梁
(section)publish: 2020-06-13, update: 2026-08-22
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 梁 | 502 | 557 | 55 |
梁は蕭衍が蕭宝融から禅譲を受けて建てた王朝。 その統治期間のうち四十七年は初代皇帝・蕭衍(武帝)によって統治された。 この間、北魏は六鎮の乱を契機に東西に分裂し、侯景の乱を梁にもたらして中華全体の勢力図を書き換えるに至った。
特徴
同族異朝
蕭衍は斉の宗族だが斉を引き継ぐのではなく、国号を梁と改めた。 異姓が簒奪すれば禅譲という形式をとるが、同姓が簒奪しても禅譲という形式を取らないことは多い。 前者は例を挙げるまでもないが、念のため、例外として、北涼の段氏から沮渠氏、北燕の高氏から馮氏という、国号を変えずに異姓が引き継ぐ例があることは付記しておく。 一方で、後者は、宋の劉彧や斉の蕭鸞が同姓で簒奪しつつも国号を改めずに継承するという、比較的近い歴史に例を見ることが出来る。 蕭衍の禅譲はこの例外として中華史の中で珍しい。 斉と梁は皇帝を見たとき地続きであるが、易姓革命の観点から見れば、斉は徳を失って天命が改まったという蕭衍による明確な意思表示が汲み取れる。
安定と弛緩
梁の五十五年間のうち、四十七年が蕭衍の治世であることは、梁の最大の特徴であろう。 侯景の乱によって実質的な梁が滅んだと見るならば、梁の皇帝は蕭衍一代のみとなる。 長い治世が世の安定をもたらすことは歴史の方々で示されているが、長い治世の終わりが極めて不安定をもたらすこともまた示されるとは、とかく歴史とは皮肉なものである。
蕭衍は三十八歳で斉の蕭宝巻を滅ぼして禅譲を受け、その後、八十五歳まで政治の頂点に君臨した。 蕭衍自身もこれほど長寿を得るとは思いもしなかったであろう。 施政者とは長生きしてなんぼである。 長い治世だけあって、政治、文化、教育、宗教、経済、軍事、あらゆる領域に影響を残した。 一方で、それらの評価は蕭衍一人の実力でもない。 蕭衍の治世が安定した背景には、北魏の衰退もあった。 宋末以来、北魏の南への圧力は強かったが、493年の洛陽遷都を始め漢化政策を強めた結果、北魏の国内情勢は不安定となった。 その不安定は524年の六鎮の乱を頂点とし、534年の東西分裂に至る。 王僧弁を始め、梁の有力者に北魏からの亡命者が多いのは、このあおりをよく示している。 北魏の混乱は全て蕭衍の治世の中に納まっている。
長い安定は意識的な弛緩をもたらした側面はあるだろう。 そのような弛緩は、蕭衍には長い在世ゆえの増長をもたらし、宗族や官吏には危機意識の欠如と派閥的な分断をもたらした。 現代的な表現かもれしれないが、平和ボケという言葉が、当時の風潮を表現するには最もしっくり来る。 平和ボケに相似した世の中に、突如として侯景の乱がおきたのであれば、それは文字通り青天の霹靂というのに相応しい。
主な出来事
成立
- 502
- 蕭衍が蕭宝融から禅譲を受ける(梁の成立)
侯景の乱
- 548
- 侯景の乱
北魏が東西に分裂したとき、東魏の高歓の下で侯景は大きな軍権を持っていた。 547年に高歓が死去すると、自身の政治的立場を危ぶんだ侯景は河南の諸州を束ねて東魏から離反し、梁への同調を示した。 蕭衍は侯景を受け入れる一方で、勢力が依然として強い東魏との関係悪化を憂慮して、東魏との講和も模索した。 この趨勢のために、侯景は自身を講和の交換条件されるのではないかと恐れ、侯景は寿春から挙兵した。 侯景の乱とは、一般には侯景の東魏に対する離反ではなく、臣従した梁に対する反乱を指す。
