前秦
(section)publish: 2020-12-31, update: 2026-05-18
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 前秦 | 351 | 394 | 43 |
前秦は氐族の苻健によって創設された王朝。 前燕と華北を二分し、後に前燕、前涼を滅ぼし華北全土を統一した。 淝水の戦いに敗北して以後は崩壊して再び分裂の時代へ入った。
主な出来事
背景
前秦の皇帝となった苻氏は氐族である。 一首長であった苻洪は初め前趙に従い、後に後趙に従った。 石虎の代に河南郡に移ったが、349年に石虎が死んで後趙が乱れると、苻洪は自立して故地への復帰を図った。 直後、苻洪は後趙から帰順した麻秋に殺されたが、子の苻健は麻秋を殺して勢力を引き継いだ。
- 351
- 独立
苻健は長安に割拠した杜洪を破ると、国号を大秦、元号を皇始として天王、大単于に即位した。 翌年には皇帝に即位した。 当初は成漢を併呑(347年)した桓温の北伐の標的となり、皇太子・苻萇が戦死するなど苦戦を強いられたが、これをしのいだことは前秦の体制を強固にした。
- 355
- 苻健が没する
苻健は三十九歳という若さで病没した。 苻生が後継したが、苻堅が政変を起こして苻生を廃したため苻生の在位は三年に満たない。 苻生には残虐な奇行の逸話が多い。 しかし、それらは政変を成して正当性を主張したい苻堅によって強調されていると見るべきであろう。 姚襄を敗死させて姚萇の降伏を認め、姚弋仲を王、姚襄を公の礼で葬っていることは、苻生の奇行とは相反している。 確かに苻生の代に苻菁や苻黄眉の一族の造反はあった。 苻堅との間にも互いに確執があったことは明らかであろう。 一方で苻堅の時代にも一族の謀反はあったため、共通する潜在的な理由があるとすれば苻生の暴虐とも言い切れない。 東魏に編纂された洛陽伽藍記には後秦から北魏を生きた趙逸の言葉として「苻生は勇猛で酒好きではあったが、仁者であり人を殺すことはなかった」1とある。 苻生の事跡が苻堅によって歪曲されている可能性は当時から示唆されていた。
- 358
- 張平を滅ぼす
- 365
- 匈奴を慰撫する
359年に匈奴鉄弗部の大人となった劉衛辰は代と前秦の間で二枚舌外交を展開したが、前秦に対する敵対行為は全て苻堅が許したため、この年までに劉衛辰傘下の南匈奴は前秦に服属した。 以後、前秦が代を滅ぼすまで、劉衛辰と南匈奴は前秦の北辺の藩屏であった。
四公の乱
- 364
- 苻騰が乱を為す
- 365
- 苻幼が乱を為す
- 367
- 苻柳、苻双、苻廋、苻武が決起する
相次いで一族が造反した。 このうち苻双以外は皆、苻健の子、つまり苻生の弟であった。 一見すると苻健一族と苻雄一族の軋轢に見えるが、苻堅が政変して十年余がすでに経過していることと、苻双は苻堅の同母弟であることから、そのような対立構造は見て取れない。 これらは、王猛を中心とした中央集権化に対する反発であった。 奇しくも淝水の戦いの敗北で完全に前秦の体制が崩壊した要因には、彼ら宗族の権力を削いでしまったという前史があった。
華北の統一
- 370
- 前燕を滅ぼす
- 371
- 前仇池を滅ぼす
- 376
- 前涼を滅ぼす
- 376
- 代を滅ぼす
苻堅の最大の特徴は彼が一貫して敵対者に寛容だったところにある。 内憂も外患も多かったが、苻堅は可能な限り敵を許して登用した。 例え当人を処刑せざるを得なくても妻子は救済することが多かった。 これは造反した者に対してだけでなく、自ら滅ぼした前燕や前涼の宗族に対しても同じで、血縁の是非や民族の区別にもよらないその姿勢は、前後して台頭した異民族国家の中でも極めて異質である。
これには一族の苻融だけでなく漢人の王猛も諫言しているように、この方針は廷臣から見ても奇妙に映った。 従って、これが実利を取らんとして必要によって苻堅がそうしていたとは考えにくい。 そこから浮かび上がるのは民族融和を個人的目的とした理想主義者の苻堅である。
滅亡
- 383
- 淝水の戦い
苻堅率いる百万を号する大軍は淝水において謝玄ら率いる東晋軍に敗れた。
