後趙

(section)

publish: 2021-04-16, update: 2026-05-16

概要

名称 成立 滅亡 期間
後趙 319 351 32

後趙は石勒が前趙から独立して建てた王朝。 その始まりは石勒が前趙の中で河北平原の統治を確立させたことにある。 第三代皇帝・石虎の死後は後継争いによって支離滅裂となり、冉閔が帝位を簒奪する一方で、関中では前秦が独立し、河北では前燕が南下した。

特徴

胡漢対立

後趙は河北全域に対して異民族政府による統治を初めて確立した王朝であり、五胡十六国時代および南北朝時代を通して最も胡族と漢族の対立が深まった王朝でもある。 後趙では、独自の官吏制度や法制度の制定が進んだ。 各地で都城建設が進み、人口の増加や農業、経済の安定が見られる。 これらは、漢族の知識人を多く重用したことによるもので、胡族と漢族は協調して王朝を運営したかに見える。

しかし、極端とも言える胡族と漢族の対立もあった。 石虎の死後、後継者争いが起きると漢人の冉閔は、石氏一族を含む二十万人にのぼる胡族を虐殺した。 冉閔が後趙を掌握するにあたって「私に従うものは残り、従えないものは去れ」と布告したところ、多くの胡人が去った結果であった。 漢人であっても風貌が胡人に似ていた者も殺されたというからその行動は徹底している。 もし、後趙が単一民族で成り立っているのであれば、冉閔が政権を掌握するにあたって二十万を虐殺するとは考えにくい。 冉閔は胡族という異民族を脅威として捉えていたからこそ民族虐殺に至った。

一方で、胡族自身にも自分たちは漢族にとって異民族という異質の存在なのだという自己認識もあった。 ゆえに、前趙の靳準は反乱するにあたって「胡人で天子となった者はいない」と言って東晋への帰順を図った。 また、後の後秦の祖となる姚弋仲は後趙が滅亡するにあたって「戎狄で天子となった者はない。東晋に帰順し不義を成すな」と子たちを戒めた。 二人はいずれも胡人である。 この発言には異民族の立場で漢族の頂点に立つべきではないという自己抑制が見られる。 ただし、異民族国家が乱立した五胡十六国時代を見れば、このような自制をもつ胡人は明らかに少数派であろう。 胡人がそのような自制を押し付けられているのだから、ましてや漢人には胡人の皇帝を寛容する社会通念などは無かったはずである。 前趙も後趙も強力な指導者が運営したからこそ、たとえ胡人が皇帝を称してもその統治を享受したが、ひとたび統治を乱せば胡人であることが強烈な逆風となった。 靳準と姚弋仲はそのような世論の逆風を予期し恐れた。

靳準と姚弋仲は、王朝の正統性は西晋から東晋へと連綿と続く晋が持っており、前趙も後趙もそれを乱す一時的な軍事政権(クーデター政権)に過ぎないという考えで一致している。 この場合、辺境に割拠した前涼と前燕は東晋への従属があくまでも体裁だったとしても東晋領という立場になる。 胡人の中にもそう考える者もいたのだから、この考え方は前趙や後趙で行政の実務にあたった漢人にもあった。 冉閔は国号を魏、元号を永興として皇帝に即位し東晋に帰順こそしなかったものの、兗州、徐州、豫州、荊州の刺史らは東晋へこぞって帰順したことはその証左である。

後年、胡漢の対立概念は、南朝が東晋から宋、斉、梁、陳へと交代していったこともあり、時間とともに北魏において融合していった。 つまり、胡族は漢化することで自身の出自に対して特別な民族同一性を持たなくなると同時に、漢族も漢化した胡族出身者を異民族として排他的に捉えなくなった。 隋唐時代を迎えるころには五胡の人々と漢族は同化され、それらを分別することは意味を持たなくなるのだが、後趙はまだその民族対立の辛い過渡期であった。

胡漢分治

後趙の制度に胡漢分治と呼ばれる体制があった。 これは前趙から存在した特徴だが、後趙においてより強固になった。 胡漢分治とは、漢人に対しては漢人の旧来の制度を施行し、胡人に対しては別の制度を施行した二重の統治制度であった。 非効率にも見えるこのような体制は、民族や文化が入り混じった当時の背景に即した現実的な制度だった。 胡族側が統治者としてあえて二重に統治しているため同化政策とは異なるが、実態は魏晋で設置された護匈奴中郎将などの辺境民族の統治を担った制度を、立場を逆転させたものとも言える。 胡漢分治は民族の分断を企図した体制ではないとする考え方の一方で、自然発生したであろう民族融和を阻害し遅らせたとも言える。

