梁
publish: 2020-06-13, update: 2021-11-11,
概要
名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
---|---|---|---|
梁 | 502 | 558 | 56 |
梁は、蕭衍が蕭宝融から禅譲を受けて建てた王朝です。 その統治期間は、502年から557年の55年間で、そのうち47年は初代皇帝・武帝・蕭衍による治世です。 この間、北魏においては六鎮の乱を契機に大いに乱れ、東魏と西魏に分裂しています。 その混乱の余波は、侯景の乱として梁を大混乱に陥れ、中華全体の勢力図を書き換えるに至りました。 これにより、西魏から北周、北周から隋という、隋による天下統一の契機が生まれました。
特徴
蕭斉(南斉)との系譜の関係
梁の創始者である蕭衍は、斉の創始者である蕭道成と縁戚関係にあります。 蕭道成が479年に斉を建国したとき、蕭衍は15歳でした。 蕭衍は、斉代第一の文化人であった蕭子良の邸宅に出入りし、竟陵八友の一人に数えられます。 祖である蕭整は西晋の淮陰県令で、江南へ亡命した北来貴族です。 蘭陵蕭氏と称されます。 蘭陵蕭氏は、宋の初代皇帝・劉裕の継母である蕭文寿を輩出していますが、蕭整の系譜との関係は不明です。
- 蕭整
- 蕭雋
- 蕭楽子
- 蕭承之
- 蕭道成(斉)
- 蕭鎋
- 蕭副子
- 蕭道賜
- 蕭順之
- 蕭衍(梁)
安定と弛緩
梁の最大の特徴は、55年間の統治期間のうち、47年が蕭衍の治世だということです。 蕭衍は、斉の蕭宝巻を滅ぼして、自らの実力によって禅譲を受けたからにして、優れた人物でした。 学問を奨励して政治改革によって内政を拡充し、南朝を通して最盛期を作ったとされています。
一方で北魏は、524年の六鎮の乱から、534年の東西分裂によって、著しく弱体化しています。 王僧弁を始め、梁の有力者に北魏からの亡命者が多いのは、この北魏の混乱のあおりによるものです。 外圧が消えて緊張感を失った梁の国政は、蕭衍の長い統治という安定の中で、弛緩を示すようになります。 蕭衍自身も弛緩の中にあって気付かない状態にあり、梁の後期は、表向きは安定の中にありつつも、宗族、官吏、軍事などの全ての局面において大きく弱体化している状態でした。
このため、侯景の乱はたかだか北魏の亡命武官による反乱に過ぎないにもかかわらず、国防が機能しなかった梁を死に体に至らしめ、北朝を含めた中華全土の勢力図を書き換えることになります。
主な出来事
侯景の乱
524年、六鎮の乱(北鎮の乱)を契機に北魏が東西に分裂すると、東魏を高歓が主宰し、西魏を宇文泰が主宰しました。 東魏の高歓のもとで軍権を大きく握ったのが侯景です。 547年、高歓が死去すると、侯景は河南の諸州を束ねて東魏から離反し、梁への同調を示しました。 高歓は生前より侯景の勢力を警戒しており、病が篤くなったとき子の高澄に遺言するにあたり、侯景はお前が任用することはできないだろうと言ったほどでした。 この遺言は人を経て侯景に伝わり、警戒心の強い侯景は災禍が及ぶのを恐れて梁へ離反したとされます。
当初、侯景は東魏に代わる勢力を目指し、西魏や梁へ外交を行い救援を取り付けますが、東魏への攻撃の成果は芳しくなく、結果的に侯景は梁へ臣従します。 梁の武帝・蕭衍は、侯景を受け入れるものの、勢力が依然として強かった東魏との関係悪化を憂慮して、一転、東魏とは講和することになります。 この講和は、侯景にとって東魏と梁の双方に拠り所を失うものでした。 侯景は梁に対して乱を企てます。 侯景の乱とは、侯景の東魏に対する離反ではなく、臣従した梁に対する反乱を直接的には指します。
