宋
publish: 2020-05-31, update: 2021-11-11,
概要
名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
---|---|---|---|
宋 | 420 | 479 | 59 |
宋は、劉裕が東晋の司馬徳文から禅譲を受けて建国した王朝です。 統治期間は、420年~479年の59年間です。 このうち、29年間は元嘉の治と呼ばれる、第3代皇帝・劉義隆の治世です。 同時代に北魏が華北を統一しています。 正式な国号は「宋」ですが、ほかの宋王朝と区別して「劉宋」とも表記されます。
特徴
軍人皇帝
劉裕は寒門(低い家格)出身の軍人でした。 東晋が傍系とは言え西晋の皇族の流れを汲んだ皇帝であったこととは対照的です。 また、東晋の司馬氏は、後漢まで遡れば河内郡の名士であり、系図は不明ながらも秦の貴族の末裔ともされます。 劉裕は前漢の劉邦の弟である楚元王・劉交の末裔を自称しますが、司馬氏の出自と比べたら、現実味はありません。 いわば、劉裕は純粋な実力をもって皇帝に即位した人物です。 華北では、異民族の抗争によって過度なほどに実力者が皇帝に即位する事例ばかりで、その気風が華南にも表れたとも言えます。
東晋は貴族が絶妙に権力をけん制しあって、その調和の元で国内の政治を安定させました。 この特徴は、宋にも引き継がれ、引き続き宋もまた貴族性社会を背景にしています。 ただし、宋は東晋とは違って、軍事力を貴族に委ねませんでした。 東晋の象徴でもあった西府・北府は、宋に受け継がれるにあたって、その監督者は皇族が任命されるようになります。 これは劉裕が、皇族の権力の弱い東晋を教訓にしたものですが、皇族の権力が強まった結果、皇族同士の粛清が絶えず、帝位継承には大きな危険が付きまとうことになりました。 皮肉にも、西晋が皇族同士の抗争で八王の乱を引き起こしたのと同じ背景を、宋は有することになります。
恩倖
恩倖とは、貴族に対抗する権力として皇帝の権力を源泉とし、地位を向上させた人々のことを指します。 当時の貴族は生まれながらにして貴族であり、この権力は皇帝ですらも排除できないものでした。 このため、非貴族が官吏として出世するには、その能力の高低だけではなく、皇帝の権力に取り入る必要がありました。 一方で、貴族よりも忠誠的である恩倖の存在は、中央集権を進めたい皇帝にとっても必要なものでした。
自分が出世するには、自分が仕える主君を出世させる必要があります。 その上昇欲求が作り出す圧力は、階層を経るにつれて形を変えつつも上層へと届き、最終的に軍事力をもつ皇族を突き上げるものになります。 下からの突き上げによって帝位すらも狙わざるを得ない側面が、宋の皇族にはあったのです。
蠱毒と山越文化
第3代皇帝・劉義隆の子・劉劭は皇太子でありながら、蠱毒を行った罪で廃太子されました。 蠱毒とは呪術の一種です。 それは、昆虫や爬虫類、両生類を同じ容器で飼育して共食いをさせ、残った一匹を放つことで相手を呪い殺すという、何とも気持ちの悪いものです。 蠱毒は山越一帯の異民族の風習で、歴代の王朝は蠱毒を禁止しました。 つまり、蠱毒は皇太子が廃されるほどの罪であったということです。
劉劭の事例は、華南はまだ非漢民族の存在が明確にあったことを示すものです。 華南は経済的に大きく躍進していましたが、それでも、史書によれば、当時の淮南には野生のゾウが生息しており、たびたび家屋を破壊したとあるほど、未開の地が多く残されていました。 東晋末期から宋初期の人である陶潜(陶淵明で有名)は、桃源郷の出典である『桃花源記』を記しており、この桃源郷とはすなわち、華南で漢民族と交流していない非漢民族の集落を示唆したものです。 山越一帯の非漢民族は漢民族の進出を受けて完全に融合していく過渡期にありました。 非漢民族の隠れ里を理想郷として描いて評価されたということは、当時の非漢民族の集落が失われつつある憧憬であったことを意味しています。 胡漢の融合は華北だけではなく、形こそ違えど華南でも起きた事象です。
