前涼
(section)publish: 2020-12-31, update: 2026-04-27
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 前涼 | 301 | 376 | 75 |
前涼は西晋の涼州刺史・張軌が建てた王朝。 河西回廊を領した。 ただし君主の多くは皇帝を称さずに、当代の大国に臣従して西平公や涼王に留まった。 統治期間は301年から376年の七十五年間で、五胡十六国時代の王朝としては長い。
特徴
半独立半従属
前涼の歴代君主のなかで皇帝を称したのは張祚一代のみであり、前涼は一貫して西晋、前趙、東晋といった大国に臣従しつつ国政を安定させた。 体面は従属しつつも実際は独立しているという政治姿勢が許されたのは、涼州が中央から遠い辺境の地であり、統治は張氏一族に委任せざるを得なかったからである。
勢力の基盤を漢人が占めていたことも、独立の機運を高めなかった理由である。 涼州刺史として赴任した張氏一族が漢人であり、それを支えた在地の豪族たちも漢人だった。 同時代の北方諸国はおしなべて異民族を出自とする有力者に主導されて独立した。 異民族が皇帝を称して王朝を立てたのは、西晋や東晋が持った正統な王朝としての権威を軽視したからである。 だが、漢人国家である前涼が同じように独立や建国を顕示すれば、漢人同士の争いに繋がりかねなかった。
主な出来事
成立
- 301
- 張軌が涼州刺史となる
西晋の朝廷が八王の乱で混乱の最中にあった301年、張軌は涼州刺史として姑臧へ赴任した。 張軌自身が安定郡烏氏県を本貫とする涼州に強い地盤を持った人物だった。 張軌は竇融が河西に逃れて保身した故事に倣い、朝廷の混乱を避けるために故郷の涼州への赴任を望んだ。 また、長子の張寔も父の後を追うように中央を辞して涼州へ帰った。 張軌親子の結束は前涼の独立性の大きな基盤となった。
衰退
- 353
- 張重華が没する
張重華の治世までが前涼の全盛期と言えよう。 ただし、張重華自身が君主として評価されないのは、張祚や趙長の台頭を許し、功臣の謝艾を左遷して、後の乱れを作ってしまったところにある。 享年二十四歳という若年皇帝にあって、優れた輔弼を得なかったことは前涼の命運を分けた。
張重華が病に伏せたとき、後嗣の張耀霊はまだ十歳の少年であった。 張重華は一度左遷した謝艾を呼び戻して後見としようとしたが、張祚、趙長はその遺言を秘匿して実現しなかった。 間もなく張重華が死ぬと張耀霊が立ったが、趙長が張耀霊の幼年を理由に廃立を建議し、張耀霊は廃されて張祚が立った。 張祚を東晋の涼王を自称したが、張祚の時代とはならなかった。 張軌以来、前涼は常に臣下として節度を弁えてきたため、張祚の尊大に対する諫言は内に多かった。
- 355
- 張瓘が張祚を殺害する
前涼の河州刺史・張瓘は宗族であり州都の枹罕において大きな兵力を有していた。 張祚はこれをあらかじめ警戒し、張瓘の軍権を没収しようとした。 これが、張瓘の反乱を誘引した。 さらに、驃騎将軍・宋混が張瓘に呼応すると、もはや張祚には人心が無く、朝廷に殺到した軍に殺された。
張祚は庶人の礼で埋葬され、張祚の子は二人までが処刑されたが、後に張天錫によって改葬されて威王と追諡され、残った子の張庭堅は金沢侯に封じられた。 張祚も張重華の一族を皆殺しにしたりせず、肉親に対する非道は無かった。 張祚の軌跡を鑑みれば思いのほか救済のある結果である。 張祚の治世は褒められたものではないかもしれない。 しかし張祚自身は、中華の歴史において度々現れる悪鬼か羅刹かの類型ではなく、一人の人間として狡猾で小心な本来得るべきではなかった権力を得てしまった小人と言えるかもしれない。
- 363
- 張天錫が張玄靚を殺害する
張祚が死んだ後、宋混、張琚らによって張重華の子・張玄靚が擁立された。 当初は張瓘が実権を握ったが、次第に張瓘は綱紀の乱れを見せ、逆に厳正であった宋混と対立するようになった。 359年、張瓘は遂に王位収奪を目論み、宋混らを粛清すべく軍を動かした。 ところが、宋混はこれを事前に察知して張瓘を破り、張瓘一党を処刑した。