548年、侯景は兵を発して寿春を出て建康へと迫ります。 侯景は寡兵を用いて電光石火に進んだため、梁の軍は反応が遅れ、建康は包囲されました。 しかし、侯景も建康を一挙に陥落させるほどの力は持たず、一方、梁の援軍も各地から続々と建康に到着するものの統率に欠け、両者の戦いは泥沼化します。 549年、包囲が長期化するほど分が悪くなる侯景は和議を模索して、蕭衍もやむなく和議に同意します。 ところが、和議後の保身に不安を覚える侯景は、和議を受け入れつつも軍を解こうとはせず、再び侯景は宣戦布告して、ついに建康を陥落せしめます。
侯景によって蕭衍は幽閉され、間もなく蕭衍は憂憤の末に病没します。 蕭衍の治世は実に57年におよび、その年齢は86歳という高齢でした。 これにより、侯景は蕭衍の第3子、蕭綱を擁立しますが、侯景の傀儡政権は梁国内の各勢力が到底認められるものではありませんでした。
侯景に蹂躙された中央政府に対抗して、梁の宗族たちは兵を挙げます。 このとき重要となる人物は、以下の4人です。
- 蕭繹:蕭衍の第7子。湘東王。江陵に駐屯
- 蕭誉:蕭統の第2子。河東王。長沙に駐屯
- 蕭詧:蕭統の第3子。岳陽王。襄陽に駐屯
- 蕭紀:蕭衍の第8子。武陵王。成都に駐屯
侯景は、自身に従わない三呉を直接平定し、蕭綱を廃位して蕭棟を立て、最終的には禅譲を受けて自ら漢の国号を立てます。 この最中、上述の宗族たちは独自の政権樹立を目指したため、互いに反目しあう状態でした。 蕭紀は自ら皇帝を称するほどでした。 しかし、蕭繹は王僧弁らを派遣して、陳霸先の勢力と合力して建康の奪還に成功します。 侯景は逃亡するも殺害されます。侯景の在位は僅か5か月となります。 552年、これにて、侯景の乱は終息しました。
西魏の介入と、巴蜀・江陵の失陥
ところが、侯景の乱が起こした混乱は収まりませんでした。 552年、侯景の死によって侯景の乱は収束しますが、この事実を知らない蕭紀は軍を挙げて東進します。 蕭繹は当然のごとくこれを阻み、さらに西魏と通じて、巴蜀の後背を襲うよう求めます。 西魏の侵攻によって成都は陥落し、行き場を失った蕭紀は蕭繹に捕らえられ処刑されます。
少し遡ること549年、対侯景を名目に兵を挙げた諸王のうち、蕭誉と蕭詧は実の兄弟であり、蕭繹と対立することになりました。 蕭繹は、この抗争において長子の蕭方等を敗死させるなど痛手を受けますが、王僧弁に蕭誉を攻撃させ、蕭誉を処刑しています。 蕭詧は兄の蕭誉を救援しましたが、形勢がいたって不利であったため、進退に窮して西魏へ降伏します。 ここにきて、当初、東魏と梁の外交問題に端を発した侯景の乱は、その終息後も、西魏を巻き込んだ国際関係に余波として広がります。
554年、西魏の後援を受けた蕭詧は、江陵の蕭繹を攻撃します。 蕭繹は蕭紀を討つためとはいえ、巴蜀を西魏に奪われたことをかねてより後悔しており、巴蜀の失地回復を望んで西魏とも敵対状態にありました。 建康にあった王僧弁らの主力は、江陵に向けて救援を出しますが、西魏の攻撃により江陵は陥落し、蕭繹は処刑されます。 555年、蕭詧は半ば西魏の中の亡命政権として、江陵にて梁の皇帝に即位します。 一方、王僧弁らは蕭繹の敗死を知って、蕭繹の子、蕭方智を擁立します。 史書では、蕭方智の梁を正統とし、蕭詧の梁を後梁と称します。
北斉(東魏)の介入
