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publish: 2020-06-28, update: 2026-09-04

概要

名称 成立 滅亡 期間
557 589 32

陳は陳霸先が蕭方智から禅譲を受けて建てた王朝。 華北では北周が北斉を滅ぼし、北周から禅譲を受けた隋が建国している。 陳は南朝最後の王朝で、隋によって滅ぼされた。

特徴

小勢力

陳の勢力は長江以南で、さらに下流域に限定される。 この原因は前代の梁で起きた侯景の乱にあるわけだが、ここに北周や北斉が干渉したために、陳が成立する頃には、かつて南朝の諸王朝が領有した漢中、四川、淮北、淮南、荊北を失陥し、江陵には北周を後ろ盾とする後梁が割拠していた。

さらに、湖南には北斉の後援を受けた王琳による梁の残党が独立し、同調するように周迪、熊曇朗、留異、陳宝応らが割拠した。 陳は成立期から群雄の割拠や反乱に悩まされた。 その脆弱性の本質は梁末の陳霸先と王僧弁の対立に見て取れる。 陳霸先は、江陵が陥落したおり親族の多くが北周に拉致されたこともあって、北周に近づきたい政治思想を持っていた。 一方で、王僧弁は失地の回復を掲げるならば北斉と和親して江陵や四川を占領する北周と敵対するほかないと考えていた。 どちらの政見が優れていたかは歴史の if であり評価できない。 だが、淮南の割譲を北斉に取り付けた実利と、江陵以西を取り戻す展望を持つ王僧弁に対して、陳霸先の構想は心ある者には頼りなさを、心無い者には隙として感じられたのではあるまいか。

陳では呉明徹の北伐により一時的に淮南を取り戻すが、それも北周の圧力で弱体化した北斉につけこんだ結果でしかなく、長江上中流域における支配権には最後まで干渉できなかった。 回復した淮南の地も、北斉を併呑した北周に再度奪われている。 北周に代わった隋の時代では、国力差はもはや覆しようがなく、楊堅の連年にわたる慎重な攻撃により、陳はじりじりと滅亡への道を辿った。

貴族の後退

貴族の成り立ちは豪族という在地の有力者が中央の人事制度に強く干渉することで、その地位を一族に継承したところにある。 地位を高めることで一族に有利な人事を発動し、その人事が更なる一族の地位を保障する。 このような相互循環した仕組みが南朝の貴族社会を形成した。 いくつかの大貴族とそれに加わりたい寒門が人事を巡って競争するというのが、政治は民のためという建前はあれど貴族にとっての本質であった。

貴族社会を成立せしめたものは人事制度に他ならないが、その人事制度は永続的に運用される安定した政治基盤があってはじめて貴族を生み出す。 ゆえに、貴族は貴族同士で抗争し時に皇帝権とも争うことはあっても、その人事制度を運用可能とする安定した政治そのものは破壊しようとしない。 ここに南朝繁栄の原動力がある。 現代の民主主義から見れば限られた特定の人々に権力を独占させることは良からぬことと思われるかもしれ無いが、かならずしもそうではない。 貴族が権力を独占したからこそ、急激な権力の転換は起こり得ず、権力を良く言えば安定、悪く言えば固定させた。 それは一定の統治能力の担保と統治の長期化をもたらし、その政治は世の中を安定させた。

しかし、この権力の固定化は社会の流動性を欠き硬直化もさせる。 何か大きな変化が起きたときに、権力はそれに対応できなくなる。 ゆえに、南朝では数度の王朝交代が起きた。 それは、内発的な自浄作用のようなもので、そのために貴族の顔触れは変わっても、貴族社会そのものを変革しなかった。 ところが、侯景の乱は違った。 正確には侯景の乱とその後の北朝の干渉が、人事制度を永続的に運用するための安定した政治という貴族を生み出す母体を破壊した。 侯景の乱によって荒廃した建康から江陵へ首都機能を移し、その江陵が西魏によって占拠されたとき、大量の官民が西魏に連行された。 ここに至って、貴族たちが安心して人事ゲームを行う舞台は失われた。 残されたのは、この危急存亡を如何に乗り越えるかという実力主義的な価値観であった。

結果的には南朝に梁末の危機を乗り越える実力はまだ残されていた。 それが陳という王朝の特徴であろう。 特に嶺南の発展が陳に南朝としての幾ばくかの余命をもたらした。 それは南朝としての地力であり貴族社会の賜物とも言える。

南朝文化

初唐の三大家である欧陽詢、虞世南、褚遂良は、みな南朝を出自とする。 これは東晋以降、宋、斉、梁、陳と王朝を引き継いできた南朝の文化が、興亡多くして異民族文化と対立してきた北朝に比べて、いかに先進し安定していたかを如実に表す。 南朝最後の陳では、その文化は集大成といえよう。

