左国城に入った。 ここで、漢王を自称し元熙と改元した。 国号を漢としたのは、かつて匈奴と前漢が婚姻関係にあったことに託けて漢の正統な後継を自認したからである。 蜀漢の後主・劉禅に孝懐皇帝(懐帝)と追尊したのも劉淵である。 追って308年、皇帝に即位した。
- 310
- 劉淵が没する
劉聡、石勒、王弥、劉曜ら有力な将軍が支えて一進一退しつつ領土を拡張する中、劉淵は病に没した。 この頃、前趙の拡張が遅々としていることは、并州刺史・司馬騰やその後任の劉琨、幽州刺史・王浚らの奮戦と、中央において差配した司馬越の努力の証左である。 劉淵亡きあと劉和への継承も円滑に行われなかった。 劉和は即位後すぐに大権を有した弟たちの排除を目論み、返って劉聡の反撃を受けて瞬く間に処刑された。 在位は僅か六日間という。 帝位は劉聡が継いだ。
西晋を滅亡させる
- 311
- 洛陽を攻略する
- 316
- 長安を攻略する(西晋の滅亡)
西晋を滅亡させたこれらの兵火を一般に永嘉の乱と呼ぶ。 劉曜、趙染らが長安の攻略を担ったがその攻略にはおおよそ五年の歳月を要している。 三国時代の蜀や呉が滅びるとき数年もかかっていないことを考えれば、長安に残存した西晋の抵抗は頑強であった。 幽州には王浚、并州には劉琨が健在し、黄河一帯には司馬騰が組織した乞活と称する漢民族の武装流民集団が割拠して前趙に対抗した。 前趙の勢力図が未完成のパズルのように斑模様を成していたことを鑑みれば、前趙勢力は西晋に対抗した王朝国家というよりは乱というのがふさわしい。 この頃、王弥、石勒らが河北攻略を担っているが、彼らは既に独立の志向を持っていたため河北の事象は後趙にて記載する。
靳準の乱
- 318
- 劉聡が没する(靳準の乱、東西分裂)
劉聡はかつて王渾や張華から評価された聡明な人物で、その一代で洛陽と長安を攻略して西晋を滅亡させた時代の覇者であったが、皇帝の即位後から徐々に堕落して政務を見なくなった。 劉聡から厚遇を受けた宦官の王沈や、後に皇太后と皇后を輩出した外戚の靳準は、王鑒や崔懿之からは国の患いだと評されたにもかかわらず朝廷内で台頭した。 後を継いだ劉粲は、朝政に関与しなくなった劉聡に代わって朝廷を取り仕切った人物の一人であるため、劉粲に代替わりしたところで朝廷の腐敗は粛正されなかった。
靳準には少なくとも三人の娘があり、靳月光と靳月華は劉聡の皇后となり、靳氏は劉粲の皇后となった。 客観的に見ればこの時の靳準の立場は外戚として盤石であった。 外戚の権力は寵愛を受ける皇后の介して皇帝の権力を操作するところにある。 靳準もその例に漏れず後宮を通して多くの政敵を滅ぼし、朝政を取り仕切った。 にもかかわらず、靳準は劉粲を害して反乱した。 靳準は匈奴屠各種の出自でありながら劉淵を屠各種を小醜と貶め、胡人で天子になった者などいないとして、自身は漢の天王を称して東晋に従属しようとした。 このとき、かつて処刑した西晋の懐帝と愍帝を改葬しようとして、形式的に棺を東晋に送ったというから、靳準は本気で国を滅ぼして東晋に従属しようとしていた。 だが、朝廷の綱紀を粛正せんとする政変であるならまだしも、半ば自暴自棄にも見える靳準の反乱に同調するものはいなかった。 石勒と劉曜の双方に圧迫された靳準は配下に殺され一族は処刑された。 劉曜は皇帝に即位すると平陽から長安へ遷都して漢から趙へ国号を改めた。
後趙との抗争と滅亡
劉曜は英主であったが、靳準の乱は明らかに前趙の国威を貶めた。 319年、石勒が趙王を称して趙王と改元したことは、前趙を東西に分裂したも同然であった。 さらに、匈奴屠各種の路松多の反乱、巴賨族の句渠知らの反乱、宋始らの離反による洛陽の失陥、陳安の離反による秦州の攻防など内患が続いた。 それでも、十年間に渡って後趙を存続させたことは劉曜の政治手腕の成果である。
- 329
- 劉曜が処刑される(前趙の滅亡)
324年、後趙の司州刺史・石生の進出により後趙との争いが激化した。 328年、石虎が河東を攻撃すると劉曜自身が出陣し、石勒も石虎救援のために洛陽まで出陣した。 洛陽の会戦は双方十万に及ぶ大戦となり、この戦いに敗れた劉曜は捕えられた。 石勒は劉曜に対して前趙の残党に降伏を勧告する書状を書かせようとしたが、劉曜はその意に反して社稷を維持するよう書状を認めたため石勒によって処刑された。 その後、皇太子の劉煕が即位したが、長安を支えきれず上邽へ遷都した。 しかし、その上邽も攻め上る石虎には抗しえず陥落し、劉煕らは処刑された。
前趙帝室系図
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劉烏利
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羌渠
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於夫羅
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劉豹
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劉淵
光文帝
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劉和
廃帝
2
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劉聡
昭武帝
3
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劉粲
隠帝
4