549年、侯景を体よく追い出した東魏では、高澄が蘭京に殺されるという不祥事があったものの、後を継いだ弟・高洋が翌年には元善見から禅譲を受けて北斉を立てました。 後梁を支援する西魏は、梁にとって友好国とはなり得ず、梁は北斉に対して外交的に苦しい立場にありました。 555年、北斉は抑留していた蕭淵明を軍事力を持って送り込み、このため王僧弁らは自分たちが立てた蕭方智を廃位し、蕭淵明を擁立せざるを得ませんでした。 もはや梁という王朝は、西魏と北斉がお互いをけん制するための外交の道具でしかありませんでした。
梁から陳への政変
この皇位継承に反対したのが陳霸先です。 王僧弁と陳霸先は対立し、陳霸先に攻められた王僧弁は建康にて敗死します。 これにより、蕭方智は再び梁の皇帝として復位します。 北斉は陳霸先の処置に対抗して軍を南下させますが、陳霸先はこれを撃退することに成功したため、陳霸先の地位は名実相応となります。
557年、陳霸先は蕭方智から禅譲を受けて陳を建国します。 なお、北斉は梁から陳への継承を認めず、梁の再興を図る王琳の要望に乗って蕭方等の子・蕭荘を送り込んでいます。 蕭荘は、蕭繹が敗死して蕭方智が擁立されるにあたって、北斉に対して人質として送られていたのでした。 蕭荘は郢州にて皇帝として即位しますが、後梁のような前例には至らず、再び北斉へと亡命しています。
本稿後述では蕭荘は第8代皇帝と記述していますが、梁の皇帝として数えられない場合があります。 梁は既に陳霸先によって滅ぼされているために、梁と区別して南梁とも呼ばれます。
梁帝室系図
- 蕭順之
- 蕭懿
- 蕭淵明 6
- 蕭衍 1
- 蕭統
- 蕭歓
- 蕭棟 3
- 蕭綱 2
- 蕭繹 4
- 蕭方等
- 蕭荘 8
- 蕭方智 5,7
- ※左側が年長者です。
- ※数字は皇位の継承順を意味します。
- ※皇位継承に関係のない筋は省略しています。
代 | 諡号 | 姓名 | 生年 | 即位 | 退位 | 没年 | 即位年齢 | 没年齢 | 在位期間 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 武帝 | 蕭衍 | 464 | 502 | 549 | 549 | 38 | 85 | 47 |
2 | 簡文帝 | 蕭綱 | 503 | 549 | 551 | 551 | 46 | 48 | 2 |
3 | (廃帝)豫章王 | 蕭棟 | ? | 551 | 551 | 552 | ? | ? | 0 |
4 | 元帝 | 蕭繹 | 508 | 552 | 555 | 555 | 44 | 47 | 3 |
5,7 | 敬帝 | 蕭方智 | 543 | 555 | 557 | 558 | 12 | 15 | 2 |
6 | 閔帝 | 蕭淵明 | ? | 555 | 555 | 556 | ? | ? | 0 |
8 | 永嘉王 | 蕭荘 | 548 | 558 | 560 | 578 | 10 | 30 | 2 |
平均 | 30.0 | 45.0 | 8.0 |
蕭棟と、蕭淵明は生年が不明です。 蕭棟の祖父・蕭統の在世は501年~531年で、父・蕭歓の生年は不明ながら没年は540年です。 父・蕭歓の没年から逆算すれば、蕭棟の生年は最大でも540年です。 また、蕭統と蕭歓がそれぞれ15歳で子をなしたと計算すれば、蕭棟の生年は531年です。 従って、即位時の年齢は、11歳~20歳であったと推測できます。 蕭淵明の生年も同じように逆算すると、蕭懿の子であることから、蕭懿の没年である500年より前であることが分かります。 したがって、即位時の年齢は少なくとも55歳以上となります。
歴代君主
蕭衍
464年-549年。字は叔達。梁の初代皇帝。武帝。蕭順之の子。父蕭順之は蕭道成の三従弟にあたる。蕭宝巻の暴政により兄蕭懿が粛清されると、蕭宝融を擁立して挙兵し蕭宝融から禅譲を受けた。在位47年の大半は安定したが、晩年は侯景の乱により大混乱に陥り侯景に幽閉され病没した。
