斉
(section)publish: 2020-06-06, update: 2026-08-20
目次
章節
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概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 斉 | 479 | 502 | 23 |
斉は、蕭道成が劉準から禅譲を受けて建国した王朝。 竟陵八友などの文人サロンに象徴されるように貴族による文化が発展した。 他の斉と区別するために「南斉」とも表記される。
特徴
三人の廃帝
斉は二十三年という短い統治期間にも関わらず四人の皇帝と三人の廃帝を出した。 ここから斉という王朝の混乱を窺い知ることが出来る。 前代の宋王朝の歴代皇帝たちは、宗室対貴族の権力抗争で中で恩倖という寒門、非貴族を重用してきた。 この傾向は、蕭賾が寒門の登用を強化しているように、斉においてさらに強化された。 むしろ、蕭賾が後に四戸と呼ばれる紀僧真、茹法亮、劉係宗、呂文顕に独占的な政治権限を与えたことを見ると、斉は恩倖政治の頂点とも言える。
優秀な蕭賾にとって、自身の政略を実現させる実行力として、恩倖は有用であった。 貴族は利権と既得権益に縛られて、しばしば政治的障害になったのに対し、何の後ろ盾も持たない恩倖はしがらみ少なく大義や正義のために奔走することが出来た。 しかし、これは公序良俗に基づいた政治的判断が下せる皇帝であって成立するものであったことに留意しなければならない。 帝位の継承は長幼の序や血統、政治的立場など複雑な要因にもとづいて決裁されるため、しばしば幼い皇帝が立った。 恩倖は典型的な上意下達の組織構造といってよい。 その組織の頂点たる皇帝が機能しなければ恩倖は機能しない。 機能しないだけならまだ良いが、皇帝の権力の庇護にある恩倖は若く未成熟な皇帝の下で度々暴走した。 その結果として、斉では三人の廃帝を出す悲劇を生んだ。
俯瞰してみれば、皇帝の優劣に強く依存する王朝はかくも脆い。 宗室の権限が弱かった東晋の方が安定して長期政権として成立してすらいる。 ただし、東晋が王朝として頑健だったかどうかはまた異議がある。 宗室の権限が弱いと、魏や東晋がそうであるように、調和すべき権力の中に特異点が生まれるという別の悲劇がある。 権力をどう扱うべきか。 人類は権力を国民一人一人に分散する民主主義なる統治政体を発明したが、これもまた真に権力を解決するものとも思われない。 私たちは歴史を学んでも未だその答えを知らない。
戸籍の整備
当時、戸籍は士人と庶民で分かれていたが、徴税、懲役を科せられていたのは庶民の戸籍のみであった。 そこで、裕福な庶民の中には、賄賂をもって地方官に取り入り、自らの戸籍を庶民から士人へと不正に切り替えてもらうことによって、税役を免れているものがいた。 当然、課税対象の人口が減れば税収は少なくなり、残された課税対象の庶民はますます重税に苦しむことになる。 そのような負の連鎖を断ち切る意味が戸籍の整理にはあった。 これに対し、486年に唐寓之の乱として反発が顕在化すると、反乱そのものは速やかに鎮圧されたものの、戸籍検査に関する政策は調整を余儀なくされた。 北方からの移民が多い南朝において土断と検地は度々行わなければならない宿命だったが、同時に障害の多い改革でもあった。
