賈南風
publish: 2021-04-24, update: 2026-04-19
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257年-300年。司馬衷の皇后。賈充の3女。嫉妬深く権謀を好んだ。司馬炎からは5つの欠点を指摘されたが、賈充派の強い後押しがあって太子妃となった。楊駿の殺害後は八王の乱の中心人物となり、司馬亮、衛瓘を初めとする宗族や重臣を粛清した。皇太子・司馬遹殺害の罪で、司馬倫に処刑された。
補記
当初、司馬炎は司馬衷の后に衛瓘の娘を考えていた。 司馬炎が、衛瓘の娘の美点と、賈充の娘(賈南風)の欠点について、それぞれ五つずつ、以下の通り挙げている(括弧内が賈南風の欠点)。
- 賢才(嫉妬深い)
- 家に子が多い(少ない)
- 容貌が美しい(醜い)
- 背が高い(低い)
- 肌の色が白い(黒い)
しかし、賈充に阿った荀顗、馮紞、荀勗は、頻りに賈南風の美貌と才徳を称えたため、ついに司馬炎は、賈南風を后(当時は太子妃)に立てざるを得なかった。
賈南風には、後の悪政の評価に相まって、悪女の評価が数多く残る。
- 夫・司馬衷の子を妊娠した側室を、胎児ごと殺す
- 司馬瑋を唆し、楊駿一族を粛清する
- 司馬瑋に、司馬亮と衛瓘を処刑させる
- 司馬瑋を、司馬亮と衛瓘殺害の罪で処刑する
- 乱れた異性関係に耽る(関係を持った者は使い捨てるように殺された)
- 皇太子・司馬遹を謀叛の罪で殺害させる
最終的に、彼女は司馬遹殺害の罪で司馬倫に処刑される。
関連
慕容垂
326年-396年。字は道明。後燕の創建者。成武帝。慕容皝の第5子。桓温の北伐を撃破した。慕容恪の死後、慕容評との確執を恐れ前秦に亡命した。淝水の戦い以後前秦から独立し後燕を建てた。翟魏、西燕を滅ぼした。北魏に出兵したおり陣中で病没。在位13年。
賈充
217年-282年。字は公閭。賈逵の子。賈南風の父。曹爽の失脚後、司馬氏に取り立てられた。曹髦殺害を指揮して罪に問われなかったように、司馬氏の腹心として絶大な信任を得た。派閥を好み、人事評価は好悪が先んじた。西晋建国の功臣として筆頭に挙がる。病没。
王雄
507年-564年。字は胡布頭。太原郡の人。王崙の子。太原王氏を称するがその字から自称と考えられる。賀抜岳に従って関中に入り、梁領である漢中方面を攻略した。宇文護の下で北斉を攻めたとき、斛律光の矢が当たったとされ、陣没した。庸国公。