宋混は張玄靚の称号を涼王から涼州牧へ降下させるなど一定の統御を朝廷にもたらしたが、その性格から敵が多かったと見て取れるかもしれない。 361年、宋混が病没すると、宋混らを邪魔に見ていた張邕が、宋澄一族を誅殺した。 さらに、張邕の行動は気儘で私欲によるものであったため、張玄靚の叔父・張天錫が張邕を誅殺した。
この年、張天錫は劉粛らの張玄靚の幼年を理由に代わって立つべきという建議に同意し、兵を朝廷に差し向けると張玄靚を殺害し、自らが立った。 張重華の二人の子・張耀霊と張玄靚は、哀れにも両者ともに幼齢を理由に廃されて殺害されたことになる。
- 376
- 前涼が前秦に降伏する(前涼の滅亡)
張天錫による治世は十三年に及んだ。 しかし、それは善政と富強による安定ではなく、張天錫が前秦に臣従したことが前秦の苻堅の融和的政策と合致した言わば延命に過ぎない。 また、前秦にとって当面の敵は前燕であったことも起因した。 張天錫も常に前秦の動向に恐れを抱いて、前秦に臣従する一方で東晋とも修好を強めた。
ついに、前燕が滅びて(370年)苻堅が前涼征伐の軍を起こすと、張天錫は抗戦を示したが、既に国内は浮足立っており、まともな戦いにならなかった。 首都・姑臧まで前秦軍が至ると張天錫は降伏した。
張天錫は苻堅が滅ぼした亡国の君主にもれず、前秦の体制下で厚遇された。 淝水の戦いの頃には征南大将軍・苻融に従って寿春に駐屯し、淝水の戦いで前秦が大敗すると、張天錫は東晋に亡命した。 前涼が一貫して東晋に臣従していたことは評価され、張天錫は東晋においても厚遇を得た。 しかし、国を滅ぼした事実は朝廷において軽んじられる理由となり、司馬元顕はあからさまに張天錫を侮蔑した。 実子の張大豫は淝水の戦いの後、王穆に匿われて河西に逃れ、後に後涼を建てる呂光と覇権を争ったが敗れて処刑された(387年)。 その趨勢を張天錫がどのように聞いたかは知る由もない。 張天錫の晩年は精神を病んで生気を失ったともあるが、享年六十(406年)という天寿を全うしたことを考えれば、その心中は穏やかだったのではあるまいか。
君主系図
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張軌 1
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張寔 2
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張駿 4
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張祚 7
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張重華 5
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張耀霊 6
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張玄靚 8
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張天錫 9
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張茂 3
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| 代 | 諡号 | 姓名 | 生年 | 即位 | 退位 | 没年 | 即位年齢 | 没年齢 | 在位期間 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 武公 | 張軌 | 255 | 301 | 314 | 314 | 46 | 59 | 13 |
| 2 | 昭公 | 張寔 | 271 | 314 | 320 | 320 | 43 | 49 | 6 |
| 3 | 成公 | 張茂 | 277 | 320 | 324 | 324 | 43 | 47 | 4 |
| 4 | 文公 | 張駿 | 307 | 324 | 346 | 346 | 17 | 39 | 22 |
