成漢
(section)publish: 2021-06-13, update: 2026-05-03
目次
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概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 成漢 | 304 | 347 | 43 |
成漢は蜀の地に自立した勢力。 巴氐族の李雄が成都王を称して元号を立てたことを始まりとする。 当初の国号を「大成」とし、李寿の代に「漢」に改められた。 成漢と通称する。
特徴
半独立半従属
成漢の朝議は常に独立派と東晋への従属派で割れた。 当時の異民族国家がおしなべて皇帝を称して独立したのに対し、成漢では従属論が大勢だった。 この理由として、統治者層である李氏が鮮卑と比べて漢化の強い氐族だったために漢族的価値観が強かったことや、領土が四川盆地の中で孤立し東晋と隣接していたために常に東晋への畏憚があったことが挙げられる。
全盛期であった李雄の時代ですら、皇帝を称しつつも東晋への朝貢を継続した。 また、前涼の張駿に修好を求められた時には、東晋への従属を促す前涼の論調にも協調した。 李雄の死後、国威に陰りが見えると従属論はより強くなった。 第四代皇帝・李寿は自らが即位するにあたって元々「大成」であった国号を「漢」に改めたが、このとき解思明は数年の皇帝と代々の諸侯のどちらが良いかと諫言した。 李雄の死後、成漢では政変が度々起こった。 これらは単なる後継争いではなく、成漢を東晋へ従属させたいイデオロギーと結びついていた。
主な出来事
成立まで
氐族の李氏は、張魯の統治時代に巴西郡へ移住し、曹操の代に略陽郡へ移住した。 この頃、彼らは自らを巴氐族として自認し、李慕の代には西晋の東羌猟将なる官職を務めた。 同じく氐族であった斉万年が関中を巻き込んで反乱を起こすと(296年)、秦州、雍州には大量の難民が発生した。 この反乱は、梁王・司馬肜や、左積弩将軍・孟観の討伐によって鎮圧されるものの(298年)、発生した難民への対処は無く、多くの難民が隔絶していた益州へと流入した。 当初、西晋朝廷は、難民が好き勝手に移動しないよう、侍御史・李苾を派遣してその動向を監視させたが、膨れ上がった難民の統御は難しく、難民の移動を禁じることは不可能であった。 このとき、難民を主導し人望を集めたのが李特を筆頭とする李氏一族だった。
当時、益州刺史を務めていた趙廞は、大長秋に任じられて中央へ召還されていた(300年)。 ところが、折しも中央では賈南風を始めとする一党がことごとく誅殺され、賈氏一族と婚姻関係にあった趙廞は禍を恐れて召還に応じず、政治的孤島とも言える益州で自立を目論むようになった。 趙廞は益州を支配するにあたって、李特に率いられた益州の難民を懐柔し、自らの私兵として利用しようとした。 一方で、中央の令に応じない趙廞の後任として耿滕が益州刺史に着任した。 耿滕は上奏して趙廞らに対抗したが、李特らの軍事力を利用した趙廞によって殺害された。 しかし、趙廞は猜疑の目を内側に向け、自身の軍事力の中核を成した李特の弟・李庠を殺したため、李特の反乱を招いて殺された。 益州刺史・耿滕の殺害に始まった趙廞の乱は、趙廞が自ら頼ったはずの軍事力によって鎮圧されたことになり、李特はその反乱の主体であったにもかかわらず、趙廞討伐の当事者として西晋から褒賞された。
耿滕に続く益州刺史の後任が羅尚だった。 羅尚は難民たちの解散と帰郷を命令する朝廷に対して一定の猶予を与えたが、難民の衣食住を工面する李特らと、辛冉、李苾ら羅尚の幕僚とは徐々に折り合いがつかなくなった。 ついに、辛冉、李苾らが独断で軍を動かして難民を攻撃すると、羅尚もそれを追認せざるを得なかった(301年)。 李特は羅尚に対して常に優勢で、河間王・司馬顒や朝廷は度々救援を差し向けたが羅尚の劣勢は変わらず、李特は大将軍、大都督、梁益二州諸軍事、益州牧を自称し建初に改元した。 一方で、羅尚も西晋を代表する一廉の将軍ではあった。 羅尚は成都に籠城して守勢に徹するのではなく、策を持ち機を見て攻勢にも出たため、この間に李特は戦死し、継いだ李流は病死し、難民の主導者は李雄へと変わった。
成立と全盛期
- 304
- 李雄が成都王を称する
三年に渡る羅尚と難民の抗争は、羅尚が成都から逃走し成都が李雄の手に陥落したことをもって大勢が決した。 李雄は成都王を自称して建興と改元した。 また、306年には皇帝を称して国号を大成とした。 羅尚はその後も巴にとどまって抵抗するが、羅尚に協調した益州の諸将は各個に滅ぼされ、羅尚も病没(310年)すると、李雄による益州統治は確立した。 さらに、314年には梁州刺史を自称した仇池の楊難敵を攻撃して漢中を支配下に置いた。
衰退
- 334
- 李雄が病没する