- 549
- 蕭衍(武帝)が崩ずる
この反乱は半年におよぶ建康をめぐる泥沼の死闘を経て、侯景が勝利した。 侯景は蕭衍を幽閉し死ぬのを待ってから皇太子・蕭綱(簡文帝)を即位させた。 斉の混乱を鎮めて梁を興し、四十七年の治世を成した英雄の末路と表現すれば、蕭衍の転落は中華史でも屈指の落差を持つ。 だが、この転落は蕭衍個人の人生に止まらない。 侯景なる男は南朝を、あるいは中華全体を揺るがす震源であった。
- 552
- 侯景が敗死する
侯景が半年に渡って建康で攻防戦を展開できたこと自体が、梁にとっては不運であり、侯景にとっての幸運であった。 梁が地方から統率して中央を救援することが出来なかったことは、梁の杜撰な安全保障の隙を侯景が深く抉り抜いた結果と言える。 しかし、その暴挙を地方が黙認できるはずもない。 侯景が擁立した蕭綱は紛れもない正統であったが、首都圏たる三呉すらも従わない状況に、侯景の陣営は首都のみを経営する地方政権の様相を呈した。 侯景は自身に従わない三呉を直接平定し、蕭綱を廃位して蕭棟を立て、最終的には禅譲を受けて自ら漢の国号を立てた。
この頃になると、梁の地方軍閥は明確に割拠し、梁の動揺を目の当たりにした西魏や北周も俄かに動き出した。 なお、西魏と東魏は、この頃、同時期に北周と北斉へ政変していくのだが、ここでは詳しくは触れない。 両面作戦を恐れて侯景は防戦傾向となり、蕭繹が派遣した王僧弁に敗れて建康を放棄、侯景は逃走中に横死した。 侯景の在位は僅か五か月で、一般にこれは僭称と解釈されるが、結果的には梁王朝の実質的な滅亡とも受け取れる。
末期
侯景によって梁の朝廷が掌握されたとき、地方では以下の宗族たちが割拠した。
| 名 | 爵位 | 拠点 | 付記 |
|---|---|---|---|
| 蕭繹 | 湘東王 | 江陵 | 蕭衍の七男 |
| 蕭紀 | 武陵王 | 成都 | 蕭衍の八男 |
| 蕭誉 | 河東王 | 長沙 | 蕭統の二男 |
| 蕭詧 | 岳陽王 | 襄陽 | 蕭統の三男 |
侯景は蕭繹が派遣した王僧弁によって滅亡するが、そもそも彼らが一致団結して建康を救援していれば侯景の乱は成立しなかった。 つまり、彼らは、各々がそれぞれの思惑をもって独立して行動していた。 むしろ、侯景の乱はそっちのけで、お互い積極的に争ったとすら言える。 この間、北魏分裂時に占拠した漢中は早々に西魏に奪い返されている。
このうち、蕭誉、蕭詧の兄弟は蕭繹と争った。 この争いによって、蕭繹の長男・蕭方等や蕭誉が敗死して、結果は蕭繹の勝利だったが、この勝敗の行方以上に重要なこととして、敗れた蕭詧が後に西魏の後ろ盾を得て、後梁を興したことは特筆される。
- 552
- 蕭繹、蕭紀がそれぞれ皇帝に即位する
- 553
- 四川地方を失陥する
蕭紀は兄の蕭繹が先んじて侯景を討伐したことを知らずに成都から東征すると、これを江陵で蕭繹に阻まれた。 蕭繹は西魏と通じて成都を後背から襲わせたため、行き場を失った蕭紀は成すすべなく蕭繹に処刑された。 これにより、東晋以来の四川の地は西魏によって奪われた。
- 554
- 蕭繹(元帝)が殺害される(江陵の失陥、後梁の成立)
蕭繹は侯景の討伐後、皇帝に即位しても江陵に留まり続けた。 蕭繹は安易に西魏と通じて蜀を失ったことを後悔し、北斉と交渉して西魏を攻めようとした。 しかし、これに反発した西魏は蕭詧を梁の正統として擁立し、江陵に侵攻した。 王琳、王僧弁ら主力の呼び戻しは間に合わず、江陵は陥落し蕭繹は蕭詧によって処刑された。