なお、桃源郷は理想郷としてユートピアと同義に扱われますが、元来、桃源郷とユートピアは似て非なる正反対のものとされます。 ただし話がずれるので、これはまた、別の機会に着目したいと思います。
主な出来事
劉裕の死後
北伐を成功させて南朝最大の版図を築いた劉裕ですが、皇帝としての治世はわずか2年間です。 それは劉裕の功績と比べると短いものでした。 その死後は、子の劉義符が皇帝に即位しますが、その治世もまた2年間ほどで終わります。 これは、建国の功臣であり、劉義符の後見を任されたはずの徐羨之、傅亮、謝晦らが劉義符を廃位したからでした。 さらに、劉義符の弟である劉義隆が皇帝に即位すると、劉義隆は劉義符殺害の罪で、先の徐羨之、傅亮、謝晦を処刑します。
建国後数年で皇族を巻き込んだ権力闘争が起こったことは、後の皇族同士の粛清が絶えたない宋朝全体を特徴づけるものです。 劉裕の死後、宋は早くも危機に瀕したかのように見えますが、その後、劉義隆の治世は安定し、宋の最盛期を作りました。
元嘉の治
劉義隆の治世は元号を元嘉としました。 この時期は、以下の理由によって、およそ25年に渡って国内が安定したため、元嘉の治と呼ばれます。
- 王導以来の琅邪王氏を筆頭に貴族が重用され、貴族の合議によって国内の政治が安定した
- 北魏は華北を統一する最中にあり、外患が少なかった
- 劉義隆が皇帝を長く務めたために、皇統にまつわる権力闘争が表面化しなかった
安定した国情により、経済や文化は促進され、後に元嘉三大家と呼ばれる鮑照、謝霊運、顔延之を筆頭に、多くの文化人を輩出しました。
しかし、その安定も北魏の華北統一をもって転機を迎えます。
北魏の侵攻
439年に華北を統一した北魏は、後顧の憂いをなくして、その矛先を南へとむけていました。 450年、小競り合いに終止符を打つべく、劉義隆は朝廷の賛同を得て北伐の軍を起こしますが、逆に北魏の南征を引き起こします。 この頃、宋の国内は元嘉の治によって久しく安定しており、軍は軟弱で、連戦錬磨の北魏軍に当たる術を持っていませんでした。 北魏の勢いは長江の北岸に至るものでしたが、宋にとって幸いなことに、北魏は内患を憂慮して威を示したまま退却します。 この北魏の侵攻によって、淮南一帯では大量の物的・人的資源が消費され、宋は国威を徐々に低下させます。
皇族同士の疑心暗鬼
一般に、宋王朝の第4代皇帝は劉駿とされていますが、第3代皇帝・劉義隆のあとに皇帝として即位した人物がいます。 それが、劉義隆の子・劉劭です。 劉劭はもともと皇太子に立てられていましたが、453年、巫蠱を行ったとして廃太子が検討されます。 これを察知した劉劭は父・劉義隆を殺害し、自ら皇帝に即位しました。 ところが、これを良しとしない劉劭の弟・劉駿が挙兵し、これにより劉劭は処刑されます。 劉劭の在位は僅か3か月で、正史『宋書』では劉劭は元凶劭の名で記され、皇帝として扱われていません。
この劉劭による一連の事件は、宋王朝で以後も続く皇族同士の粛清の始まりと言えます。 第5代皇帝の劉子業は、464年に父・劉駿の後を継いで即位しますが、皇族や高官を多く粛清したため、2年後には第6代皇帝である劉彧に殺害されます。 劉彧は先帝を廃位して即位した経緯から、劉彧の即位には当然のごとく反対勢力も存在しました。 466年、劉駿の子である劉子勛が挙兵して皇帝を称すると、各州の刺史がこぞって反乱しました。 中には北魏の軍を引き入れたため、劉彧の治世には山東半島から淮北の地を北魏に奪われます。 劉彧はこの混乱を辛くも収めますが、この始末により劉駿の子はことごとく処刑されました。その人数は28人に上ると言われます。
