徐邈 ( じょばく )

publish: 2026-09-24, update: 2026-09-25

172年-249年。字は景山。燕国薊県の人。曹操の河北平定時に仕官した。県令、太守、刺史を歴任するたび道徳的で民に寄り添う行政手腕が評価された。蓄財しないために曹叡からは生活費を特別に支給された。司空を辞退し相応しい人物がいなければ空位とすべしとした。諡は穆。都亭侯。

記録や評価からは一貫して中庸の美徳をもつ人物像が浮かび上がり、それが三国名臣頌に載る理由と思われる。 後年、盧欽は徐邈の一貫した姿勢について、曹操の時代に質素倹約の風潮が強い頃は「通」として人々の目に映り、曹叡の時代に奢侈贅沢の風潮が高まると「介」として映ったと説明している。 つまり、世の中は変わったが徐邈はただ同じ姿勢であり続けたのだと評した1。


  1. 『三国志』巻二十七 魏書二十七 ↩︎

関連

王覇

?-59年。字は元伯。潁川郡潁陽県の人。元は獄吏だった。劉秀が潁川に至って以来その創業に参加した。河北平定では、進退窮まった一行に虖池河が凍り付いて渡河が可能であると偽りの報告をし、事実凍っていたため活路を見出した逸話がある。河北の苦難から「疾風、勁草を知る」と劉秀に評された。杜茂、馬成とともに長らく北辺に鎮した。上谷太守、淮陵侯。

権翼

生没年不詳。字は子良。略陽郡の人。前漢の権忠の14世の孫。初め姚弋仲に従った。姚萇が前秦に降伏すると苻堅と親交を深めた。苻堅の南征には反対した。淝水の戦いの敗北後、慕容垂の自立の動きを警戒した。没落する前秦を支えたが叶わず、長安が放棄されると後秦へ亡命した。

慕容瑤

?-386年。西燕の第4代皇帝。慕容沖の子。東進した慕容凱が臨晋県で殺害されると、慕容恒に擁立された。建平と改元するも、まもなく慕容永に殺害された。

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