成漢の治世は李雄の治世と言っても過言ではない。その治世は三十一年に及ぶ。 しかし、長く安定した統治の後にあるのは往々にして後継問題という混乱である。 李雄は生前、兄・李蕩の子・李班を皇太子として立てた。 これは、国家の正統は嫡男である兄・李蕩にあると李雄が考えたからであった。 一方で、李雄自身にも男子が多くあったことが後の火種となった。 群臣の諫めもあったものの、李雄の死後、遺言に従って李班が帝位を継いだ。
やはり李雄の子、特に李越と李期は強い不満を持った。 帝位を継いだ李班はこのとき四十六歳と成熟し、博学で良識と節度をもった人物であった。 しかし、どこか悠長で警戒心に欠けた君子としての一面があり、李玝や韓豹に警戒するよう諫められたが厳しい処置をとることが出来なかった。 李越は李班を殺すと弟の李期に帝位を継がせた。
- 338
- 李寿が皇帝に即位する
だが、このような拙速な簒奪劇は災いが自分に及ぶのではないかと多くの親族を恐怖に陥れた。 ましてや、それが実力者であれば不和を為すことは当然であった。 漢王・李寿は建国の功臣であった李驤の子で、李雄の従弟にあたる。 このとき三十八歳の李寿は李玝の後任として涪城を鎮した。 李期の疑いが李寿へ向けられると、李寿はこれを恐れ、先手を打って挙兵した。 李寿は成都を掌握すると李越ら一党を李期に処刑させた。 そして、李期を邛都県公へ落して自らが皇帝に昇った。 国号の漢は自らの漢王の爵位に由来する。
- 343
- 李寿が没する
李寿は元来聡明な人物として評価される。 李雄の時代に功績を重ねて建寧王まで昇り、その評価は内外に聞こえた。 しかし、その優秀さゆえに自らを恃むところが強かったのかもしれない。 朝廷で主流を占めた東進従属論は李寿にとってはことごとく相性が悪かった。 帝位を退いて王位を称するよう上奏されたことや、東晋征伐の計画を群臣から猛反対されたことが、李寿をいかに鬱屈させたかは想像に難くない。 やがて、李寿の政治は暴政となって諫言するものの多くを殺した。 そのような李寿の精神状態が良いはずもなく、李寿は四十三歳で病死した。 子の李勢が後継した。
- 347
- 李勢が東晋の桓温に降伏する(成漢の滅亡)
李勢の代は国が乱れた。 その大きなきっかけは、李勢の弟・李広が皇太弟の地位を求めたことだった。 これに馬当と解思明が同調したが李勢はこれを認めず、さらに彼らの間に謀略があるのではと疑って李奕に李広のいる涪城を攻めさせた。 結果、馬当と解思明は処刑され、李広は漢王から臨邛県侯に落されて自害した。 この重臣の粛清が朝廷を停滞させた。 時に、獠族と呼ばれる西南の異民族が四川盆地の広範に移住して乱を起こしたが、成漢には対処するすべがなかった。 乱れを憂いた李奕が晋寿において挙兵した時は多くの世論を得たが、李奕自身が戦死したため成功しなかった。
このような国内の不安定が、東晋で急速に台頭した桓温に隙を与えた。 桓温は成漢討伐の朝議をまとめて軍を催した。 笮橋の戦いでは成漢軍も善戦したが、桓温の成漢攻略の意志は強く、桓温の進軍は止まらなかった。 李勢は葭萌城にて降伏した。 李勢は建康に移されて帰義侯に封じられ、そのまま建康で没した。
系譜
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李慕
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李輔
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李特
【追】景帝
1
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李始
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李蕩
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李班
哀帝
4
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李雄
武帝
3
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李越
建寧王
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李期
幽公
5
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李庠
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李流
【追】秦文王
2
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李驤
【追】献帝