蕭綱
503年-551年。字は叔達。梁の第2代皇帝。簡文帝。蕭衍の第3子。兄蕭統の死後立太子された。蕭衍の死後、侯景の監視下のもと皇帝に即位した。侯景の傀儡であったが、侯景政権を認めない諸王の反抗に遭った侯景の保身により廃位され殺害された。在位2年。
蕭棟
?-552年。字は元吉。梁の第3代皇帝。豫章王。蕭歓の子。蕭衍の曾孫、蕭統の孫。侯景の乱の中、蕭綱を廃した侯景に擁立されて皇帝に即位するが、3か月後には侯景に禅譲を迫られた。侯景を滅ぼした蕭繹に救出されるが、蕭繹の意で殺害された。
蕭繹
508年-555年。字は世誠。梁の第4代皇帝。元帝。蕭衍の第7子。侯景の乱による新政権を認めず、同時期に反乱を起こした諸王の一人となった。侯景の乱を終息させ江陵にて皇帝に即位した。蜀に割拠した蕭紀を西魏に攻撃させたため蜀を失陥した。西魏の後援を受けた蕭詧に殺害された。
蕭方智
543年-558年。字は慧相。梁の第5、第7代皇帝。敬帝。蕭繹の第9子。西魏の侵攻を受けて江陵が陥落し父蕭繹が敗死すると、王僧弁、陳霸先らに擁立されて皇帝に即位した。北斉が後援した蕭淵明に帝位を譲るが、陳霸先に復位させられ、陳霸先に禅譲したのち殺害された。
蕭淵明
?-556年。字は靖通。梁の第6代皇帝。閔帝。蕭懿の第5子。侯景が梁に降伏した際、東魏と戦って捕虜となり長らく抑留された。東魏に代わった北斉により皇帝として梁に送り込まれた。王僧弁に支持されて即位するが、陳霸先の攻撃に王僧弁が敗死したため、廃されて間もなく病没した。
蕭荘
548年-578年。梁の第8代皇帝。永嘉王。蕭繹の子蕭方等の子。人質として北斉に送られたが、前代の蕭方智が陳霸先に禅譲したとき、北斉の支援を受けて帰還、梁の再興を図る王琳により皇帝に擁立された。陳、北周と交戦するが王琳の敗死により北斉へ亡命した。北斉の滅亡後に病死。
主な宗族
蕭子顕
487年-537年。字は景陽。蕭道成の孫。豫章王・蕭嶷の子。斉の寧都県侯。斉末の混乱で危うい立場だったが、蕭衍に保護されて以後、重職を歴任した。学問を修め沈約に称えられた。一方で、傲慢との評が残り、諡には蕭衍から「驕」を贈られた。二十四史の『南斉書』の著者。
蕭正徳
?-549年。字は公和。臨賀王。蕭宏の第3子。蕭衍の甥にあたり一時は蕭衍の養子とされたが、後に蕭統が生まれると後継から外された。侯景と通じて建康を陥落させた。侯景に擁立されて皇帝を称するが、すぐに侯景に廃された。鄱陽王・蕭範に内通するが露見して侯景に殺害された。
主な人物
蘭欽
生没年不詳。字は休明。蘭子雲の子。蘭京の父。北魏戦線や内地の異民族統治で累進し、諸軍事、刺史を歴任した。後に漢中平定の功を成して、曲江県公まで昇った。広州刺史となるが、刺史を代行していた蕭恬に毒殺された。頌徳碑が立てられるほどの善政でも知られる。
范雲
451年-503年。字は彦龍。范抗の子。竟陵八友の一人。はじめ宋の郢州の属官を務めた。斉が興ると蕭子良に仕えて累進し、蕭子良の信任を得て蕭衍と交友を結んだ。蕭衍が挙兵して梁を起こすと、沈約と共に梁朝初期を補佐した。病没。
任昉
460年-508年。字は彦昇。楽安郡博昌県の人。任遙の子。丹陽尹の主簿となって後に蕭子良の属官に転じた。蕭鸞の不興を買って一時、不遇となるが、蕭衍が政権を握ると禅譲の詔勅などを書き上げた。文筆に優れて「任筆沈詩」と詩にすぐれた沈約と比較して評価された。交際が豊富で財産に執着しなかったという。
沈約
