慕容会 ( ぼようかい )

publish: 2021-10-20, update: 2026-04-19

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?-397年。清河王。慕容宝の庶子。慕容垂に皇太孫とされたが、父、兄弟と折り合いが悪く慕容垂の死後、廃された。龍城に駐屯して北魏に敗れた父を救ったが、軍を取り上げられて慕容農と慕容隆に分配されたため、二人の暗殺を謀った。暴挙を知った慕容宝と交戦するも敗北し、中山へ逃亡したところを慕容詳に捕殺された。

祖父・慕容垂からはいたく寵愛され、生前に皇太孫に指定されているように、その性格は積極的で知性にあふれていたようである。 しかし、巧詐は拙誠に如かずとはこの事かもしれない。 父・慕容宝は慕容会に不満を持ち、兄・慕容盛も内心では慕容会を嫌って、これらの不和が廃太子につながった。

軍功に驕るところがあり、慕容農や慕容隆が訓戒したときには改心するどころか逆恨みを持った。 このことが、慕容会による慕容農、慕容隆の暗殺につながる。 暗殺計画を実行に移したとき、その成功を疑わなかった慕容会は、父・慕容宝に対して、二人が謀叛を計画していたため先んじて誅殺したと報告する。 ところが、二人のうち慕容農は重体ながら生きていた。 これにより慕容宝は全貌を知るところとなり、慕容会は結果、身を滅ぼすことになる。

後燕では一族が多く重用されているが、どうも慕容垂には人を見る目が無い。 慕容会についても、その例の一つである。

関連

斛律光

515年-572年。字は明月。斛律金の第1子。父に従い初陣で宇文泰の長史・莫者暉を討ち取った。大鵰(オオワシ)を射止めたことから落鵰都督と呼ばれ、高歓、高澄に厚く任用された。娘に皇后を輩出するなど一族揃って栄転したが、祖珽や穆提婆の恨みを買い、讒言を受けた高緯に処刑された。

楊愔

511年-560年。字は遵彦。弘農郡華陰の人。楊津の子。名門、弘農楊氏の出。幼くして寡黙、沈着で言論に優れた。北鎮の乱を経て高歓に仕官し行台郎中となった。公文書を扱って枢機に預かり、高洋の即位後は侍中、尚書令を歴任した。高演、高湛の排除を目論み露見し殺害された。

王濬

206年-285年。字は士治。司隸弘農郡湖県の人。武廟六十四将の一人。羊祜の厚遇を受けて巴郡太守、広漢太守を経て益州刺史を務めた。呉征伐では水軍編制を急進し、長江を降って建業を攻めた。征呉の功を巡って王渾と対立したが、鄧艾の轍を恐れて身を引いた。

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