前秦
(section)publish: 2020-12-31, update: 2026-04-19
目次
章節
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概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 前秦 | 351 | 394 | 43 |
前秦は氐族の苻堅によって創設された王朝です。 その統治期間は、351年から394年の44年間です。 当初は前燕と華北を二分する勢力でしたが、後に、華北全土を統一しました。 天下統一も視野にありましたが、淝水の戦いの敗北後は国内統治が崩壊し、再び分裂の時代へ入りました。
特徴
胡漢融合の兆し
前秦は、西晋の崩壊後、対立が深まるばかりであった胡族と漢人を、大々的に融和した、あるいはそれを目指した初めての王朝です。 実際には、その民族融和は結果として実らず、不完全な融和政策は前秦を崩壊させる直接的な原因にすらなっているのですが、大規模な民族虐殺を行った後趙や冉魏から一転し、その後継国家でもある前秦が融和へと傾き始めたことは、歴史的に大きな分水嶺となります。
胡漢対立というと、胡族と漢族の対立構造を思わせますが、実際には、胡族と言っても五胡というように多様な民族を含み、匈奴、鮮卑、羯、羌、氐に漢族を含めた複雑な対立構造を成しました。五胡の表現に含まれない少数民族の存在もあり、鮮卑に同化した元匈奴などの存在も鑑みると、現実は考えるよりも複雑であり、実は胡漢という表現は字義としてあまり正確では無いことが分かります。胡という字が漢民族から見た異民族の意であることから、胡は漢民族が異民族を十把一絡げにして見たものです。
五胡を同列に扱うのも注意が必要です。この頃、もっとも精強で北方の異民族として君臨していたのは鮮卑であり、対して、匈奴、羌、氐などは後漢から三国時代にかけて長らく漢化に浴しています。また、大規模化した鮮卑は多くの民族を服属させて、その総体として鮮卑と見なされているため、その出自については、鮮卑とひとことで分類するには些か乱暴なきらいがあります。鮮卑の部族の中でも慕容部などは、魏晋の時代に遼西、遼東に進出して強く漢化を受け、他の鮮卑部族と対立しています。
苻堅の出自は氐であり、彼が最も、そして人生をかけて苦慮した対象が鮮卑でした。
苻堅を初めとする、この時代の統治者階級は、秦、漢、晋という中華の統一期間を経て、統一された中華がどのようなものであるかを、歴史を通じて既に知っていました。 従って歴史を知る者たちは、分裂した期間は戦争によって疲弊し、統一した期間は平和で経済的に成熟したと捉え、中華の統一は苻堅だけの理想ではなく、知識者階級の普遍的な理想であったと推測します。
主な出来事
自立まで
前秦の皇帝となった苻氏は、氐族です。 その一首長であった苻洪は、初め前趙に従い、その後、後趙に従いました。 石虎の代にはその官職は高位に昇り、冉閔が反乱を起こす頃には、関中一帯に一軍閥を成し自立しました。 残念ながら苻洪はまもなく冉閔に従う麻秋に毒殺されますが、その勢力は子の苻健に継がれ前秦の基盤が築かれていきます。 苻健は、長安に割拠した杜洪の撃破、東晋への服属と自立、桓温による北伐の撃退を経て、354年までには関中一帯の統一に成功します。 苻健はまもなく355年、病没します。享年39となります。
苻生の暴虐と、苻堅の政変
苻健の跡を継いだ苻生は、前涼を一時服属させ、姚襄、姚萇と戦って降伏させるなど対外政策に成功しますが、性格が暴虐で粛清が頻発したため、従兄弟の苻法、苻堅の政変によって弑逆されます。
この後を継いだ苻堅は名君として歴史に残ります。 370年から376年にかけて、前燕、前仇池、前涼、代を立て続けに滅ぼし、華北統一を成したほか、内政にも力を入れて経済発展を成し遂げました。
帝室系図
※苻敞は苻健の族子(一族の中で子の世代)とされる。
歴代君主
