東魏
(section)publish: 2020-12-31, update: 2026-07-31
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 東魏 | 534 | 550 | 16 |
東魏は北魏から分裂した王朝。 一般に東魏と表現するが、正式な国号は「魏」であり、東魏と西魏が共に魏の正統を自認した。
特徴
北魏の実質的な後継
西魏が周礼の導入や鮮卑への復古を目指して、制度的に大きく方向転換したのに対し、東魏には西魏に見られる方針の転換は見らなかった。 これは、東魏が西魏に比べて北魏の領土などの資産を多く継承したことが、理由の一つとして挙げられる。
当初、西魏の勢力は東魏と比べて小さいものだったが、結果として、西魏は梁の巴蜀方面を併呑して、東魏と並び立つ勢力に成長した。 もし西魏が東魏に早期に滅ぼされていたとしたら、西魏の皇帝は自称皇帝として歴史に認識され、西魏の勢力は一反乱勢力として認識されるに過ぎなかったであろう。
とはいえ、東魏には北魏を後継するだけの強い求心力がなかった。 北魏の基盤をほとんど受け継ぎながらも、北魏自体が六鎮の乱を経て大きく威信を失っていた。 また、孝武帝・元脩が出奔してしまったため、朝廷は皇帝不在となった。 この状態で、高歓が元善見を擁立したところで、かつての北魏を盛り返そうという機運はすでに失われていた。
以上より、北魏は東魏と西魏に分裂したというよりも、まず北魏の衰退によって王朝が代替わりする流れがあり、結果的にそれが北魏から北斉への推移となった。 東魏はその過渡期に過ぎない。 一方で、北魏からの王朝交代に対抗する複数の思惑があった。 その一つが西魏であるが、その西魏もまた北魏を後継しえず、北周へと推移していった。
主な出来事
成立
- 534
- 元善見が高歓に擁立される(東魏の成立)
西魏との抗争
- 537年:沙苑の戦い
- 538年:河橋・邙山の戦い
- 542年:玉壁の戦い
- 543年:邙山の戦い
- 546年:玉壁の戦い
- 547
- 高歓が死ぬ
- 547
- 侯景が乱をおこす
河南大行台として東魏南方の軍権を統べた侯景は、大丞相・高歓が死んでその座を高澄が後継したとき、自身の身の安全を危惧して東魏に背いた。 高歓は臨終にあたって、侯景の狡猾さへの警戒を高澄へ遺言したという。 侯景の離反はその遺言を侯景が恐れたためであった。 侯景は西魏や南朝の梁と連携を取ろうとしたが首尾が悪く、侯景は戦線を保持し得ず梁へ帰順した。
歴史の奇なるところではあるが、侯景の離反は結果として東魏に対する影響よりも南朝の梁に対する影響を大にした。 一般に侯景の乱とは東魏に対するものではなく、彼が帰順したあとの梁に対するものとして理解されるのはこのためである。 永嘉の乱以来、中華には二百五十年に渡って王朝を南北に分裂せしめる南北間の均衡があった。 侯景の乱は、梁の滅亡を方向付け南朝の衰退を招いたことにおいて、後に隋による中華の統一を可能にする、南北の均衡を破壊する契機であった。
滅亡
- 549
- 高澄が蘭京に殺される
- 550
- 元善見が高洋に禅譲する(東魏の滅亡)
東魏帝室系図
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拓跋宏 6(北魏)
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元愉
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元宝炬 1(西魏)
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元欽 2(西魏)
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元廓 3(西魏)
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元懌
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元亶
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元善見 1(東魏)
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- ※左側が年長者です。
- ※数字は皇位の継承順を意味します。
- ※皇位継承に関係のない筋は省略しています。
| 代 | 諡号 | 姓名 | 生年 | 即位 | 退位 | 没年 | 即位年齢 | 没年齢 | 在位期間 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 孝静帝 | 元善見 | 524 | 534 | 550 | 552 | 10 | 28 | 16 |
元善見は東魏唯一の皇帝です。
歴代君主
元善見
524年-552年。東魏唯一の皇帝。孝静帝。拓跋宏の曾孫。元懌の孫。元亶の第1子。元脩が高歓の排除に失敗して宇文泰を頼ると、洛陽には皇帝が不在となったため高歓に擁立された。高歓の傀儡であり実権は高澄、高洋へ継がれた。高澄の誅殺を計画するが失敗し、高洋に禅譲した。
主な宗族
主な人物
賈智
493年-537年。字は顕智。中山郡無極県の人。賈道監の子。北魏末に相次いだ反乱に対応し功績をあげた。爾朱栄の台頭、爾朱氏の内紛を巧みにくぐり抜け、高歓に従った。開府儀同三司、侍中まで上った。各州の刺史を務めたが民衆を搾取しており民政には明るくない。東魏が成り晋陽へ赴任し、後に罪の連座を受けて刑死した。
劉貴
?-539年。秀容郡陽曲県の人。劉乾の子。爾朱栄の属官を務めると厚く信任され、将軍職、刺史職を歴任し、爵位は公まで昇った。爾朱氏の内紛で高歓が挙兵するとこれに従った。主に対西魏戦線に立ち西魏の独孤信らと戦った。
高歓
496年-547年。字は賀六渾。高樹生の子。懐朔鎮の出身。六鎮の乱では杜洛周や葛栄に従い、最終的に爾朱栄に属した。爾朱栄の死後は爾朱氏の内訌を収めて北魏の実権を握った。元脩の出奔後は元善見を擁立して西魏と度々争うが大勢は拮抗した。病没。
孫騰
481年-548年。字は龍雀。孫機の子。爾朱栄および高歓に従った。高歓に元朗を擁立するよう勧めた。主に高歓の後背を守った。高歓の信任を得て顕職に昇る一方で、素行の悪さを高歓にしばしば譴責された。病没。四貴の一人。
慕容紹宗
501年-549年。字は紹宗。慕容遠の子。前燕の太原王・慕容恪の末裔。爾朱栄および爾朱兆に従った。爾朱兆が自害すると残党をまとめて高歓に降った。侯景が叛すると東南道行台となり、侯景と梁の軍を撃破した。西魏の潁川攻略中に自船を拿捕され自害した。
高澄
521年-549年。字は子恵。高歓の子。強い政治力をもって高歓の死後、東魏の実権を掌握したが、梁の降臣・蘭京に殺害された。実権は弟の高洋が継いだ。元善見を狗脚の朕と罵倒した苛烈な性格の持ち主。美男子と評される。
侯景
503年-552年。字は万景。侯標の子。出身は定かではない。爾朱栄の部将として頭角を現した。爾朱栄の死後は高歓に従って河南大行台を務めて河南の軍事を監督した。高澄に疑われて謀反し、後に侯景の乱と呼ばれる中華全土の勢力図を書き換える契機を作った。建康陥落後に皇帝を称するが、王僧弁らに追われて敗死した。
司馬子如
489年-553年。字は遵業。司馬興龍の子。西晋の南陽王・司馬模の末裔。若くして高歓と交友を結び、爾朱栄に属した。高歓による実権掌握後は、度々免官されるもその都度復帰して顕職を歴任した。北魏、東魏、北斉の3朝に仕えた。病没。四貴の一人。
高隆之
494年-554年。字は延興。元の姓を徐という。徐幹の子。元悦の属官となるが、早くから高歓と親交を深めた。農業や治水の政策に明るかった。高澄の死後は高洋を軽んずる振る舞いがあり、高洋に殺害された。長身で美しい髭を持ち、感情を表に現さなかった。四貴の一人。