斉の財政状況は健全であったとは言えない。 なぜなら、宋の元嘉の末年に北魏の侵攻によって疲弊した財政を斉は引き継いでいるからである。 故に、蕭道成も蕭賾も財政の建て直しに腐心した。 先の戸籍検査だけでなく、増税政策も推進した。 そのような改革を行うために先に述べた恩倖が必要であったことは言うまでもない。 斉が宋から引き継いだものとして、台使という制度があった。 台使とは宋が北魏の侵攻によって悪化した財政を立て直すために、中央から地方に派遣した徴税を監督する役職である。
戸籍検査、増税、台使。 これらは、直接的には民衆の懐事情を圧迫するように働き、副次的には恩倖を利用して改革を成そうとする政権とそれに対抗する貴族の軋轢を生じさせた。 民衆からの反発は唐寓之の乱に象徴され、貴族からの反発は蕭子良からの台使廃止の建議に現れている。 表面的に見れば、これらの政策は蕭賾の功績として単純に評価できるが、よくよく見れば、政策の周りには斉王朝を特徴づける要素の動きを俯瞰することができる。
主な出来事
成立
- 479
- 蕭道成が劉準から禅譲される(斉の成立)
- 482
- 蕭道成(高帝)が崩ずる
蕭道成は在位三年で没した。
- 493
- 蕭賾(武帝)が崩ずる
蕭賾の長男・蕭長懋はこの年、三十六歳で病没した。 このため、皇太孫として蕭昭業が立てられたが、同年、蕭賾も五十四歳で没した。 蕭賾の在位十一年の治世は永明の治とも呼ばれる小康状態を作り、土断や検地を行った功績もあり、蕭賾自身は南朝でも指折りの名君として評価される。 しかし、この不運としか言いようのない突発的な権力の転換があったことは、後の斉王朝の命運を決してしまった。
蕭昭業は二十一歳で即位した。 若年であったため、蕭賾の次男・蕭子良と蕭賾の従兄・蕭鸞が補佐した。 このうち、蕭子良は蕭賾の次男という血筋と、司徒、尚書令、竟陵王という重職と高位を持ち合わせ、竟陵八友を代表とする文人を集める人望を有していた。 このため、皇太子の蕭長懋が急死したとき、皇太子として蕭子良を立てるか、皇太孫として蕭昭業を立てるかの迷いが病の篤い蕭賾にあった。 しかし、後継者に指名されたのは蕭昭業だった。 この理由として、蕭賾は皇帝権力を強めるために寒門を登用してきたが、それが蕭子良の竟陵八友にも見られる貴族重用の政治的立場と対立したという背景がある。 また、蕭子良は文学や思想に傾倒して政治への関心が薄く、竟陵八友の一人、王融が蕭子良を擁立すべく兵を動かしても蕭子良は煮え切れず、王融を賜死させるがままとし、自身もまた翌年に憂卒している。 憂鬱のあまり自殺したともとれるが、蕭昭業はそれを聞いて喜んだというから、蕭昭業や蕭鸞が賜死したというよりは、病気にせよ自殺にせよ居場所を失って自滅していったという方が近いかもしれない。
- 494
- 蕭昭業(鬱林王)、蕭昭文(海陵王)が殺害される
いつから蕭鸞が自ら即位することを考えていたかは分からない。 しかし、蕭鸞は蕭昭業、蕭昭文を次々と廃し、この年、自ら皇帝に即位した。 蕭長懋の死から実質一年余りの間に、蕭長懋、蕭賾、蕭昭業、蕭昭文という王朝の嫡流が相次いで死んだことは、明らかな異常事態ではある。 これは前王朝の宋が陥った宗族同士の争いという業を、斉が同じように背負っていた事実と言える。
- 498
- 蕭鸞(明帝)が没する
蕭鸞は表面的に見れば、簒奪とも言えるような帝位の交代を行い、多くの宗族を粛清したという点で評価は高くない。 しかし、斉が宋と同じように実力主義によって皇帝権力を成り立たせていたことを見れば、蕭鸞は実力があったからこそ皇帝の座に座らされる運命にあったと言っても良い。 蕭鸞からすれば、自分が朝廷を主導せずに下手に斉を内乱状態にしてしまえば、斉は北魏の外圧に屈したであろうし、自身の政権と後継者に安定をもたらすには、脅威となる可能性がある宗族は粛正するほかに術がなかった。 実際、この頃、北魏は孝文帝の下で洛陽への遷都を実現し、斉への圧力を高めていたころであった。 北魏から見れば、蕭鸞はその圧力をしのぎ切った英主でもある。 史書もその吏才を認めた蕭鸞は享年四十七歳。 在位四年であった。