宋から斉への政変
472年、劉彧の死後、その子・劉昱が第7代皇帝として即位します。 この頃にも、皇族の反乱が絶えず、474年には桂陽王の劉休範が、476年には建平王の劉景素が反乱を起こします。 この鎮圧に当たって朝廷内の権力を掌握しつつあったのが蕭道成でした。 蕭道成は淮陰方面で北魏戦線を受け持った軍閥の一人です。
477年には、劉昱が朝廷を独裁する蕭道成の誅殺を計画しますが、先手を制する蕭道成によって、劉昱は廃位され殺害されます。 同年、沈攸之が挙兵し、袁粲、劉秉らが呼応しますが、蕭道成によって鎮圧され、この強権を除くことはできませんでした。 劉昱は残忍で暴政を行ったとされますが、これは簒奪を行った蕭道成を正当化するために、捏造や歪曲がされた可能性があります。
479年、蕭道成は相国・斉王となり、まもなく禅譲を受けて斉を建国します。
劉宋帝室系図
- 劉裕 1
- 劉義符 2
- 劉義隆 3
- 劉劭
- 劉駿 4
- 劉子業 5
- 劉彧 6
- 劉昱 7
- 劉準 8
- ※左側が年長者です。
- ※数字は皇位の継承順を意味します。
- ※皇位継承に関係のない筋は省略しています。
代 | 諡号 | 姓名 | 生年 | 即位 | 退位 | 没年 | 即位年齢 | 没年齢 | 在位期間 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 武帝 | 劉裕 | 363 | 420 | 422 | 422 | 57 | 59 | 2 |
2 | 少帝 | 劉義符 | 406 | 422 | 424 | 424 | 16 | 18 | 2 |
3 | 文帝 | 劉義隆 | 407 | 424 | 453 | 453 | 17 | 46 | 29 |
劉劭 | 424 | 453 | 453 | 453 | 29 | 29 | 0 | ||
4 | 孝武帝 | 劉駿 | 430 | 453 | 464 | 464 | 23 | 34 | 11 |
5 | (前廃帝) | 劉子業 | 449 | 464 | 466 | 466 | 15 | 17 | 2 |
6 | 明帝 | 劉彧 | 439 | 466 | 472 | 472 | 27 | 33 | 6 |
7 | (後廃帝) | 劉昱 | 463 | 472 | 477 | 477 | 9 | 14 | 5 |
8 | 順帝 | 劉準 | 469 | 477 | 479 | 479 | 8 | 10 | 2 |
平均 | 22.3 | 28.9 | 6.6 |
元嘉の治と呼ばれる宋朝の安定期は、第3代皇帝・文帝・劉義隆の治世です。 その期間は、宋朝59年のうち29年という、ほぼ半分を占めるものです。 元嘉の治は、長い治世が社会安定に寄与するとともに、安定した社会が長い治世に寄与するという、鶏と卵の関係のような相互の循環によって成り立っていました。 劉裕による北伐は、分裂した華北を北魏が再統一していく過程で可能でした。 華北を統一した北魏の外圧によって元嘉の治は陰りを見せ、劉義隆の治世そのものも後継問題のもつれによって子の劉劭に殺害されることで終わります。
歴代君主
劉裕
363年-422年。字は徳輿。劉宋の初代皇帝。武帝。劉翹の子。劉牢之に従い軍功を重ねた。劉牢之が失脚すると桓玄に属したが、桓玄が司馬徳宗を廃して皇帝を自称すると、劉毅・諸葛長民らと反乱した。桓玄を討って司馬徳宗を復位させるが、後に自ら皇帝となり宋を建国した。在位2年。
劉義符
406年-424年。劉宋の第2代皇帝。少帝。劉裕の第1子。父劉裕の死後即位した。傅亮、徐羨之、謝晦の輔弼を受けたが、言行に節度がなく信望を失った。音楽に精通し遊戯に明け暮れた。張太后の勅令を得た徐羨之らに廃位され、まもなく殺害された。在位2年。