主な出来事

背景

創建者である石勒は羯族と呼ばれる匈奴羌渠種の後身を出自とする。 そもそも匈奴は多数の国家を征服した多民族国家であり、羌渠種も元は西方の中央アジアを起源とする部族であった。 300年ごろ、并州が飢饉と戦乱に直面すると、貧しかった石勒の家は離散し、石勒は冀州平原郡茌平県の師懽なる者に奴隷として売られた。 師懽は石勒の異相をみて石勒を自由の身とし、石勒はとある牧場に出入りして、その主である汲桑と親しくなった。

305
公師藩の乱に身を投じる

司馬穎が司馬越一党に敗れて鄴を失陥し長安に逃れて失脚すると、公師藩は司馬穎の復権を掲げて挙兵した。 牧人とは言っても半ば群盗であった汲桑と石勒はこの挙兵に参加した。 公師藩は転戦して鄴に迫ったが、鄴を守る平昌公・司馬模や、これを救援した范陽王・司馬虓の苟晞、丁紹らに敗れて敗死した。

307
汲桑の乱に従う

公師藩が敗亡してその難を逃れた汲桑と石勒は残党を集合して略奪をなし司馬越打倒を掲げて再び挙兵した。 汲桑は鄴で司馬騰を討ち取ると、北に転じて幽州刺史・石尟を楽陵郡にて敗死させ猛威を振るったが、兗州刺史・苟晞と数ヶ月に及ぶ激戦の末に敗退した。 このとき、并州に割拠していた前趙に合流しようとしたが、冀州刺史・丁紹に阻まれて汲桑は冀州楽陵郡にて乞活の田禋に討たれた。 逃げるにあたって石勒と汲桑は別の道を進んだようで、石勒は上党に割拠する張㔨督の庇護を受けた後、彼を伴って劉淵へ帰順した。 石勒は劉淵に輔漢将軍、平晋王1と厚遇された。

前趙を拡張

308
劉聡の先鋒として壷関を攻略する

前後して青州を攻めた折に張賓を採用したことは石勒の躍進を運命づけた。

309
鉅鹿、常山を攻める

安東大将軍となって開府した。 開府とは自身が人事権を持つ役所を設置することである。 この頃から石勒は独断で転戦し、またそれが前趙を利するものであったから、劉淵ですら石勒を咎めることが出来なかった。 石勒は君子営と呼ぶ会議体を設置し多くの賢人を求めて張賓に統括させた。

311
司馬越の軍を滅ぼす(洛陽陥落)
311
王弥を殺す

王弥は306年に劉柏根の乱を端緒として自身も青州を中心に荒らしたが、兗州刺史・苟晞に敗れてかつて親交のあった劉淵に帰順した。 王弥は数度にわたる洛陽侵攻を部将として指揮する一方で、配下の曹嶷を推挙して青州攻略に当たらせた。 王弥は洛陽攻略時に劉曜の不興を買って対立したことで、曹嶷と連携して自立を模索した。

石勒は王弥の動きを捉えていた。 石勒は乞活の劉瑞に苦戦する王弥をあえて救援して王弥を油断させると宴席において王弥を斬り殺した。 石勒と王弥は互いに華北の競合と見なしており、王弥の死によって河北の覇権は石勒の手に入った。 石勒は王弥の反逆を劉聡へ上奏したが、これは臣下同士の私闘であることは明白だった。 しかし、石勒を咎める実効手段を持たない劉聡は石勒を追認せざるを得なかった。

314
幽州の王浚を滅ぼす
316
劉琨を并州から追い落とす

劉琨はその後も鮮卑段部と結託して抗戦したが、劉琨を恐れた段匹磾に殺された。

独立

319
後趙を建国する

劉聡の死後、後継した劉粲を外戚の靳準が害して乱をなした。 この靳準の乱を鎮めたのは劉曜と石勒である。 だが、劉曜が石勒の使者を処刑したことで、両者は完全に決別した。 石勒は趙王を称し趙王と改元した。 のち330年に帝位に昇る。

