苻法
publish: 2021-10-13, update: 2026-04-19
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?-357年。字は永則、幼名は阿法。苻雄の庶長子。清河王。苻生殺害の政変を決行し、弟の苻堅に皇帝即位を促した。憚った苻堅は皇帝ではなく大秦天王を称した。賢明で人望があったがゆえに、苻堅の生母・苟氏に猜疑され賜死を受けた。
関連
岑彭
?-35年。字は君然。南陽郡棘陽県の人。王莽政権下で棘陽県令を務め、南陽太守の甄阜と共に劉玄、劉縯と戦った。降伏すると義士と評され劉縯に従った。劉縯の死後は朱鮪の属官を経て潁川太守となった。劉秀の攻略に降り朱鮪を説いた。蜀攻略では水軍を率いたが、公孫述の刺客に殺害された。征南大将軍、舞陽侯。
李忠
?-43年。字は仲都。東萊郡黄県の人。もと高密国の郎。王莽政権では信都郡の尉、劉玄政権では信都郡の都尉を拝命した。信都郡太守の任光に従い劉秀を迎えた。龐萌、董憲の討伐に加わり、後に江南に移って広く開墾した。略奪を行わない厳正さと、激しい忠義を持った。豫章太守、中水侯。
司馬攸
246年-283年。字は大猷。斉王。司馬昭の第3子。子がいない司馬師の猶子となった。聡明でありながら人徳を有し、宗族の中で一際輿望を集めた。後継問題を背景に、司馬炎から疎まれて、封地への帰国を命じられた。まもなく病没。司馬攸帰藩事件として、八王の乱の初端と解される。