翌年、蕭詧は西魏の中の亡命政権として江陵にて梁の皇帝に即位した。 一方、王僧弁らは蕭繹の敗死を知ると、蕭繹の子・蕭方智を擁立した。 ここに、梁は建康政権と江陵政権に分裂したと言える。 史書では、建康政権を梁の正統とし、江陵政権を後梁としている。
- 555
- 王僧弁が敗亡する
蕭淵明は侯景の乱において捕虜になり、東魏で抑留されていた。 その後、東魏から北斉に代わると、北周と対抗する北斉は梁に対する影響力を高めるべく、蕭淵明に軍を与えて梁に送還し、皇帝とするよう建康政権に迫った。 江陵政権との対立を最大の課題と捉える王僧弁は、淮南の割譲と蕭方智の立太子を条件に北斉の要求を飲んで蕭淵明を即位させたが、北斉の内政干渉をあくまでも拒絶する陳霸先は、王僧弁を敗死させて蕭方智を復位させた。
- 557
- 蕭方智が陳霸先へ禅譲する(梁の滅亡)
このような混乱のため、蕭淵明は第六代皇帝として解されるが、『梁書』において本紀は立てられていない。 要求を無視された北斉は軍を催したが、陳霸先はこれを撃退して、禅譲への布石とした。 なお、北斉は以降も内政干渉を行い、陳霸先と対立した王琳に蕭荘を擁立させた。 これを梁の最後の皇帝と解釈する場合もあるが、この時すでに陳霸先が禅譲を受けて陳を興していることや、後梁のように持続せずに蕭荘が北斉に亡命していることから、彼もまた『梁書』において本紀はない。
梁帝室系図
-
蕭整
-
-
蕭雋
-
-
蕭楽子
-
-
蕭承之
【追】宣帝
-
-
蕭道生
【追】景帝
-
-
蕭鸞
明帝
5
-
蕭宝巻
東昏侯
6
-
蕭宝融
和帝
7
-
-
-
蕭道成
高帝
1
-
蕭賾
武帝
2
-
蕭長懋
文恵太子
-
-
蕭昭業
鬱林王
3
-
蕭昭文
海陵王
4
-
-
-
-
-
-
-
蕭鎋
-
-
蕭副子
-
-
蕭道賜
-
-
蕭順之
【追】文帝
-
-
蕭懿
【追】長沙宣武王
-
-
蕭淵明
閔帝
6
-
-
蕭衍
武帝
1
-
蕭統
昭明太子
-
-
蕭歓
豫章安王
-
-
蕭棟
豫章王
3
-
-
蕭詧
宣帝
1
-
蕭巋
明帝
2
-
蕭琮
靖帝
3
-
-
-
-
蕭綱
簡文帝
2
-
蕭繹
元帝
4
-
蕭方等
忠壮世子
-
-
蕭荘
永嘉王
8
-
-
蕭方智
敬帝
5,7
-
-
-
-
-
-
-
| 代 | 諡号 | 姓名 | 生年 | 即位 | 退位 | 没年 | 即位年齢 | 没年齢 | 在位期間 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 武帝 | 蕭衍 | 464 | 502 | 549 | 549 | 38 | 85 | 47 |
| 2 | 簡文帝 | 蕭綱 | 503 | 549 | 551 | 551 | 46 | 48 | 2 |
| 3 | (廃帝)豫章王 | 蕭棟 | ? | 551 | 551 | 552 | ? | ? | 0 |
| 4 | 元帝 | 蕭繹 | 508 | 552 | 555 | 555 | 44 | 47 | 3 |
| 5,7 | 敬帝 | 蕭方智 | 543 | 555 | 557 | 558 | 12 | 15 | 2 |
| 6 | 閔帝 | 蕭淵明 | ? | 555 | 555 | 556 | ? | ? | 0 |
| 8 | 永嘉王 | 蕭荘 | 548 | 558 | 560 | 578 | 10 | 30 | 2 |
| 平均 | 30.0 | 45.0 | 8.0 |
歴代君主
蕭衍
464年-549年。字は叔達。梁の初代皇帝。武帝。蕭順之の子。父蕭順之は蕭道成の三従弟にあたる。蕭宝巻の暴政により兄蕭懿が粛清されると、蕭宝融を擁立して挙兵し蕭宝融から禅譲を受けた。在位47年の大半は安定したが、晩年は侯景の乱により大混乱に陥り侯景に幽閉され病没した。