蕭鸞は病を得ても政務を中断せずに公表しなかったという。 左右の者たちは、病状が長期にわたり悪化して初めて病の事実を知った。 病が篤くなって蕭鸞は死んだ後のことが不安になったのであろう。 蕭鸞による賜死は、この晩年に集中している。 蕭鸞は宗族を賜死するとき香を求めたという。 宗族誅殺の謀議に深く関与したとされる蕭鸞の実兄・蕭遙光の列伝において、以下のように記録されている。
上索香火,明日必有所誅殺。1
「帝が香を求めると、翌日誰かが必ず誅殺された」と訳せられる。 これは、蕭鸞の性格や人格の不安定さというよりも、蕭鸞が置かれた立場の複雑さと残酷さだと言えるだろう。 一人の人間として悔やみながらも、皇帝という立場から宗族を殺さざるを得ない。 ましてや病躯の精神状態では、その判断の背景に何があったのか慮って余りがある。 そのような強烈な葛藤が、涙を流しながら誅殺を行うという蕭鸞を作った。 しかし、これはむしろ、一般的で正常な人間の反応ではないだろうか。 これを蕭鸞の自己正当化としてしまうのは、あまりにも人間に期待をしすぎている。
末期
- 501
- 蕭宝巻(東昏侯)が殺害される
蕭鸞が多くを誅殺したのは、自身の子たちに頼りなさを感じたからにほかならない。 蕭宝巻の人間性を評価することには慎重でありたいが、若さと実力不足が暗君という評価を定着させたことは否めない。 かりそめにも権力を持つ皇帝が暗愚だった場合、多くの讒言誣告を行った茹法珍のような、重用すべきではない人材を重用することの弊害は大きかった。 ここにも恩倖の禍が見て取れる。 恩倖とはつまり、皇帝自身が優秀であって成り立つ人事制度であり、そうでない場合は害悪でしかなかった。
六人の顧命大臣である江祏、江祀、蕭遙光、蕭坦之、劉暄、徐孝嗣は当時から六貴と呼ばれて権勢を誇った。 蕭宝巻が即位して間もなく彼の暗愚が徐々に詳らかになると、六貴の面々は蕭宝巻の廃位を図った。 皇帝一人が暗愚であっても皇帝に権力を集中させずに盛り立てれば良いのだが、実力主義のもとで皇帝の権力が成立する斉において、それがいかに困難であったかは想像に難くない。 過度な実力主義が、彼らに廃位という安易な選択を強制させた。 そうしなければ、誣告によって自らが害されかねない恐怖があった。 ところが、彼ら六人は誰を擁立するかにおいてまったく一致を見なかった。 江祏は蕭宝玄、江祀は蕭遙光、劉暄は蕭宝寅を推した。 遂に彼らは仲違いを起こし、蕭遙光が劉暄を害そうとしたところ、恐れた劉暄が蕭宝巻に密告したために、江祏、江祀の兄弟が処刑された。 さらに、身辺に不安を覚えた蕭遙光は兵を挙げたものの鎮圧のうえ処刑された。 残る蕭坦之、劉暄、徐孝嗣も嫌疑を受けて全員がまもなく賜死された。
以後、実力あるものはみな反乱を噂されるような疑心暗鬼が朝廷に蔓延した。 噂に掻き立てられるように、陳顕達、裴叔業、崔慧景、蕭宝玄、張欣泰らが続々と造反した。 この反乱の鎮圧に活躍したのが、蕭懿、蕭衍の兄弟だった。 蕭懿はその急速な台頭を恐れた茹法珍らの讒言によって蕭宝巻に処刑された。 兄の急死に憤りつつも、自身が政治的に追い込まれていることを悟った蕭衍は、蕭宝融を擁立して蕭宝巻を廃すべく挙兵した。 蕭宝巻は十九歳という若さで処刑された。
- 502
