荀攸 ( じゅんゆう )

publish: 2026-09-28, update: 2026-09-28

157年-214年。字は公達。潁川郡潁陰県の人。荀彝の子。何進が名士を集った時の一人として黄門侍郎を拝した。董卓暗殺を企てて投獄され、董卓の死後、献帝を擁立する曹操に仕えた。多くの献策と推挙を行って魏の創業に大きく貢献した。孫権征討の従軍中に没した。諡は敬。陵樹亭侯。

曹操からは才能と人格を絶賛されている。

公達外愚内智,外怯内勇,外弱内彊,不伐善,無施勞,智可及,愚不可及,雖顏子,寗武不能過也。1

曹操は事あるごとに荀攸を評して「公達(荀攸)は愚かに見えて賢く、臆病に見えて勇敢で、弱々しく見えて屈強で、善をほこらず、苦労を押し付けず、その智には届いても、その愚には届かない。 顔回や甯兪さえも荀攸を越えないだろう」とした。 『論語』において孔子は甯兪を評して、

其知可及也,其愚不可及也。2

としており、曹操はこれを引用することで、古の偉人と比較した最高の賛辞で荀攸を称えた。


  1. 『三国志』巻十 魏書十 ↩︎

  2. 『論語』公冶長第五 ↩︎

関連

慕容徳

336年-405年。字は玄明。南燕の初代皇帝。献武帝。慕容皝の子。前燕の范陽王。前燕が滅びると前秦に降って張掖太守を任じられた。淝水の戦いで前秦が大敗すると兄・慕容垂に従って後燕の車騎将軍となる。北魏の攻撃により慕容宝が北へ逃れると、山東半島で独立し皇帝を称した。

庾亮

289年-340年。字は元規。庾琛の子。永嘉の乱を江南に逃れ司馬睿が赴任すると王敦の推挙で任官した。王導の融和政策とは対称に法治政策をとり、蘇峻の乱を招いた。温嶠、陶侃の支持を得て蘇峻を滅ぼした。陶侃の死後、荊州刺史として西府軍団を後継した。病没。

何氏

?-189年。霊思何皇后。南陽郡宛県の人。何真の女子。何進、何苗の妹。屠殺業の家に生まれたが、賄賂によって後宮に入り、劉宏の寵愛を受けて劉弁を産んだ。同じく劉協を産んだ王氏を嫉視して毒殺し、劉協を養育する姑・董氏と後継を争った。董卓が劉弁を廃位すると李儒によって毒殺された。

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