| 5 | 桓公 | 張重華 | 330 | 346 | 353 | 353 | 16 | 23 | 7 |
| 6 | 哀公 | 張耀霊 | 343 | 353 | 353 | 355 | 10 | 12 | 0 |
| 7 | 張祚 | ? | 353 | 355 | 355 | ? | ? | 2 | |
| 8 | 沖公 | 張玄靚 | 350 | 355 | 363 | 363 | 5 | 13 | 8 |
| 9 | 張天錫 | 346 | 363 | 376 | 406 | 17 | 60 | 13 |
歴代君主
張軌
255年-314年。字は士彦。前涼の創建者。武公。八王の乱により中央が乱れると涼州刺史を望んで赴任した。涼州に独自の勢力を築いたが一貫して西晋への臣従を貫いた。洛陽失陥以後、前趙の首都平陽の攻略の計画するが実行されなかった。病のため死去。
張寔
271年-320年。字は安遜。前涼の第2代君主。昭公。張軌の長男。西晋の驃騎将軍であったが、中央を辞して父が治める涼州へ帰還した。張軌の死後その地位を継ぐ。愍帝が降伏するにあたって司馬睿とともに後事を託された。邪教を信奉する配下に背かれ殺害された。
張茂
277年-324年。字は成遜。前涼の第3代君主。成公。張軌の次男。張寔殺害の主犯である劉弘らを処刑した。張寔の子である張駿を後嗣に指定して張寔の後を継いだ。前趙の西進を撃退しつつも前趙へ臣従し、硬軟織り交ぜて自立を保持した。病により死去。在位5年。
張駿
307年-346年。字は公庭。前涼の第4代君主。文公。張寔の子。張茂の跡を継ぐ。このとき前涼は東晋と前趙の両国に臣従していたが、前趙が後趙に対して劣勢になると前趙から受けた官爵を廃した。涼州・河州・沙州を定め前涼の最盛期を現出した。病により死去。在位22年。
張重華
330年-353年。字は泰臨。前涼の第5代君主。桓公。張駿の次男。張駿の跡を継ぐ。張駿の死を好機ととらえた後趙に領土を侵されるが国威を維持し続けた。後趙が滅ぶと勃興した前秦と争った。徐々に政務を怠り佞臣を蔓延らせた。病のため死去。在位8年。
張耀霊
343年-355年。字は元舒。前涼の第6代君主。哀公。張重華の次男。張重華が病を患うと10歳で世子に立てられる。張重華は謝艾に後見を任せようとしたが、遺詔は捏造され張祚に摂政が委ねられた。幼年を理由に張祚に廃され復位の兆しが出ると殺害された。
張祚
?-355年。字は太伯。前涼の第7代君主。威王。張駿の庶長子。張重華の遺詔を隠匿し自らを張耀霊の後見とし権力を掌握する。後に位を簒奪し、王を称した。乱暴で政治を顧みず人心を失ったため、張瓘・宋混らの反乱を招き殺害された。
張玄靚
350年-363年。字は元安。前涼の第8代君主。沖公。張重華の末子。張祚が殺害されると宋混らに擁立される。幼年で跡を継いだため張瓘、宋混、張邕、張天錫と摂政を巡って権臣たちの勢力争いが続いた。最後は張天錫によって殺害された。在位9年。
張天錫
346年-406年。字は純嘏。前涼の第9代君主。悼公。張駿の末子。張邕が政治を壟断したおり武力をもって張邕を自殺に追い込んだ。まもなく張玄靚を殺害し位を奪った。前秦の攻撃を受けこれに降伏した。在位13年。淝水の戦いでは東晋に降伏し半生を建康で過ごした。
主な宗族
張瓘
?-359年。宗族だが系譜は不明。張駿の代に、寧戎校尉、河州刺史を歴任して強勢を作った。張祚討伐のための挙兵を成功させ、張玄靚の輔弼の筆頭となった。宋混を恐れて誅殺しようとしたが、事前に察知した宋混の攻撃を受け、自害した。猜疑心が強く、苛虐であった。
主な人物
宋混
?-361年。字は玄一。敦煌郡の人。代々、当地の豪族で、張重華の代に驃騎将軍まで昇る。忠義に厚く、人望を集めた。張祚の誅殺を掲げて張瓘が挙兵すると、呼応して挙兵し張祚を処刑した。張重華の末子・張玄靚を推戴し輔弼した。張瓘を害意を察知して決起し、張瓘を敗走させて自害に追いやった。病没。
張邕
?-361年。前涼の右司馬。幼い張玄靚を輔弼したが、やがて宋混が亡くなると、宋澄一族を誅殺して朝廷を壟断した。政治を乱したため、前涼の衰退を加速させた。張天錫と争い、進退に極まり自害した。一族は誅殺された。傲慢な人物と評が残る。