- 蕭宝融(和帝)が蕭衍に禅譲する(斉の滅亡)
蕭斉帝室系図
-
蕭整
-
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蕭雋
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蕭楽子
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蕭承之
【追】宣帝
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蕭道生
【追】景帝
-
-
蕭鸞
明帝
5
-
蕭宝巻
東昏侯
6
-
蕭宝融
和帝
7
-
-
-
蕭道成
高帝
1
-
蕭賾
武帝
2
-
蕭長懋
文恵太子
-
-
蕭昭業
鬱林王
3
-
蕭昭文
海陵王
4
-
-
-
-
-
-
-
蕭鎋
-
-
蕭副子
-
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蕭道賜
-
-
蕭順之
【追】文帝
-
-
蕭懿
【追】長沙宣武王
-
-
蕭淵明
閔帝
6
-
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蕭衍
武帝
1
-
蕭統
昭明太子
-
-
蕭歓
豫章安王
-
-
蕭棟
豫章王
3
-
-
蕭詧
宣帝
1
-
蕭巋
明帝
2
-
蕭琮
靖帝
3
-
-
-
-
蕭綱
簡文帝
2
-
蕭繹
元帝
4
-
蕭方等
忠壮世子
-
-
蕭荘
永嘉王
8
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-
蕭方智
敬帝
5,7
-
-
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-
-
-
-
| 代 | 諡号 | 姓名 | 生年 | 即位 | 退位 | 没年 | 即位年齢 | 没年齢 | 在位期間 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 高帝 | 蕭道成 | 427 | 479 | 482 | 482 | 52 | 55 | 3 |
| 2 | 武帝 | 蕭賾 | 440 | 482 | 493 | 493 | 42 | 53 | 11 |
| 3 | (廃帝)鬱林王 | 蕭昭業 | 473 | 493 | 494 | 494 | 20 | 21 | 1 |
| 4 | (廃帝)海陵王 | 蕭昭文 | 480 | 494 | 494 | 494 | 14 | 14 | 0 |
| 5 | 明帝 | 蕭鸞 | 452 | 494 | 498 | 498 | 42 | 46 | 4 |
| 6 | (廃帝)東昏侯 | 蕭宝巻 | 483 | 498 | 501 | 501 | 15 | 18 | 3 |
| 7 | 和帝 | 蕭宝融 | 488 | 501 | 502 | 502 | 13 | 14 | 1 |
| 平均 | 28.3 | 31.6 | 3.3 |
歴代君主
蕭道成
427年-482年。字は紹伯。蕭斉の初代皇帝。高帝。蕭承之の子。寒門の出身。劉彧の代から勢力を強め、劉昱の代には各地の反乱を鎮圧して独裁を確立した。危惧した劉昱に誅殺を計画されるが先手を打って劉昱を殺害、沈攸之、袁粲ら反対勢力を滅ぼして、皇帝に即位した。在位3年。
蕭賾