劉義隆
407年-453年。劉宋の第3代皇帝。文帝。劉裕の第3子。兄劉義符が廃されると即位した。兄を殺害した罪で徐羨之らを処刑し朝廷を掌握した。元嘉の治と呼ばれる全盛を築くが、晩年は北魏の侵攻を受けて国内は乱れた。劉劭の廃嫡を考えるが、決起した劉劭に殺害された。在位29年。
劉駿
430年-464年。字は休龍。劉宋の第4代皇帝。孝武帝。劉義隆の第3子。皇太子であった兄劉劭が劉義隆を殺害すると、これを打つべく挙兵、皇帝に即位し、建康を陥落させ劉劭を処刑した。寒門を登用して中央集権を進めたが、残虐な一面も多く国を疲弊させた。在位11年。
劉子業
449年-466年。劉宋の第5代皇帝。前廃帝。劉駿の第1子。劉駿の死後即位した。性は残虐であり、劉義恭、柳元景、顔師伯、劉子鸞、何邁、沈慶之ら一族、重臣を次々と粛清し人望を失った。劉彧の側近である阮佃夫の襲撃を受けて殺害された。在位2年。
劉彧
439年-472年。字は休炳。劉宋の第6代皇帝。明帝。劉義隆の第11子。甥劉子業が暴虐であったため、殺害して皇帝に即位した。しかし世論を得られず反乱が頻発し、北魏の侵攻、財政難、賄賂の横行などに苦慮した。降伏には寛容である一方で多くの皇族を処刑した。在位6年。
劉昱
463年-477年。字は徳融。劉宋の第7代皇帝。後廃帝、蒼梧王。劉彧の第1子。父劉彧の死後皇帝に即位した。袁粲と褚淵の輔弼を受けた。劉休範や劉景素など皇族の反乱が絶えなかった。権勢を強める蕭道成の誅殺を計画するが、先手を打った蕭道成に殺害された。在位5年。
劉準
469年-479年。字は仲謀。劉宋の第8代皇帝。順帝。劉彧の第3子。兄劉昱が蕭道成に殺害されると蕭道成によって擁立された。沈攸之、袁粲は蕭道成打倒に挙兵するが、いずれも鎮圧された。蕭道成に禅譲を迫られ汝陰王に降格された。後に殺害された。在位2年。
主な宗族
劉子鸞
456年-465年。字は孝羽。劉駿の子。始平王。襄陽王、新安王から改封された。呉郡太守、南徐州刺史、司徒、中書令などの重職を兼任した。幼少にしてこの待遇であり、常々嫉視していた兄・劉子業から賜死を受けた。死に臨んで再び皇族には生まれたくないと言葉を残した。
主な人物
徐羨之
364年-426年。字は宗文。東海郡郯県の人。徐祚之の子。東晋の太子少傅の主簿を務め、桓玄が楚を興すと劉裕の挙兵に従った。劉裕の死に際し傅亮、謝晦、檀道済と共に劉義符の補佐を遺言された。劉義符の廃位を進め劉義隆を即位させた。やがて専横が目立つようになり、劉義符殺害の罪を問われて自害した。
謝晦
390年-426年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。陳郡謝氏の出身で謝安の兄・謝拠の曾孫。東晋朝廷を掌握する劉裕に従い北伐、土断を行った。劉裕の死後、劉義符の補佐を任されたが、劉義隆擁立の政変に関わった。徐羨之らと共に政権を握り荊州刺史となるが、劉義符殺害の罪を問われ檀道済の討伐を受けた。刑死。
傅亮
374年-426年。字は季友。北地郡霊州県の人。傅玄の来孫。傅瑗の子。東晋の時代に劉裕政権の下で昇進を重ねた。宋が建つと侍中、中書令を歴任した。建国の功臣として建城県公に封じられた。劉義符の廃位に関わり劉義隆を迎えたが、劉義符殺害の罪を問われ処刑された。
王華
385年-427年。字は子陵。琅邪郡臨沂県の人。王廞の子。王恭と王国宝の争いの中で父・王廞が行方不明となり、恩赦を受けるまで逃亡生活の幼少期を過ごした。後に劉裕によって喪中が発せられ、正式に服喪した。劉義隆に仕えて、張邵の失脚後その職務を代行した。
王曇首
