王濬
publish: 2021-08-05, update: 2026-04-19
206年-285年。字は士治。司隸弘農郡湖県の人。武廟六十四将の一人。羊祜の厚遇を受けて巴郡太守、広漢太守を経て益州刺史を務めた。呉征伐では水軍編制を急進し、長江を降って建業を攻めた。征呉の功を巡って王渾と対立したが、鄧艾の轍を恐れて身を引いた。
関連
拓跋普根
?-316年。代の第2代王。拓跋猗㐌の子。父・拓跋猗㐌の死後は中部拓跋部を継いだが、拓跋猗盧が三部を統合するようになるとこれに従った。拓跋猗盧が拓跋六脩に殺されると、拓跋六脩を殺して王位を継いだ。間もなく死去。在位は僅か一ヶ月。跡は子が継いだが名は伝わらない。
王恭
?-398年。字は孝伯。太原郡晋陽県の人。王蘊の子。司馬曜の皇后・王法慧の兄。外戚。謝玄亡き後の北府軍を継承した。王国宝によって軍権を解任されると殷仲堪と挙兵して、司馬道子に王国宝を処刑させた。司馬道子討伐のために再度挙兵したが、調略された劉牢之に敗北し処刑された。
慕容沖
359年-386年。西燕の初代皇帝。慕容儁の子。前燕の中山王。慕容恪死後の大司馬を後任した。慕容垂の挙兵に応じて河東にて挙兵するも、竇衝に敗れて慕容泓と合流した。慕容泓を殺害した高蓋らに皇太弟として擁立された。慕容暐が処刑されると皇帝に即位した。帰郷しようとする鮮卑諸族を統制できず左将軍・韓延に殺害された。