苻健
317年-355年。字は建業。前秦の初代皇帝。景明帝。苻洪の三男。後趙に従ったが石虎の死後、後趙が乱れると長安を攻略し自立した。始め東晋に従属するもまもなく皇帝に即位した。桓温の北伐を撃退し関中の統治を確立した。病のため死去。在位4年。
苻生
335年-357年。字は長生。前秦の第2代皇帝。厲王。苻健の三男。苻健の死後、皇帝に即位した。漢中攻略を目論む姚襄を敗死させた。残虐な性格で粛清を多く行ったため人心を失った。政変を決行した苻堅に殺害された。在位3年。
苻堅
338年-385年。字は永固。前秦の第3代皇帝。宣昭帝。苻雄の子。苻生を廃して皇帝に即位した。内政を充実させ、外征では前燕、仇池、前涼、代を立て続けに滅ぼし華北を統一した。淝水の戦いで東晋に大敗すると各地で造反が起こり禅譲を迫る姚萇に殺害された。
苻丕
?-386年。字は永叔。前秦の第4代皇帝。哀平帝。苻堅の庶長子。淝水の戦い以後関東が混乱に陥ると、自立した後燕の慕容垂から鄴を堅守しその後晋陽へ本拠を移した。父苻堅が殺害されると皇帝に即位した。襄陵の戦いで西燕に敗れると東晋の攻撃を受け敗死した。
苻登
343年-393年。字は文高。前秦の第5代皇帝。高帝。宗室傍流の苻敞の子。淝水の戦い以後前秦の源泉ともいえる枹罕に割拠した。苻丕が敗死すると皇帝に即位した。一時は攻勢に転じるが大界の戦いの敗北以後勢力は後退した。廃橋の戦いで捕縛され処刑された。
苻崇
?-394年。前秦の第6代皇帝。末主。苻登の子。父苻登が戦死すると湟中へ逃れて皇帝に即位した。西秦の乞伏乾帰に攻撃されると仇池の楊定を頼るが敗北、処刑された。建国44年目にして前秦は滅亡した。
主な宗族
苻法
?-357年。字は永則、幼名は阿法。苻雄の庶長子。清河王。苻生殺害の政変を決行し、弟の苻堅に皇帝即位を促した。憚った苻堅は皇帝ではなく大秦天王を称した。賢明で人望があったがゆえに、苻堅の生母・苟氏に猜疑され賜死を受けた。
主な人物
鄧羌
生没年不詳。安定郡の人。前秦に仕官して苻生の治世に将軍となった。姚襄を敗死せしめ、張蚝、劉衛辰を捕縛した知勇兼備の将で、苻堅に近侍して万人の敵と評された。清廉で法整備に明るく御史中丞として綱紀粛正に貢献したほか、その剛直な性により苻生や王猛へも諫言した。
権翼
生没年不詳。字は子良。略陽郡の人。前漢の権忠の14世の孫。初め姚弋仲に従った。姚萇が前秦に降伏すると苻堅と親交を深めた。苻堅の南征には反対した。淝水の戦いの敗北後、慕容垂の自立の動きを警戒した。没落する前秦を支えたが叶わず、長安が放棄されると後秦へ亡命した。
呂婆楼
生没年不詳。字は広平。略陽郡の人。苻健が後趙から独立すると従った。侍中、尚書など高官を歴任した。苻堅の政変で王猛を推挙し、苻生の殺害に関わった。王猛、強汪、梁平老と共に王佐の才と評された。後涼の呂光は子にあたる。
梁平老
?-372年。略陽郡の人。氐族。苻堅に早くから使えて昇進し、苻生の代では特進、領御史中丞になった。苻生の暴虐のために政変に加担した。使持節、都督北藩諸軍事、鎮北大将軍として長らく北方を治めた。病没。
李威
?-374年。字は伯龍。漢陽郡の人。苻雄の后・苟氏の従弟にあたり寵遇された。苻生の謀殺、苻法の賜死に関った。王猛を推挙した一人であり、苻堅には管仲を知る鮑叔牙と例えられた。太尉、侍中まで昇る。苟氏と私通した記録が残る。
王猛
325年-375年。字は景略。北海郡劇県の人。漢人。貧しい幼少を経て鄴へ遊学した。徐統に取り立てられたが応じず華山へ隠遁した。呂婆楼に推挙されて苻堅に仕え、その様は劉備と諸葛亮に例えられる。内治から前燕攻略まで枢機に携わり丞相まで昇った。病没。武廟六十四将。
王永
?-386年。北海郡劇県の人。王猛の子。扶風郡太守を務め幽州刺史となった。淝水の戦い以後、続発する反乱に尽力した。苻堅の処刑が河北に伝わると、苻丕を皇帝に推戴し諸国へ檄を飛ばした。晋陽を拠点として交戦したが、西燕の攻撃を受けて戦死した。