蕭綱
503年-551年。字は叔達。梁の第2代皇帝。簡文帝。蕭衍の第3子。兄蕭統の死後立太子された。蕭衍の死後、侯景の監視下のもと皇帝に即位した。侯景の傀儡であったが、侯景政権を認めない諸王の反抗に遭った侯景の保身により廃位され殺害された。在位2年。
蕭棟
?-552年。字は元吉。梁の第3代皇帝。豫章王。蕭歓の子。蕭衍の曾孫、蕭統の孫。侯景の乱の中、蕭綱を廃した侯景に擁立されて皇帝に即位するが、3か月後には侯景に禅譲を迫られた。侯景を滅ぼした蕭繹に救出されるが、蕭繹の意で殺害された。
蕭繹
508年-555年。字は世誠。梁の第4代皇帝。元帝。蕭衍の第7子。侯景の乱による新政権を認めず、同時期に反乱を起こした諸王の一人となった。侯景の乱を終息させ江陵にて皇帝に即位した。蜀に割拠した蕭紀を西魏に攻撃させたため蜀を失陥した。西魏の後援を受けた蕭詧に殺害された。
蕭方智
543年-558年。字は慧相。梁の第5、第7代皇帝。敬帝。蕭繹の第9子。西魏の侵攻を受けて江陵が陥落し父蕭繹が敗死すると、王僧弁、陳霸先らに擁立されて皇帝に即位した。北斉が後援した蕭淵明に帝位を譲るが、陳霸先に復位させられ、陳霸先に禅譲したのち殺害された。
蕭淵明
?-556年。字は靖通。梁の第6代皇帝。閔帝。蕭懿の第5子。侯景が梁に降伏した際、東魏と戦って捕虜となり長らく抑留された。東魏に代わった北斉により皇帝として梁に送り込まれた。王僧弁に支持されて即位するが、陳霸先の攻撃に王僧弁が敗死したため、廃されて間もなく病没した。
蕭荘
548年-578年。梁の第8代皇帝。永嘉王。蕭繹の子蕭方等の子。人質として北斉に送られたが、前代の蕭方智が陳霸先に禅譲したとき、北斉の支援を受けて帰還、梁の再興を図る王琳により皇帝に擁立された。陳、北周と交戦するが王琳の敗死により北斉へ亡命した。北斉の滅亡後に病死。
主な宗族
蕭子顕
487年-537年。字は景陽。蕭道成の孫。豫章王・蕭嶷の子。斉の寧都県侯。斉末の混乱で危うい立場だったが、蕭衍に保護されて以後、重職を歴任した。学問を修め沈約に称えられた。一方で、傲慢との評が残り、諡には蕭衍から「驕」を贈られた。二十四史の『南斉書』の著者。
蕭正徳
?-549年。字は公和。臨賀王。蕭宏の第3子。蕭衍の甥にあたり一時は蕭衍の養子とされたが、後に蕭統が生まれると後継から外された。侯景と通じて建康を陥落させた。侯景に擁立されて皇帝を称するが、すぐに侯景に廃された。鄱陽王・蕭範に内通するが露見して侯景に殺害された。
主な人物
李賁
503年-548年。万春の初代皇帝。俚族の出身。梁後期の過酷な政治によって交州が乱れると、挙兵して交州、徳州(ベトナム北部)を支配し万春を建国した。陳霸先らの強い圧迫をうけて度重なる敗北を喫した。逃亡先の屈獠洞の蛮族によって殺害された。在位4年。
羊侃
495年-549年。字は祖忻。羊祉の子。もとは北魏の武官であったが、梁に亡命した。侯景の降伏に反対するも受け入れられなかった。侯景の乱では建康防衛の指揮を執り、数カ月にわたって籠城した。建康防衛の最中に病没し、間もなく建康の台城は陥落した。
朱异
483年-549年。字は彦和。寒門の出身で、蕭衍の貴族制度改革によって台頭した恩倖の代表格。侯景の降伏受入を薦め、一方では東魏との和平を薦めたため、侯景の乱のきっかけを作った。有能ではあったが私心が多く、梁の国政を傾けるに至った。平家物語には奸臣として載る。
王僧弁