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李寿
昭文帝
6
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李勢
末主
7
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-
- 左側が年長者
- 数字は皇位の継承順
- 継承に関係のない筋は省略
歴代君主
李特
?-303年。巴氐の出身。斉万年の乱の時、流民となり蜀に移住する。趙廞の乱ではこれに従うが、趙廞が彼の弟を殺害したために、逆に趙廞を殺し実質的な蜀の支配者となる。のち益州刺史として赴任した羅尚と対立し、改元・自立を宣言した。羅尚に対して一時は優勢を維持するも戦死した。
李流
248年-303年。巴氐の出身。兄の李特に従い流民と共に転戦した。李特が戦死すると李特の勢力は大きく動揺したが、甥の李雄らの武勇もあって羅尚を救援する荊州軍を撤退させた。しかしまもなく病が篤くなり、李雄を後継者に指名して死去した。兄李特の戦死から僅か七ヶ月後であった。
李雄
274年-334年。巴氐の出身。成漢の創設者。武帝。益州刺史羅尚を撤退させ成都を完全に制圧すると、成都王を称して成漢を成立させた。断続的に東晋と係争し漢中・巴東・寧州を攻略する一方で、前涼の張駿が東晋への臣従を勧めたときには一定の理解を示した。在位は30年に及ぶ。
李班
288年-334年。成漢の第2代皇帝。哀帝。李雄の兄李蕩の子。時の皇帝李雄の甥であったが、李雄は兄李蕩こそが正当な継承者と考えていたため立太子される。李雄の死後その後を継ぐが、皇位継承に不満を持った李雄の子李越に暗殺される。在位は1年に満たない。
李期
314年-338年。字は世運。成漢の第3代皇帝。幽公。初代皇帝李雄の四男。兄の李越と共に第2代皇帝李班を殺害し即位する。奸臣を重用し悪政を敷いたため国力の衰退を招いた。成漢の重鎮李寿が奸臣の排斥を名目に軍を起こすと、廃位され邛都県公に落された。在位5年。
李寿
300年-343年。字は武考。成漢の第4代皇帝。李特の弟李驤の子。軍を率いて成都に迫り奸臣排斥を上奏して李越らを処刑させた。さらに李期を廃して邛都県公に落とすと自ら皇帝に即位した。東晋に対する自立と臣従で国政が割れる中、徹底して帝位を維持した。後に病死。在位5年。
李勢
?-361年。字は子仁。成漢の第5代皇帝。李寿の子。李寿が死去するとその後を継いだ。政治を顧みなかったため国を乱し、ついに東晋の攻略を受ける。大司馬桓温を自ら迎撃するが連戦連敗を喫し葭萌城にて降伏した。在位5年。東晋より帰義侯に封じられ建康で没した。
主な宗族
李庠
247年-301年。字は玄序。李慕の子。李輔、李特の弟。李流、李驤の兄。郡の属官として仕えたが任官を固辞した。斉万年の乱では流民となって蜀へ渡るが、任侠心が強く人望を集めた。趙廞が決起するとこれに従うが、趙廞に勢力を恐れられて誅殺された。
李蕩
?-303年。字は仲平。李特の子。父に従って益州に入り、李特が羅尚と対立すると共に戦った。羅尚の奇襲により李特が戦死した後も、李流の指揮下で抗戦した。羅尚の勢力を覆す善戦をしたが傷がもとで没した。学問に通じ容姿が美しかった。
李輔
?-303年。字は玄政。李慕の子。李特の長兄。巴氐族の出身。略陽郡臨渭県の人。斉万年の乱が起きると一族が蜀へ避難するなか実家に留まった。趙廞が乱を起こすと弟たちと合流し乱を鎮めた。李特が自立を強めて羅尚と対立すると驃騎将軍となったが、羅尚の奇襲を受けて李特と共に戦死した。
李驤
?-328年。李慕の子。李輔、李特、李庠、李流の弟。一族と共に益州に入り兄弟たちと各地を転戦した。一族の多くが戦死する中、益州刺史・羅尚や荊州軍と戦った。都督中外諸軍事、大将軍、領中護軍、西夷校尉、録尚書事などの重職を歴任した。李班の立太子に反対したが叶わなかった。病没。
主な人物
閻式
?-309年。天水郡の人。閻彧とも。李特たちが難民を連れて益州へ移るとこれに従った。益州刺史として羅尚が着任すると李特の使者として度々往来し、難民側の主張を羅尚に伝える一方で、羅尚から李特への懐柔の窓口となった。李雄の代に尚書令まで昇るが、配下の訇琦、張金苟に殺害された。
范長生
?-318年。字は元寿。涪陵郡丹興県の人。天師道の教祖。蜀の八仙の一人。李特らが益州に入って羅尚と対立したとき、青城山に拠点を構えていたため、羅尚の下で汶山郡太守に任じられた。食糧を供給して李流を支援し、李雄に従って丞相まで昇った。病没。
解思明
?-345年。出自は不明。李寿の長史に任じられた。李寿が皇帝・李期と対立すると羅恒とともに謀り、成都を占拠して李期を廃し東晋に従属することを進言した。李寿の死後、李勢の後継として皇太弟を立てることを求めたため、李勢の怒りを買って処刑された。諫臣。