最盛期

329
前趙を滅ぼす

石勒が石虎に兵を与えて西進させると劉曜が救援のために洛陽まで出たため、石勒も洛陽へ親征した。 洛陽の西郊で石勒と劉曜が対峙し、この戦いで石勒は劉曜を捕縛した。 石勒と劉曜はかつて重門の盟と呼ばれる互いに盟友と認め合った仲だった。 石勒は劉曜を丁重に扱ったが、劉曜に降伏の意思がないことを知ると劉曜を殺した。

333
石勒が没する

石弘が皇帝に即いた。 しかし、石弘は石虎の傀儡も同然であった。 石弘は石虎を恐れて帝位を石虎に譲ろうとしたが拒絶され、強制的に帝位に昇らされた。 即位してからも禅譲の意思を持ち続けたが、これも石虎に拒絶された。 石虎の強かさは禅譲ではなく石勒の族子を滅ぼして自身の権力を盤石にしようとしたところにある。

石虎は最大の政敵であった程遐、徐光を処刑すると朝廷の人事を一新して、重職を自身の腹心に入れ替えた。 当然、反発も起きた。 劉皇太后は彭城王・石堪と共に石虎討伐を計画して挙兵したが失敗し処刑された。 関中を統治した石生、洛陽を統治した石朗もそれぞれ挙兵したがいずれも一年持たずに鎮圧された。 石勒は石弘を廃して実母・程皇太后、弟の秦王・石宏、南陽王・石恢と共に幽閉し殺害した。

滅亡

349
石虎が没する

石虎の治世が十五年に及ぶことは、石虎の治世を評価する指針のひとつである。 石虎が学問や宗教への関心を強めて仏教の高僧であった仏図澄を厚く待遇したことは、暴虐と評された石虎にとって意外な一面である。 暴君という石虎の印象は、胡族を蔑視する漢人による過度な記録である可能性はある。 だが、その治世はあまりにも石虎一人に依存したものだったことは事実だ。 なぜなら、石虎の死後一年の間に三人の皇帝が立っては廃位され、一人の皇帝は冉閔に処刑されたからだ。 石虎の死後一年余りで後趙は跡形もなく消え去った。

このとき、石氏もろとも胡族二十万を虐殺して後趙を相続した冉閔は、352年、前燕の南進に敗れ処刑された。 冉閔が立てた王朝は冉魏と通称するが、三年に満たない短命王朝であるため、一般に五胡十六国には数えられない。

後趙帝室系図

  • 耶弈于

    -

    -

    • 周曷朱

      -

      -

      • 石勒

        -

        1

        • 石弘

          -

          2

  • 㔨邪

    -

    -

    • 寇覓

      -

      -

      • 石虎

        -

        3

        • 石鑑

          -

          6

        • 石遵

          -

          5

        • 石祗

          -

          7

        • 石世

          -

          4

  • 左側が年長者
  • 数字は皇位の継承順
  • 継承に関係のない筋は省略

石虎の子の兄弟関係については、石鑑が第三子、石遵が第九子、石世が末子とされているが、石祗は長幼の順番が定まらない。 石勒と石虎は同族ではあったが直接の血縁関係は無く、石虎は幼いときに父・寇覓を亡くして周曷朱の養子になった。 石勒にも養子が多く、養子の縁組は部族としての特徴ともいえる。

諡号 姓名 生年 即位 退位 没年 即位年齢 没年齢 在位期間
1 明帝 石勒 274 319 333 333 45 59 14
2 (廃帝)海陽王 石弘 313 333 334 334 20 21 1
3 武帝 石虎 295 334 349 349 39 54 15
4 (廃帝) 石世 339 349 349 349 10 10 0 (33日)
5 (廃帝) 石遵 ? 349 349 349 ? ? 0 (183日)
6 (廃帝) 石鑑 ? 349 350 350 ? ? 1 (103日)
7 新興王 石祗 ? 350 351 351 ? ? 1

歴代君主

石勒

274年-333年。字は世龍。後趙の創建者。明帝。劉淵に従い前趙の将軍として河北を転戦し、西晋の幽州刺史王浚、并州刺史劉琨など、諸勢力を滅ぼした。前趙から独立して後趙を建て、河北に拠って前趙を滅ぼした。奴隷から皇帝まで上った中国史上唯一の人物とされる。在位15年。

石弘

313年-334年。字は大雅。後趙の第2代皇帝。海陽王。石勒の次子。石勒の死後、石虎を恐れて帝位を譲ろうとするも、石虎に拒まれて強制的に皇帝に即位した。しかし、実質は石虎の傀儡であり石虎の権力掌握は進んだ。その後、石虎によって廃位され殺害された。在位1年。