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呼廚泉
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劉宣
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去卑
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劉猛
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劉亮
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劉広
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劉防
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劉緑
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劉曜
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5
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劉煕
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6
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- 左側が年長者
- 数字は皇位の継承順
- 継承に関係のない筋は省略
劉淵を単于に擁立した劉宣は羌渠の子とされている。 羌渠が188年に没して、その子の劉宣が308年に没したことを真に受けると、劉宣は少なくとも百二十歳を超える長命だったことになる。 同様に劉淵の父・劉豹もその父・於夫羅の没年が195年で本人が279年に没したことから相当な長命な人物である。 ただし、同時代の人物で九十二歳の長寿を記録した司馬孚(180年-272年)という例もあるため、非現実的な記録ではない。
羌渠、去卑、劉猛、劉亮の兄弟関係の定義は一定ではなく、従兄弟関係である可能性があり不明瞭さが残る。 去卑は鉄弗部の祖となり、劉猛の子・劉副侖は鮮卑に亡命して独孤部の祖となった。 さらに、破六韓氏の祖・潘六奚も彼らと兄弟の可能性があり、後世の重要な氏族の祖が連なっている。
歴代君主
劉淵
?-310年。字は元海。前趙の創建者。光文帝。南匈奴の出身。於夫羅の孫、劉豹の子。司馬昭に厚遇を受けるも罪の連座により罷免される。司馬穎より招聘を受けて復職したのち独立して前趙を建てた。八王の乱で混乱する西晋の中原一帯を圧迫し続けた。病没。在位6年。
劉和
?-310年。前趙の第2代皇帝。廃帝。劉淵の子。劉淵の死後その後を継ぐ。外戚の呼延攸に教唆され権力掌握のため宗族の一掃を企てた。しかし計画は疎漏で内部に疑心暗鬼を招き逆に劉聡の攻勢を受けた。劉聡によって捕縛されたのち処刑された。在位僅か6日。
劉聡
?-318年。字は玄明。前趙の第3代皇帝。昭武帝。劉淵の四男。劉淵の死後、帝位は長男の劉和が継いだが劉和は兄弟の誅殺を試みた。事前にこれを知った劉聡は劉和を捕え処刑して皇帝として即位した。洛陽・長安を攻略し西晋を滅亡させるも、後年は国を乱した。病により死去。在位9年。
劉粲
?-318年。字は士光。前趙の第4代皇帝。隠帝。劉聡の次男。都督中外諸軍事、相国などの重要職を歴任した。皇太弟劉乂の存在により長らく皇太子に立てられなかったが、後に劉乂を謀殺し皇太子となる。劉聡の死後、皇帝に即位するも外戚の靳準に謀反され処刑された。在位3か月。
劉曜
?-329年。字は永明。前趙の第5代皇帝。靳準が乱を起こすと皇帝に即位し乱を鎮めた。石勒の離反を始め頻発する反乱に対処するが、洛陽における後趙との戦いで捕縛される。石勒から降伏勧告を命じられるも、社稷を維持せよと勅書したため石勒に処刑された。在位10年。
劉煕
?-329年。字は義光。前趙の第6代皇帝。劉曜の第3子。後趙の洛陽攻略中に父劉曜が捕縛され殺害されたため、長安から上邽へと遷都した。長安回復のため兄劉胤を派遣するが石虎に敗れ、そのまま上邽を攻略する石虎によって処刑された。建国26年目にして前趙は滅亡した。
主な宗族
主な人物
王沈
生没年不詳。宦官として劉聡に仕えた。劉聡が後宮に入り浸って朝政に出席しなくなると、劉聡に代わって朝政を取り仕切り、独断で人事を決裁した。その権勢は斉の易牙、蜀の黄皓に例えられ、多くの良臣を誅殺せしめた。劉聡の死後、事跡は定かではない。
王弥
?-311年。字は子固。王頎の孫。洛陽を留学したとき劉淵と親交を深めた。劉柏根が東莱で挙兵するとこれに従った。劉柏根の死後は青州、徐州を中心に反乱を継続するが、まもなく劉淵に従った。西晋の洛陽を陥落させ、大将軍、斉公まで昇るも、石勒と対立し誅殺された。飛豹と称された。
陳元達
?-316年。字は長宏。匈奴後部の出身。元の名は高元達。長らく仕官せず学問に傾倒して漢文化に詳しかった。顕職を望まず諫言を行い、劉淵から優遇された。劉聡の堕落とともに疎まれるようになり、太宰・劉易の憤死を知ると、前趙の将来に絶望して自害した。
靳準
?-318年。匈奴屠各種の出身。3人の娘を皇后に輩出し、外戚として地位を確立した。皇太弟・劉乂など政敵を失脚せしめた。のちに、第4代皇帝・劉粲を殺害し乱を成した。胡人で天子になった者はいないとし、皇帝ではなく天王を称して東晋への従属を図った。劉曜に包囲されて配下に殺害された。