苻堅が前趙と後趙ですら成し得なかった西晋以来の華北を統一したことは揺るがしようのない事実である。 それだけをもって苻堅の大業を評価できる。 淝水の戦いに敗れたこと自体も苻堅の大きな傷とは言えない。 しかし、淝水の戦いの後、前秦を大きく動揺させたことと、それに対処できなかったことは苻堅の最大の失策である。 その要因は、宗族の権力を縮小させたことと、亡国の旧臣を過度に重用したところにある。
- 385
- 苻堅が処刑される
前秦の凋落は空中分解というに相応しい。 後の西秦をなす乞伏国仁、後燕をなす慕容垂、西燕をなす慕容泓、後秦をなす姚萇などの離反が相次いだ。 この頃、前秦の勢力は苻堅が拠った長安近縁と、庶長子の長楽公・苻丕が鎮守した冀州のみに縮小していた。 西燕の攻撃に耐えられないと覚悟した苻堅は長安を脱出したが、姚萇に捕らえられて処刑された。
- 386
- 苻丕が敗死する
苻丕はしばらく鄴を死守したが、後燕の圧力だけでなく東晋の謝玄や劉牢之の圧力も加わって、ついに鄴を放棄して晋陽へ拠点を移した。 やがて苻堅の死の知らせがもたらされると皇帝に即位した。 苻丕は西燕に敗北して退却中、洛陽にいた東晋の馮該に攻撃され戦死した。 残党は苻纂と苻師奴の兄弟に引き継がれたが、しばらくして苻纂は苻師奴に殺され、苻師奴は鮮卑に亡命し勢力は後秦に吸収された。
- 394
- 苻登が敗死する
苻丕の死後、枹罕に勢力を残していた傍流の苻登が即位した。 この勢力は、前秦と呼ぶにはあまりにも小国の一地方政権にすぎなかったが、それでも西秦と連携して後秦と一進一退を繰り返し、およそ八年に渡って存続した。 後秦では姚萇が死んで姚興が継ぐと、これに慢心した苻登は廃橋の戦いに敗れた。 苻登は馬毛山にて姚興に捕らえられ処刑された。 子の苻崇が即位した。 苻崇は、隴西王を自称して秦州を占拠していた楊定の庇護を受けて勢力を維持しようとしたが、西秦の攻撃を受けて楊定共々滅ぼされた。
苻崇の子・苻宣は死んだ楊定の後を継いだ楊盛の後仇池に亡命し、以後も後仇池で全うして重用されたという。 天王太子として正当な後継者であった苻宏は、苻堅が長安から逃亡したとき留守したものの、長安を保持し得ず東晋へ亡命した。 苻宏はその後、東晋の輔国将軍となったが、桓玄と親交を深めたことからついに桓玄と運命を共にし、湘東において討たれるという数奇な運命を遂げた。
帝室系図
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苻洪
【追】恵武帝
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苻健
景明帝
1
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苻萇
献哀太子
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苻生
厲王
2
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苻雄
【追】文桓帝
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苻法
清河王
-
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苻堅
宣昭帝
3
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苻丕
哀平帝
4
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苻宏
天王太子
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苻敞
潁川王
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苻登
高帝
5
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苻崇
末帝
6
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- 左側が年長者
- 数字は皇位の継承順
- 継承に関係のない筋は省略
