後趙
publish: 2021-04-16, update: 2021-10-06,
概要
後趙は、石勒が前趙から独立して建てた王朝です。 その統治期間は、319年から351年の32年間です。 その始まりは、石勒が前趙から独立し、前趙を併呑したことに始まります。 第三代皇帝・石虎の死後は、後継争いで支離滅裂となり、冉閔が帝位を簒奪する一方で、関中では前秦が独立し、河北では前燕が南下して、後趙は滅亡しました。
特徴
胡漢対立
五胡十六国時代、および南北朝時代を通して、後趙の時代は胡族と漢族の対立が深まった時代です。 後趙は河北広域に対して、異民族政府による統治を初めて確立した王朝です。 この場合、前趙は西晋から後趙への過渡期と見ることができます。
後趙では、独自の官吏制度、法制度の制定が進みました。 各地の都城建設が進み、人口の増加や、農業、経済の安定が見られます。 これは、後趙において漢族の知識人を重用したことを一つの原因として見ることができます。
前趙の靳準が反乱したとき、靳準は、「胡人で天子となった者はいない」と言いました。自らは胡族であるにもかかわらず、自ら皇帝に即位せず、東晋への帰順を図ったのです。 靳準の言動が真意か打算かは別にして、そのような価値観が世論にあったことは間違いありません。 それは漢族から見れば、実力者が皇帝に成り上がることへの嫌悪感、あるいは培った価値観を否定される屈辱であり、胡族から見れば既成の価値観に対する反骨精神、あるいは劣等感でした。 姚弋仲は後趙が滅亡するにあたり、子たちに遺言して「戎狄で天子となった者はない。東晋に帰順し不義を成すな」と戒めました。 これらの言葉を彼らの視点で解釈すれば、前趙や後趙で皇帝の位を奪い合い滅亡したことへの戒めと取ることもできますが、同時に、そもそも前趙や後趙の皇帝は正統なものではない、という考えが見て取れます。
胡族と漢族には、互いに複雑に対立する思惑がありました。 漢人の冉閔が後趙の政権を握り、相次ぐ反乱に対処して石鑑を監禁したとき、人心を測るために城中に対して「私に従うものは残り、従えないものは去れ」と布告しました。 このとき、多くの胡人が去り、城門が渋滞するほどであったため、冉閔は胡人に対して見切りをつけ、無差別に胡人の首に対して懸賞を掛けました。 冉閔自らが率先して胡人を虐殺するほどであり、この一件により、20万人余りの胡人が殺害されました。 また、漢人であっても、風貌が胡人に似ていたものも多数殺害されました。
これは、施政者が行った歴史に残る胡漢対立の一例であり、現実には、歴史に残らない無数の対立があったことでしょう。 後年、胡漢の概念は北魏において融合していき、ついに胡漢を超越して隋唐時代を迎えることとなりますが、後趙はまさに対立の最中にありました。
胡漢分治
後趙の制度の特徴に「胡漢分治」と呼ばれる体制があります。 これは、漢人に対しては漢人の旧来の制度を施行し、胡人に対しては別の制度を施行した、二重の統治制度です。 二重に統治した以上、同化政策とは反対のものであり、一見非効率にも見えるこのような体制は、民族や文化が入り混じった当時の背景に即した、自然発生的で現実的な制度です。 見方を変えれば、後漢や魏、晋でも護匈奴中郎将などの、辺境民族の統治を担った職種があり、後趙では立場を変えてこれらを踏襲したにすぎません。 胡漢分治は民族分断を企図した体制ではないとする考え方の一方で、自然発生したであろう民族融和を阻害し送らせたとする考え方があります。
主な出来事
前趙時代
創建者である石勒は、羯族と呼ばれる并州に居住した少数民族の出身です。 一家は経済的に貧しく、飢饉に見舞われたおり離散して、石勒は奴隷として売られた経緯をもちます(302年から303年)。 彼の名が世に出始めるのは、汲桑との出会いにおいてです。 汲桑は牧場を営んでおり、石勒は奴隷として牧場を出入りするようになります。 その関係は、やがて石勒が奴隷という身分から解放されても続きました。