石虎

295年-349年。字は季龍。後趙の第3代皇帝。武帝。石勒の甥。暴虐な性格であり石勒が戒めても改まらなかった。石勒の死後、石弘を廃して皇帝に即位した。造反が絶えなかったが、統率力に優れてその都度鎮めた。東晋、前燕と抗争を続け後趙の最盛を築く一方で、過大な支出により経済的な疲弊をもたらした。在位16年。

石世

339年-349年。字は元安。後趙の第4代皇帝。廃帝。石虎の子。皇太子石宣が誅殺されると代わりに皇太子に立てられる。石虎の死後僅か11歳ながら皇帝に即位するも、帝位簒奪を目論む石遵により廃された。まもなく殺害された。在位33日。

石遵

?-349年。字は大祗。後趙の第5代皇帝。廃帝。石虎の九男。皇太子石宣が誅殺された折、石世と並んで立太子の候補にされた。石虎の訃報を聞いて挙兵し鄴に上って石世を廃した。兵権を握る冉閔を危険視し除こうとしたが、石鑑の密告を受けた冉閔により処刑された。在位183日。

石鑑

?-350年。字は大朗。後趙の第6代皇帝。廃帝。石虎の三男。冉閔粛清を本人に密告し石遵の廃位を招いた。冉閔に擁立され皇帝に即位するも実権はなく傀儡だった。諸方で冉閔・李農を除く企てが起こるなか冉閔に幽閉され、後に復権を企むも露見し廃位、殺害された。在位103日。

石祗

?-351年。後趙の第7代皇帝。新興王。石虎の子。冉閔が石鑑を廃して冉魏を建てると封地の襄国で皇帝に即位した。冉閔討伐の兵を興すも一進一退し、冉閔に敗れて保身を図った配下の劉顕によって殺害された。史書によっては君主として数えられない。

主な宗族

石琨

?-352年。汝陰王。石虎の子。石虎の死後は石遵や冉閔に従ったが、冉閔が独自に国号を改めると、冀州を拠点に襄国の石祗と呼応した。冉閔に対して一進一退したが、石祗が劉顕に殺害されると東晋へ亡命した。東晋において亡命は許されず、建康にて処刑された。

主な人物

申鍾

生没年不詳。魏郡魏県の人。後趙に仕えて侍中、司徒を歴任した。石虎の横暴を諫めた争臣としての逸話が残る。冉閔が魏を建国すると、これに従い太尉となった。前燕によって冉閔が滅亡すると、捕縛されて薊に送られるが、許されて慕容儁に登用された。その後の事跡は不明。

王朗

生没年不詳。後趙の領軍、車騎将軍を歴任し、石虎に重用された。石虎の死後、後趙が乱れると長安に駐屯し、東晋の北進に備えた。冉閔と敵対し、冉閔に通じた麻秋によって誅殺されかけると、襄国の石祗を頼った。張挙、石琨らと鄴の冉閔を攻撃したが敗北した。前秦に降った後、事跡は不明。

張賓

?-322年。字は孟孫。趙郡中丘県の人。漢人。張瑶の子。張宝とも。初め西晋に仕官したが望みを得ず辞職した。石勒が中原に進出すると自ら出仕し、早くから側近としての信任を得た。王弥暗殺の計画をはじめ、多くの遠謀を持って石勒の絶大な待遇を得てなお、処世に誤りが無かった。病没。

曹嶷

?-323年。劉柏根の反乱に従ったが、その死後は王弥の下で前趙に帰順した。王弥が石勒に殺害されると、独立を強めて青州一帯に勢力を築いた。東晋と修好したが、前趙を滅ぼした後趙の攻撃を受けると、各地で撃破されて降伏した。石虎に襄国へと送致され、石勒によって処刑された。

徐光

?-333年。字は季武。頓丘郡の人。張賓の死後、石勒に重用された。父の徐聡は牛医であったが、戦乱のため幼くして王陽に捕らえられ労働に従事した。学識を認められ石勒に取り立てられた。石勒の不興を買って一時幽閉されるが、後に許され顕職を務めた。石勒の死後、石虎に誅殺された。

程遐

?-333年。石勒の挙兵に従い、早くから長楽郡太守を務めた。妹が石勒に嫁ぎ石弘を生んだため外戚として昇進した。張賓の死後その重職を継いだが、人格や能力は張賓に及ばなかった。石虎の横暴を度々上奏したが聞き入れられず、石勒の死後、石虎に誅殺された。