440年-493年。字は宣遠。蕭斉の第2代皇帝。武帝。蕭道成の第1子。父蕭道成の死後皇帝に即位した。国力増強に傾注し、検地の実施、戸籍の整理などに行政手腕を発揮した。政治にも明るく貴族に対抗する皇帝権力の強化に務めた。在位中は国内が安定した。在位11年。
蕭昭業
473年-494年。字は元尚。蕭斉の第3代皇帝。鬱林王。蕭賾の子蕭長懋の第1子。皇太子であった父蕭長懋の死後、皇太孫に立てられた。蕭賾の死後皇帝に即位した。父と祖父が相次いで病没したため、蕭子良、蕭鸞の輔弼を受けた。蕭鸞と対立して殺害された。在位1年。
蕭昭文
480年-494年。字は季尚。蕭斉の第4代皇帝。海陵王。蕭賾の子蕭長懋の第2子。兄蕭昭業が殺害されると蕭鸞に擁立され皇帝に即位した。しかし実体は蕭鸞の傀儡であり、皇太后王宝明の勅令を引き出した蕭鸞によって、廃位、殺害された。在位2か月。
蕭鸞
452年-498年。字は景栖。蕭斉の第5代皇帝。明帝。蕭道成の兄蕭道生の第2子。父蕭道生の死後は蕭道成に養育された。蕭昭業、蕭昭文を相次いで廃位、殺害し皇帝に即位した。政治行政に有能を発揮したが、蕭鏘の粛清や蕭賾の子孫を断滅するなど猜疑を重ねた。在位4年。
蕭宝巻
483年-501年。字は智蔵。蕭斉の第6代皇帝。東昏侯。蕭鸞の第2子。蕭鸞の死後皇帝に即位した。奇行が多く、補佐する重臣や諫言する高官を殺害した。反乱した蕭衍に殺害された。暴君と評価される。女性の美しい歩みを例えた金蓮歩の故事が残る。在位3年。
蕭宝融
488年-502年。字は智昭。蕭斉の第7代皇帝。和帝。蕭鸞の第8子。人心を失った蕭宝巻打倒を目指す蕭衍に擁立されて皇帝に即位した。蕭衍が蕭宝巻を殺害して建康を平定すると、蕭衍に皇帝の位を譲った。蕭衍により巴陵王に封じられるがまもなく殺害された。在位1年。
主な宗族
蕭子良
460年-494年。字は雲英。竟陵王。蕭賾の第2子。斉代随一の文化人で各種の書物や仏典に通じた。自邸である鶏籠山の西邸には当時の文人たちが多く集まり、著名人は竟陵八友と称される。蕭賾の死後、王融らに擁立される動きがあったが、権力闘争を避け実現しなかった。間もなく死去。
蕭懿
?-500年。字は元達。蕭順之の子。蕭衍の兄。斉宗室の族類。各州の諸軍事、刺史を歴任した。時は蕭宝巻の乱世で、裴叔業、崔慧景の反乱を次々と鎮撫した。蕭宝巻へ忠誠的であったが、独立、謀反を勧める周囲の動きも多く、讒言を信じた蕭宝巻に死を命じられた。
主な人物
王融
467年-493年。字は元長。名門貴族である琅邪王氏の出身。王道琰の子。竟陵八友の一人。蕭賾の死後、蕭子良を擁立するが、蕭子良に即位の意思はなく、蕭鸞が蕭昭業を奉じて強く反対したため、蕭昭業の即位の後、逮捕され、ほどなく自殺を命じられた。
謝朓
464年-499年。字は玄暉。陳郡陽夏県の人。謝緯の子。蕭賾の治世に出仕し諸王や重臣の属官を経て蕭鸞に大いに信任された。岳父・王敬則が反乱するとその計画を告発した。江祏の反乱への加担を拒否したため露見を恐れた蕭遙光、江祏らに殺害された。山水詩を洗練させた名人。
崔慧景
438年-500年。字は君山。崔系之の子。宋の官職を歴任して、蕭道成の信任を得た。蕭鸞の死後、斉の重鎮ゆえに朝廷から警戒され、蕭宝玄を奉じて挙兵した。建康周辺を制圧し蕭宝巻を呉王に降格するが、蕭懿の攻撃を受けて敗死した。
裴叔業
438年-500年。裴順宗の子。裴潜の弟・裴徽の末裔。宋の時代に軍人として累進し、蕭道成の配下となった。蕭鸞と親しく信任されて北魏戦線を転戦したが、その死後、反乱を疑われて崔慧景、蕭懿らの討伐を受けた。北魏に救援を求めるも、間もなく病没した。
-
『南斉書』巻四十五列伝第二十六 宗室 ↩︎