陳の後期は既に隋との国力差は開く一方で、陳の政治には一種の厭世観が蔓延していたかもしれない。 後世、唐の李世民は「創業と守成いずれが難きや」と問うた。 創業には日の目を見ない数多の創業の萌芽があったという難しさがあり、守成には始まりある物事には必ず終わりがあるという難しさがある。 陳は北朝が隋によって統一される過程を横目で眺めることしかできなかった王朝である。 創業の時から斜陽が運命づけられている王朝の守成ほど難しいものはないだろう。 その末年、皇帝の陳叔宝や、尚書令として宰相の地位にあった江総らが文学に傾倒するのも、もはや本懐といえるものかもしれない。 陳の滅亡により形ある南朝文化の多くは破壊されたというが、その成熟した——歴史的に見れば儚さを禁じ得ない——思想や概念は文化人としての横顔を持つ貴族たちを介して隋、唐へと継承された。

主な出来事

557
陳霸先が蕭方智が禅譲を受ける(陳の成立)
559
陳霸先が崩ずる

陳霸先の実子は早世するか西魏に拉致されていたため、甥(兄の子)である陳蒨が即位した。 陳の特徴として先述した通り、陳はその成立に大きな隙があり、陳霸先と陳蒨は創業期から反乱に応対せざるを得なかった。 その大きなものは王琳が擁立した蕭荘による梁の残党政権と連携したが、彼らはいずれも独立心が強く結びつきも弱いために、564年までに収拾をつけて小康を得た。

566
陳蒨が崩ずる
568
陳伯宗が廃位される

陳蒨が没したとき陳伯宗は若年であったため、遺言により陳頊、劉師知、到仲挙が後見した。 ここに政変が起きた。 劉師知、到仲挙、王暹、殷不佞らは専権の強い陳頊を朝廷から遠ざけようとして逆に露見し、劉師知は賜死、到仲挙は蟄居、王暹、殷不佞は免官となった。到仲挙はその後、子の到郁が韓子高と反乱を企てたため揃って賜死された。 朝廷を掌握した陳頊は陳伯宗を廃位、殺害しているので、劉師知らはこのような陳頊の思惑を察知して除こうとしたと思われる。 陳蒨が陳伯宗を廃位した理由は、表向きには若年の皇帝では外圧に耐えられないというものであろうが、補佐という立場に甘んじ権力を掌握し損ねると逆に自分の身が危ないという保身も強かったであろう。 陳伯宗は十三歳で即位し、十五歳で廃位され、十七歳で殺害されている。 皇帝や宗室の事情とはかくも厳しいものである。

582
陳頊が崩ずる

陳頊による十四年間の治世は、陳および南朝の最後の小康となった。 この間、577年に北斉が滅亡し、581年に北周から隋への革命という、目まぐるしい情勢変化が北朝では起きている。

589
陳叔宝が隋に降伏する(陳の滅亡)

隋は『隋書』によれば五十一万八千という大軍を陳の制圧に差し向けた。 隋はこれまでに陳に対して慎重な手続きで徹底した弱体化を図っており、この大軍はもはや駄目押しといえる最後通牒であった。

亡国の君主がおしなべて暗愚とは言えない。 陳叔宝は果たして暗君なのであろうか。 陳叔宝は決して邪知暴虐の君主ではない。 むしろ一人の人間としては聡明であった。 後世に名を残す詩才は彼の知性を率直に表している。 袁憲のような賢臣を評価して側に置いたことは、彼の人を見る目が盲目ではないことを表す。 泣いて別れを告げた蕭摩訶や、陳叔宝のために奔走した任忠を見れば、決して彼に人望がなかったとは言えない。 隋軍が宮中に迫ったとき、袁憲は梁の武帝のごとく引見するよう諫めたが、陳叔宝は井戸の中に隠れた。 疾風に勁草を知るという。 彼の生き様や人生観は正にこの出来事に集約している。 彼は皇帝という王朝の部品として優れてはいなかった。 むしろ、それは彼自身が王朝の優れた歯車になることを拒み、個人の人生に真摯であり続けた結果かもしれない。 そのような姿勢は、猜疑、権力闘争、誣告を自然と遠ざけ、彼は寿命を全うすることが出来た。 皇帝という極限の難しい人生を始めて、皇帝を降りて人生を全うしたのだと見れば、彼は人生の達人である。 陳叔宝の無抵抗は、徒に民を疲弊させずに華南を焦土としなかった功績とも言い換えられる。 仮に陳が隋による滅亡を避け得ないと仮定して、これ以上どのような幕引きをしたら暗君の評価を免れ得るだろうか。