夔安

?-340年。石勒十八騎の一人。天竺の出身であるが、遼東へ移り住んだ。傭兵稼業をする石勒と共に群盗となり各地を荒らした。石勒、石虎に従って文武を歴任した。晩年には、石鑑、冉閔、李農、張賀度、李菟ら五将を従え、荊州を攻めて東晋に名を響かせた。

仏図澄

232年-349年。姓は白。亀茲国、または天竺の出身。石勒、石虎からの信頼を得て、仏教を急速に普及させた。訳経を行わず神異僧に数えられるが、その布教は高邁な教義や神異の力ではなく、日常生活に則した生活態度を根本とした。門下からは多数の高僧を出し、仏教の源流となった。

張豺

?-349年。西晋末期、中原が乱れると割拠して王浚の傘下に入った。王浚の死後は石勒に帰順し、将軍職に任じられた。石虎の後継に石世を推し、石勒の死後、石世を即位せしめた。劉皇太后と共に政治を牛耳るが、石遵が挙兵すると孤立した。石遵に高位を与えて出迎えたが、捕らえられ処刑された。

徐統

?-349年。後趙の右光禄大夫、司隷校尉、侍中を歴任した。人を見る目を持ち、若き頃の王猛や苻堅を見出したと逸話が残る。石虎の死後、張豺らが朝政を乱すと、乱には預かれぬとして自殺した。後に、末子である徐攀は苻堅に取り立てられ、琅邪郡太守となった。

李農

?-350年。後趙の司空。石虎の死後、張豺と敵対し、張挙に助けられて石遵に従った。冉閔に同調して石遵の廃位に関わったため、内外に政敵を作った。冉閔が帝位につくと斉王に封じられたが、最後はその権勢を恐れた冉閔に誅殺された。

苻洪

284年?-350年。字は広世。元の姓を蒲とする。氐の出身。前趙、後趙に従い、石虎の代には使持節、都督六夷諸軍事、冠軍大将軍を受任し、西平郡公に封じられた。石虎の死後は冉閔と対立し、関中一帯に自立したが、麻秋に毒殺された。その勢力は子の苻健に引き継がれ、前秦の実質的な創建者と捉えられる。

麻秋

?-350年。胡人。後趙の武人で特に石虎に重用された。苻洪の反乱や、段遼ら鮮卑の侵攻、前燕、前涼の圧力に対して歴戦した。石虎の死後は冉閔に従い、王朗を攻撃して逃走せしめた。自立した苻洪に敗れて降伏するも、その勢力を奪わんとして苻洪を毒殺した。苻健によって処刑された。

張挙

?-351年。後趙の征北大将軍、太尉を歴任した。李農と親交が厚く、張豺と敵対する李農を逃がした。一貫して後趙の朝廷に従ったが、冉閔が国号を改めると、離反して襄国の石祗を頼った。石祗が冉閔に対して劣勢になると、前燕に援軍を求める使者となったが、石祗の死後、見返りの玉璽が偽物だと露見し処刑された。

杜洪

?-352年。京兆郡の人。冉閔と石祗が対立すると、王朗、麻秋は長安から洛陽に入ったため、張琚と共に関中を占拠した。枋頭から関中攻略を目指して西進する苻健に敗れ、司竹、宜秋に逃れた。張琚によって殺害されたとも、苻健の攻撃によって敗死したともある。

劉顕

?-352年。石祗の属将。冉閔と戦って大敗を繰り返し、恐れるあまり石祗を始め重臣を殺害して冉閔に帰順した。一方で自立を目論み冉閔から離反するが、悉く敗れた。曹伏駒の寝返りで襄国に入城した冉閔によって処刑された。最終的に後趙に止めを刺した人物に当たる。

冉閔

?-352年。字は永曾。冉魏の君主。武悼天王。冉瞻の子。石虎の養子。漢人。後趙の将軍として功績を立てる。石虎の死後混乱した後継問題に介入し、石遵、石鑑を廃して皇帝に即位した。後趙残党の石祗を滅亡させるも、前燕の南下を引き起こし慕容恪に捕らえられ処刑された。


  1. 平晋王は郡県に封じられた王ではなく匈奴の内での称号で、劉淵は単于の立場から石勒を平晋王とした。 ↩︎

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