范長生
publish: 2021-05-07, update: 2026-04-19
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?-318年。字は元寿。涪陵郡丹興県の人。天師道の教祖。蜀の八仙の一人。李特らが益州に入って羅尚と対立したとき、青城山に拠点を構えていたため、羅尚の下で汶山郡太守に任じられた。食糧を供給して李流を支援し、李雄に従って丞相まで昇った。病没。
補記
拠点とした青城山は、道教の発祥の地の一つとして知られ、現在では景勝地として文化遺産(世界遺産)に登録されている。
年齢は、百歳近く、あるいは百歳を越えたとされ、かつては劉備に仕えたとも、劉備の征伐を退けたともあり、宗教組織の教祖、仙人に相応しい謎ばかりの人物である。 丞相は宰相職だが、李特たちとの関係性も薄く、教祖としての名望があったとはいえ、出自も良く分からない老人が就くあたり不気味である。
子に范賁(?-349年)があり、父をついで丞相となった。 桓温の遠征による成漢の滅亡まで健在で、滅亡後に散発した反乱の一つとして鄧定、隗文に推戴された。 現地の支持は強かったが、東晋の益州刺史・周撫、龍驤将軍・朱寿によって鎮圧され処刑された。
関連
侯莫陳順
?-557年。代郡武川鎮の人。侯莫陳興の子。侯莫陳崇の兄。爾朱栄、次いで賀抜勝に従った。北魏末の反乱に従軍して栄転した。孝武帝・元脩に従って関中に入り、同郷の宇文泰から歓迎された。東魏戦線で活躍したほか、氐の反乱鎮圧では離間を行うなど知略にも優れた。
殷景仁
390年-441年。陳郡長平県の人。殷道裕の子。劉毅の属官を経て劉裕に従い、そのまま宋の成立と共に入朝した。当初は劉湛との関係も良好で、荊州に出向した劉湛の呼び戻しを推薦したが、後に一方的に劉湛からは憎まれた。病を称して家に留まること五年におよび、その間、劉義隆との書簡の往来で職務を全うした。
王粲
177年-217年。字は仲宣。山陽郡高平県の人。王謙の子。後漢の三公を輩出した名家に生まれた。幼いころに董卓の遷都に従い長安へ移住したが、長引く戦乱を避けて荊州へ移った。劉表には遇されず、劉表の死後は劉琮と共に曹操に帰属した。博識で記憶力に優れ、侍中まで昇った。