?-555年。字は君才。王神念の子。父の代に北魏から梁へ亡命した。蕭繹に仕えて竟陵郡太守となった。侯景の乱では、蕭誉を討伐し、次いで陳霸先と協力して建康の奪還に成功した。蕭繹が江陵で敗死すると、帝位の正統を廻って陳霸先と対立し、陳霸先に殺害された。
王琳
526年-573年。字は子珩。会稽郡山陰県の人。王顕嗣の子。姉妹が湘東王・蕭繹の妃となったため早くから蕭繹に信任された。王僧弁と共に侯景の乱を収めたが、江陵が西魏に陥落すると、陳霸先政権や後梁政権を認めず、蕭荘を擁立して北斉を後ろ盾とした。呉明徹の北伐に抗ったが、北斉の救援を得られず捕縛され、護送中に殺害された。
庾信
513年-581年。字は子山。庾肩吾の子。徐摛、徐陵親子と共に詩文に長けて、その詩は徐庾体と称された。侯景の乱が起こると江陵へ逃げるが、西魏の攻撃で江陵が陥落すると、多くの官民と共に長安へ拉致された。長安に抑留されつつも文人として活躍し、江南を哀惜する名作を残した。
顔之推
531年-591年。字は介。顔協の子。学識と文才に長じて蕭繹に仕えた。侯景の乱とその後の混乱により、梁、西魏、北斉、北周、隋と5つの王朝を生き延びた。子孫に対する家訓として『顔氏家訓』を著した。顔真卿は来孫にあたる。
蘭欽
生没年不詳。字は休明。蘭子雲の子。蘭京の父。北魏戦線や内地の異民族統治で累進し、諸軍事、刺史を歴任した。後に漢中平定の功を成して、曲江県公まで昇った。広州刺史となるが、刺史を代行していた蕭恬に毒殺された。頌徳碑が立てられるほどの善政でも知られる。
范雲
451年-503年。字は彦龍。范抗の子。竟陵八友の一人。はじめ宋の郢州の属官を務めた。斉が興ると蕭子良に仕えて累進し、蕭子良の信任を得て蕭衍と交友を結んだ。蕭衍が挙兵して梁を起こすと、沈約と共に梁朝初期を補佐した。病没。
任昉
460年-508年。字は彦昇。楽安郡博昌県の人。任遙の子。丹陽尹の主簿となって後に蕭子良の属官に転じた。蕭鸞の不興を買って一時、不遇となるが、蕭衍が政権を握ると禅譲の詔勅などを書き上げた。文筆に優れて「任筆沈詩」と詩にすぐれた沈約と比較して評価された。交際が豊富で財産に執着しなかったという。
沈約
441年-513年。字は休文。沈璞の子。竟陵八友の一人。幼少期に父・沈璞を劉俊に殺害された経緯がある。宋、斉、梁の3朝に仕官した。蕭子良に招かれて文学サロンを興隆せしめた。梁の尚書令となるが、晩年は蕭衍の不興を買って、不遇の中病没した。宋書、晋書、斉紀を編纂した。
韋叡
442年-520年。字は懐文。韋祖帰の子。前漢の丞相・韋賢の末裔。関中の名族。東晋の劉裕が後秦を滅ぼしたとき先祖が江南へ移民した。軍事行政共に疎漏がなく、人格は謹厳で常に周囲から敬慕された。宋、斉、梁の3王朝に仕えて、侍中、車騎将軍まで昇る。病没。
陸倕
470年-526年。字は佐公。呉郡呉県の人。陸慧曉の子。若くして文章を得意とし、蕭子良の西低に加わった。同じく文章を得意とした任昉と懇意であり共に研鑽した。諸王の属官を転々と務めて後に揚州大中正などを務めた。人付き合いを避けて読書に没頭し暗記力に優れた。
蕭琛
480年-531年。字は彦瑜。南蘭陵郡蘭陵県の人。蕭恵訓の子。若くして才能を発露させ一族の蕭恵開は我が一族を興すだろうと評した。太学博士から昇進を重ねて度重なる政変でも官職を維持し、蕭衍からは宗老と敬慕された。侍中・特進・金紫光禄大夫まで昇る。
陳慶之
484年-539年。字は子雲。斉代から蕭衍に仕え、梁が建つと武功を重ねて昇進した。北魏の北海王・元顥を擁して北伐し洛陽を占領した。爾朱栄の反攻により洛陽を追われるが、その後も北魏戦線を支えた。武芸には疎かったが指揮官として非凡で、身に纏った白袍を畏怖された。病没。