394年-430年。字は子陵。琅邪郡臨沂県の人。王珣の子。劉義隆に仕えて属官として昇進し、劉義隆の即位に伴って中央に入り、侍中、驍騎将軍を務めた。王華らと共に劉義隆政権の確立に務め、その功は多大であった。兄・王弘が劉義康から妬まれたとき、兵を分配することを勧めた。
謝霊運
385年-433年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。謝瑍の子。謝玄の孫。東晋の康楽公を継いだが、宋では侯に降格された。永嘉郡太守、秘書監、侍中を務めながらも度々辞職し詩作に没頭した。隠遁しつつも生活は豪勢で、騒乱の罪を得て広州に流刑された。道中、脱走の容疑で処刑された。
謝恵連
397年-433年。陳郡陽夏県の人。謝方明の子。何長瑜に師事し文才で名を挙げた。男色関係があったほか、喪中に詩を贈ったとして流刑となった。才能を愛した殷景仁に弁護され彭城王・劉義康の属官となった。残した詩文は美文として評価される。
檀道済
?-436年。劉裕に仕えて、桓玄の乱や北伐を転戦して宋朝建国の功臣となった。劉義符の廃位に加担するもその後の罪を逃れた。のちに北伐を行い、対北魏戦線の要として軍の最高職を務めたが、勢威を恐れた劉義隆に殺害された。『三十六計』の著者。
劉湛
392年-440年。字は弘仁。南陽郡安衆県の人。劉柳の子。前漢の長沙王・劉発の末裔。宰相を志して管仲や諸葛亮に憧れた。劉裕の属官として厚遇を受けた。宋が成ると諸王の属官を務めつつ中央職を昇進した。劉義康が朝廷を専横するとこれを補佐したため、劉義隆に逮捕、処刑された。
王球
393年-441年。字は倩玉。琅邪郡臨沂県の人。王謐の子。王導の玄孫。太守として統治に優れ、中央に入って侍中、州大中正、中書令を歴任した。権臣との過度な交流を避け顔延之ら文人との交友を持った。持病のため解任されたが無官のまま劉義隆の諮問が絶えなかった。
殷景仁
390年-441年。陳郡長平県の人。殷道裕の子。劉毅の属官を経て劉裕に従い、そのまま宋の成立と共に入朝した。当初は劉湛との関係も良好で、荊州に出向した劉湛の呼び戻しを推薦したが、後に一方的に劉湛からは憎まれた。病を称して家に留まること五年におよび、その間、劉義隆との書簡の往来で職務を全うした。
范曄
398年-445年。字は蔚宗。南陽郡順陽県の人。会稽郡山陰県の生まれ。范寧の孫。范泰の子。名門、順陽范氏の人。奇特ともいうべき奔放さがあり、度々不祥事を起こしては避難を買った。左遷された任地で『後漢書』を編纂した。後に、劉義康の反乱に加担したとして処刑され、一門は断絶した。
顔延之
384年-456年。字は延年。琅邪郡臨沂県の人。顔顕の子。名門だったが父を早くに亡くし没落した。書物に通じたが、酒癖が悪く、長らく独身だった。晩年の陶潜と交際し、その死を悼んだ。朝廷の権力闘争の中で常に警戒され、数度の左遷と長い謹慎を経た。晩年は、秘書監、光禄勲、太常を歴任した。
鮑照
414年-466年。字は明遠。東海郡襄賁県の人。貧しい家柄に生まれ、臨川王・劉義慶に仕えたほか、臨海王・劉子頊の下で前軍参軍を努めた。劉子頊が反乱すると、混乱のなか殺害された。詩人として高名で、その作風は通俗的と批判される一方で、躍動的にして新奇的であり、後世に大きな影響を残した。
阮佃夫
427年-477年。会稽郡諸曁県の人。元嘉年間に湘東王劉彧に仕えて劉彧に信任された。劉彧が劉子業に監禁されると、諸方と連絡を取り合って劉子業の廃位を計画、実行した。対抗する反乱には軍を率いて転戦した。劉彧の死後、劉昱の廃位を実行したが失敗し処刑された。
沈攸之
?-478年。字は仲達。呉興郡武康県の人。沈叔仁の子。若くして父を亡くし困窮した。元嘉の治が終わるころ、北魏の外患に備えるため徴兵された。劉駿以来4代に仕えて車騎大将軍、開府儀同三司まで昇った。劉昱が廃位されると挙兵して反乱したが、離反が相次ぎ華容にて横死した。