441年-513年。字は休文。沈璞の子。竟陵八友の一人。幼少期に父・沈璞を劉俊に殺害された経緯がある。宋、斉、梁の3朝に仕官した。蕭子良に招かれて文学サロンを興隆せしめた。梁の尚書令となるが、晩年は蕭衍の不興を買って、不遇の中病没した。宋書、晋書、斉紀を編纂した。
韋叡
442年-520年。字は懐文。韋祖帰の子。前漢の丞相・韋賢の末裔。関中の名族。東晋の劉裕が後秦を滅ぼしたとき先祖が江南へ移民した。軍事行政共に疎漏がなく、人格は謹厳で常に周囲から敬慕された。宋、斉、梁の3王朝に仕えて、侍中、車騎将軍まで昇る。病没。
陸倕
470年-526年。字は佐公。呉郡呉県の人。陸慧曉の子。若くして文章を得意とし、蕭子良の西低に加わった。同じく文章を得意とした任昉と懇意であり共に研鑽した。諸王の属官を転々と務めて後に揚州大中正などを務めた。人付き合いを避けて読書に没頭し暗記力に優れた。
蕭琛
480年-531年。字は彦瑜。南蘭陵郡蘭陵県の人。蕭恵訓の子。若くして才能を発露させ一族の蕭恵開は我が一族を興すだろうと評した。太学博士から昇進を重ねて度重なる政変でも官職を維持し、蕭衍からは宗老と敬慕された。侍中・特進・金紫光禄大夫まで昇る。
陳慶之
484年-539年。字は子雲。斉代から蕭衍に仕え、梁が建つと武功を重ねて昇進した。北魏の北海王・元顥を擁して北伐し洛陽を占領した。爾朱栄の反攻により洛陽を追われるが、その後も北魏戦線を支えた。武芸には疎かったが指揮官として非凡で、身に纏った白袍を畏怖された。病没。
李賁
503年-548年。万春の初代皇帝。俚族の出身。梁後期の過酷な政治によって交州が乱れると、挙兵して交州、徳州(ベトナム北部)を支配し万春を建国した。陳霸先らの強い圧迫をうけて度重なる敗北を喫した。逃亡先の屈獠洞の蛮族によって殺害された。在位4年。
朱异
483年-549年。字は彦和。寒門の出身で、蕭衍の貴族制度改革によって台頭した恩倖の代表格。侯景の降伏受入を薦め、一方では東魏との和平を薦めたため、侯景の乱のきっかけを作った。有能ではあったが私心が多く、梁の国政を傾けるに至った。平家物語には奸臣として載る。
羊侃
495年-549年。字は祖忻。羊祉の子。もとは北魏の武官であったが、梁に亡命した。侯景の降伏に反対するも受け入れられなかった。侯景の乱では建康防衛の指揮を執り、数カ月にわたって籠城した。建康防衛の最中に病没し、間もなく建康の台城は陥落した。
王僧弁
?-555年。字は君才。王神念の子。父の代に北魏から梁へ亡命した。蕭繹に仕えて竟陵郡太守となった。侯景の乱では、蕭誉を討伐し、次いで陳霸先と協力して建康の奪還に成功した。蕭繹が江陵で敗死すると、帝位の正統を廻って陳霸先と対立し、陳霸先に殺害された。
王琳
526年-573年。字は子珩。会稽郡山陰県の人。王顕嗣の子。姉妹が湘東王・蕭繹の妃となったため早くから蕭繹に信任された。王僧弁と共に侯景の乱を収めたが、江陵が西魏に陥落すると、陳霸先政権や後梁政権を認めず、蕭荘を擁立して北斉を後ろ盾とした。呉明徹の北伐に抗ったが、北斉の救援を得られず捕縛され、護送中に殺害された。
庾信
513年-581年。字は子山。庾肩吾の子。徐摛、徐陵親子と共に詩文に長けて、その詩は徐庾体と称された。侯景の乱が起こると江陵へ逃げるが、西魏の攻撃で江陵が陥落すると、多くの官民と共に長安へ拉致された。長安に抑留されつつも文人として活躍し、江南を哀惜する名作を残した。
顔之推
531年-591年。字は介。顔協の子。学識と文才に長じて蕭繹に仕えた。侯景の乱とその後の混乱により、梁、西魏、北斉、北周、隋と5つの王朝を生き延びた。子孫に対する家訓として『顔氏家訓』を著した。顔真卿は来孫にあたる。