陳帝室系図

  • 陳文賛

    【追】景帝

    7

    • 陳道談

      【追】始興昭烈王

      -

      • 陳蒨

        文帝

        2

        • 陳伯宗

          廃帝

          3

      • 陳頊

        宣帝

        4

        • 陳叔宝

          後主

          5

    • 陳霸先

      武帝

      1

諡号 姓名 生年 即位 退位 没年 即位年齢 没年齢 在位期間
1 武帝 陳霸先 503 557 559 559 54 56 2
2 文帝 陳蒨 522 559 566 566 37 44 7
3 (廃帝)臨海王 陳伯宗 554 566 568 570 12 16 2
4 宣帝 陳頊 530 568 582 582 38 52 14
5 (後主) 陳叔宝 553 582 589 604 29 51 7

歴代君主

陳霸先

503年-559年。字は興国。陳の初代皇帝。武帝。陳文賛の子。潁川陳氏の陳寔の末裔。蕭繹に従って王僧弁と共に侯景を討った。蕭淵明の即位を巡って王僧弁と対立し、王僧弁を討って蕭方智を復位させた。まもなく蕭方智に禅譲を迫って皇帝に即位し陳を建てた。在位2年。

陳蒨

522年-566年。字は子華。陳の第2代皇帝。文帝。陳霸先の兄陳道談の第1子。王僧弁の残党を糾合した王琳が蕭荘を擁立して梁の正統を立てると、周迪、留異、陳宝応ら各地の反乱と共にこれを滅ぼした。北周と修好を結び北斉の介入を退けた。内政を安定させ陳の基盤を固めた。在位7年。

陳伯宗

554年-570年。字は奉業。陳の第3代皇帝。廃帝、臨海王。陳蒨の第1子。父陳蒨の死後即位した。若年での即位のため、遺言により叔父陳頊の後見を受けた。実情は陳頊の傀儡であり、陳頊によって廃位され臨海王に落された。まもなく殺害された。在位2年。

陳頊

530年-582年。字は紹世。陳の第4代皇帝。宣帝。陳霸先の兄陳道談の第2子。陳蒨の死去にあたって劉師知や到仲挙らとともに陳伯宗の補佐を託されるが、劉師知や到仲挙を排除して陳伯宗を廃位し、皇帝に即位した。内政に力を注いだが、北斉を滅ぼした北周に圧迫された。在位13年。

陳叔宝

553年-604年。字は元秀。陳の第5代皇帝。後主。陳頊の第1子。父陳頊の死後即位した。施文慶、沈客卿、江総ら奸臣を重用し、自らは飲酒や詩作に耽って政治を顧みなかったため、国政は乱れて国力は衰退した。隋の攻撃に降伏し、警戒されることなく余生を全うした。在位7年。

主な宗族

主な人物

到仲挙

517年-567年。字は徳言。到洽の子。陳蒨の下で昇進を重ねた。統治は公平であったが、学問に暗く必ずしも実務に長けてはいなかった。陳蒨の死後、陳伯宗が即位すると、その輔弼を任された陳頊を排除しようとして失敗し、陳頊に逮捕されたのち処刑された。

劉師知

?-567年。劉景彦の子。梁の諸王府の参軍を歴任した。学問を好んで博学であり、陳建国時の儀礼、制度を定めた。陳蒨が重篤になると到仲挙らと共に病床に近侍して決裁を代行した。陳伯宗が即位すると、陳頊の排斥を行ったが、かえって陳頊に捕縛され処刑された。

章昭達

518年-571年。字は伯通。侯景の乱では建康を守るが落城と共に脱出した。陳蒨と親交を結び、王琳、周迪、陳宝応、留異らの反乱を平定して、陳初の安定に寄与した。その後も、華皎や欧陽紇の反乱を鎮めつつ、後梁や北周と戦った。病没。

呉明徹

512年-578年。字は通昭。呉樹の子。梁に仕えて各武官職、刺史を歴任した。侯景の乱では陳霸先の信用を得て、陳の建国後さらに累進した。北伐を行い淮南を回復するが、三度に渡る呂梁の戦いの結果、北周に敗れて捕縛され、長安へ連行された。長安にて病没。

沈恪

509年-582年。字は子恭。梁末に蕭暎に仕える。侯景の乱では建康に入城して防戦するが、陥落すると脱出して陳霸先と呼応して挙兵した。陳の将軍職、刺史職を歴任して、侍中まで上った。病没。子の沈法興は隋末の群雄の一人。

江総

519年-594年。字は総持。江紑の子。西晋から続く名門貴族の出身。尚書令の重職にありながら詩文を作るのみで、狎客と批判を受けた。陳叔宝の政治的暗愚を助長し、奸臣とも評される。優れた詩文は高く評価されるが、亡国の臣という経歴を伴って軽薄だとも評価される。

欧陽詢

557年-641年。字は信本。長沙郡臨湘県の人。欧陽紇の子。父・欧陽紇が嶺南で反乱を起こして討伐されると、江総に匿われて養育された。陳の滅亡後は、隋、唐に仕え、王羲之以来の書法を研究した。初唐の三大家、楷書の四大家に数えられる。

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