孫秀 ( そんしゅう )

publish: 2021-12-07, update: 2026-04-19

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?-301年。字は俊忠。琅邪郡の人。初め潘岳に仕えたが、狡猾、貪淫と評され度々処罰を受けた。司馬倫が琅邪王の頃に仕え、文章を賞されて累進した。多くの謀事に関り、司馬遹の殺害、賈氏の誅殺など数多の凶行を主導した。朝廷を専断して諸王の挙兵を招き、内部から呼応した趙泉に斬られた。

西晋を完全に消滅せしめたのは、前趙を代表とする異民族勢力ではあるが、そのまえに西晋を機能不全たらしめたのは、孫秀と司馬倫の二人であろう。 司馬倫は司馬懿の晩年の子でありながら、学問を収めず、読み書きができないほどの無学であったという。 それでありながら、王という強権の立場なのだから、その側近の存在がいかに大事かはいうまでもないことである。 孫秀が司馬倫に仕えたのは、司馬倫が琅邪王であった頃だから、265年から277年の間である。 少なくとも、24年に渡る君臣の関係があり、互いの信頼が篤かったであろうことは予測できる。 ところが、孫秀の性は、王佐と言うにはほど遠いものであった。 その才能は、文章を司馬倫に評価されたとあるが、司馬倫自身が読み書きをできない時点で、客観的に優れていたかは疑問である。 しかし、少なくとも、同僚たちを差し置いて累進したのであるから、阿諛追従に優れていたとはいえるかもしれない。 司馬倫はその最期、自害するにあたって「孫秀が我を誤らせたのだ」と嘆いたというが、無学の彼からしたら事実そうであったであろう。 孫秀は、無学な主君を教育するではなく、ただ私欲のために利用したのである。

孫秀は、とにかくあくどいことを平気で成したが、その最たるものは、司馬遹の殺害と賈南風の誅殺だろうか。 賈南風が朝廷を専横していたころ、賈南風の放恣と、太子・司馬遹への敵意は周知の事実であった。 司馬遹が廃位されると、その側近である司馬雅、許超らが太子復帰と賈南風の廃位に動いたが、このときが彼らが協力を仰いだのが司馬倫であった。 司馬倫は協力を約束したが、孫秀は同意する一方で、賈南風に司馬雅たちの計画をわざと漏らした。 つまり、賈南風に司馬遹を殺させたうえで、賈南風を司馬遹殺害の罪で除けば、朝廷の実権は自ずと主君・司馬倫に落ちてくるという算段であった。 司馬雅らの計画を賈南風に漏洩することは、保身に走る賈南風が太子一派に対して強行手段に出ることを決定づけるものであった。 この謀略は、かつて賈南風が司馬偉に対して行ったものであり、賈南風にとっては因果応報ではあるが、この過去を知らない孫秀ではあるまいし、彼にはおよそ良心や正義という精神が無いと見える。

このとき、賈南風は朝廷を縦横していたとは言え、実務は張華ら良臣に支えられて、西晋の機構は保たれていた。 ところが、孫秀は賈氏の一派として賈氏政権を支えた張華らもことごとく処刑した。 加えて、発足した司馬倫政権は無策であったにもかかわらず、帝位を簒奪して賈氏政権を遥かに超えるやりたい放題を尽くしたため、世論を失い西晋の権威を失墜させた。 司馬倫の帝位簒奪は、西晋の帝位を軽んじるものであり、以後、諸王の武力闘争を誘引し、緩やかな下り坂であった八王の乱を俄かに傾けて西晋の衰退を決定づけた。

関連

可足渾氏

生没年不詳。慕容儁の皇后。景昭皇后。慕容暐、慕容沖の母。猜疑心や妬心が強く、慕容垂の妻である段氏を死に至らしめたため、慕容垂とは徹底的に仲違いした。権力掌握を目指した慕輿根に利用されたり、慕容垂の誅殺を企むなど、前燕滅亡の遠因となった。

賀蘭祥

517年-564年。字は盛楽。代郡の人。武川鎮の出身で幼くして孤児となり、宇文氏とは常に進退を同じくした。行政にも優れて、流民や少数民族の帰化、堰や灌漑の整備に尽くしたほか、個人としては贈答を受け取らない清廉さを称賛された。宇文護政権でも活躍し、涼国公まで昇る。

蕭巋

542年-585年。字は仁遠。後梁の第2代皇帝。明帝。蕭詧の第3子。宗主国が西魏、北周、隋と変遷する中で一貫して友好な外交を維持した。北周が北斉を滅ぼした際は自ら長安へ行き祝賀した。安定した治政により熟成した南朝文化が後世に継承された。在位23年。

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