苻敞は苻健の族子(一族の中で子の世代)とされる。
歴代君主
苻健
317年-355年。字は建業。前秦の初代皇帝。景明帝。苻洪の三男。後趙に従ったが石虎の死後、後趙が乱れると長安を攻略し自立した。始め東晋に従属するもまもなく皇帝に即位した。桓温の北伐を撃退し関中の統治を確立した。病のため死去。在位4年。
苻生
335年-357年。字は長生。前秦の第2代皇帝。厲王。苻健の三男。苻健の死後、皇帝に即位した。漢中攻略を目論む姚襄を敗死させた。残虐な性格で粛清を多く行ったため人心を失った。政変を決行した苻堅に殺害された。在位3年。
苻堅
338年-385年。字は永固。前秦の第3代皇帝。宣昭帝。苻雄の子。苻生を廃して皇帝に即位した。内政を充実させ、外征では前燕、仇池、前涼、代を立て続けに滅ぼし華北を統一した。淝水の戦いで東晋に大敗すると各地で造反が起こり禅譲を迫る姚萇に殺害された。
苻丕
?-386年。字は永叔。前秦の第4代皇帝。哀平帝。苻堅の庶長子。淝水の戦い以後関東が混乱に陥ると、自立した後燕の慕容垂から鄴を堅守しその後晋陽へ本拠を移した。父苻堅が殺害されると皇帝に即位した。襄陵の戦いで西燕に敗れると東晋の攻撃を受け敗死した。
苻登
343年-393年。字は文高。前秦の第5代皇帝。高帝。宗室傍流の苻敞の子。淝水の戦い以後前秦の源泉ともいえる枹罕に割拠した。苻丕が敗死すると皇帝に即位した。一時は攻勢に転じるが大界の戦いの敗北以後勢力は後退した。廃橋の戦いで捕縛され処刑された。
苻崇
?-394年。前秦の第6代皇帝。末主。苻登の子。父苻登が戦死すると湟中へ逃れて皇帝に即位した。西秦の乞伏乾帰に攻撃されると仇池の楊定を頼るが敗北、処刑された。建国44年目にして前秦は滅亡した。
主な宗族
苻法
?-357年。字は永則、幼名は阿法。苻雄の庶長子。清河王。苻生殺害の政変を決行し、弟の苻堅に皇帝即位を促した。憚った苻堅は皇帝ではなく大秦天王を称した。賢明で人望があったがゆえに、苻堅の生母・苟氏に猜疑され賜死を受けた。
主な人物
鄧羌
生没年不詳。安定郡の人。前秦に仕官して苻生の治世に将軍となった。姚襄を敗死せしめ、張蚝、劉衛辰を捕縛した知勇兼備の将で、苻堅に近侍して万人の敵と評された。清廉で法整備に明るく御史中丞として綱紀粛正に貢献したほか、その剛直な性により苻生や王猛へも諫言した。
権翼
生没年不詳。字は子良。略陽郡の人。前漢の権忠の14世の孫。初め姚弋仲に従った。姚萇が前秦に降伏すると苻堅と親交を深めた。苻堅の南征には反対した。淝水の戦いの敗北後、慕容垂の自立の動きを警戒した。没落する前秦を支えたが叶わず、長安が放棄されると後秦へ亡命した。
呂婆楼
生没年不詳。字は広平。略陽郡の人。苻健が後趙から独立すると従った。侍中、尚書など高官を歴任した。苻堅の政変で王猛を推挙し、苻生の殺害に関わった。王猛、強汪、梁平老と共に王佐の才と評された。後涼の呂光は子にあたる。
梁平老
?-372年。略陽郡の人。氐族。苻堅に早くから使えて昇進し、苻生の代では特進、領御史中丞になった。苻生の暴虐のために政変に加担した。使持節、都督北藩諸軍事、鎮北大将軍として長らく北方を治めた。病没。
李威
?-374年。字は伯龍。漢陽郡の人。苻雄の后・苟氏の従弟にあたり寵遇された。苻生の謀殺、苻法の賜死に関った。王猛を推挙した一人であり、苻堅には管仲を知る鮑叔牙と例えられた。太尉、侍中まで昇る。苟氏と私通した記録が残る。
王猛
325年-375年。字は景略。北海郡劇県の人。漢人。貧しい幼少を経て鄴へ遊学した。徐統に取り立てられたが応じず華山へ隠遁した。呂婆楼に推挙されて苻堅に仕え、その様は劉備と諸葛亮に例えられる。内治から前燕攻略まで枢機に携わり丞相まで昇った。病没。武廟六十四将。
王永
?-386年。北海郡劇県の人。王猛の子。扶風郡太守を務め幽州刺史となった。淝水の戦い以後、続発する反乱に尽力した。苻堅の処刑が河北に伝わると、苻丕を皇帝に推戴し諸国へ檄を飛ばした。晋陽を拠点として交戦したが、西燕の攻撃を受けて戦死した。
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苻生雖好勇嗜酒,亦仁而不殺。觀其治典,未為凶暴。及詳其史,天下之惡皆歸焉。 ↩︎