時は八王の乱の最中であり、多数の牧人を抱えた汲桑は、近隣で司馬穎の復権を目指した公師藩の挙兵に参加します(305年)。 鄴に進撃した公師藩は、苟晞、丁紹らに敗れて殺害されますが、汲桑らはその残党をまとめて鄴を攻略し、并州刺史・司馬騰を殺害します。 勢力をさらに南下させますが、迎え撃った苟晞、王讃らに司馬越、丁紹らが援けたため、汲桑らは大敗を喫します。 このとき汲桑と石勒は別々に逃走し、汲桑は田禋らに討ち取られます。
石勒は逃亡の末、上党に割拠していた張㔨督を頼り庇護を受けます。 張㔨督は常々、自らの独立した小勢力を長らく保持しえないであろうこと予期していました。 その逡巡に気付いた石勒は、張㔨督を説得するに、前趙(当時は漢)として挙兵、独立していた劉淵への帰順を勧めます(307年)。 以後、石勒は、劉淵によって輔漢将軍を任じられ、前趙の将軍として働くようになります。
当時の前趙は、その勢力を并州一帯に限定されており、并州の境界以東は、いまだ西晋の余力が残っていました。 石勒は冀州へ進出すると、そのまま水が低きに流れるように、脆弱な拠点を転戦し、その活動は河北のみならず河南にも及び、文字通りの縦横無尽な攻略を行いました。 一時は江南を統領した司馬睿も、石勒の侵攻を憂慮して王導に討伐を命じるほどでした(311年)。
西晋と前趙にとって決定的な分水嶺になったのが、司馬越による石勒討伐の出師と、司馬越の病死です。 総帥を失った西晋軍は組織として瓦解し、石勒はこれを散々に打ち破ります。 このとき、敗死したのは将兵だけでなく、王族や朝廷中枢の要人も多くいたため、西晋の朝廷機能は停止して、ほどなく洛陽も陥落します(311年)。
独立
この頃になると石勒の勢力は前趙でも最大級の存在となっていました。 これを疎ましく思っていたのが、同僚でもある大将軍・王弥と、劉淵の後を継いだ皇帝・劉聡です。 王弥は石勒の勢力拡大に釘を打つために、当時、青州に割拠していた曹嶷と連携を取ろうとします。 ところが、王弥が曹嶷に宛てた使者が、石勒に捕らわれてしまったために、王弥の内心が石勒に露見してしまいます。 このとき、石勒も王弥も、乞活と呼ばれる武装難民と対峙していましたが、石勒は敵意を努めて隠し、王弥を救援します。 そして、石勒は、安心して隙を見せた王弥を酒宴にて誅殺します。 石勒は、王弥に反意ありとして、劉聡に誅殺の旨を報告します。 劉聡にとって、この報告は到底許諾できるものではありませんでしたが、石勒の勢力の強大さは、既に劉聡も恐れるところであり、離反を懸念した劉聡は石勒を処罰することができませんでした。 以上のことから、石勒は劉聡の臣下でありながら、劉聡の威令の届かない立ち位置にもあり、既に後の後趙の前身を見て取れます。
石勒は、頑強に抵抗し続けた幽州刺史の王浚や并州刺史の劉琨を滅ぼし、河北を治めて、ますます勢力を強固なものにしました。 318年、劉聡は重篤になると、石勒を重職において輔弼を任せる遺詔の残しますが、石勒は固辞し続け、ついに受けることはありませんでした。 劉聡の死後、子の劉粲が皇帝に即位します。 ところが、劉粲は、外戚の大将軍・靳準によって殺害されます。 靳準は、反乱を起こし、天王を称して東晋への帰順を示します。 靳準の乱に即応したのが、石勒と、関中に駐屯した丞相・劉曜でした。 石勒と劉曜は靳準に対して目的を同じくしていましたが、劉曜が前趙の皇帝に即位し、靳準が配下に殺害されてその残党が劉曜に降伏すると、勢力拡大を目論んでいた石勒は、劉曜から離反していきます。 劉曜は石勒を、高位、高職で懐柔しようとしますが、石勒の攻撃を恐れて疑心暗鬼となった劉曜は、石勒の使者である王脩を処刑しています。
これにより、石勒は完全に劉曜と決別することになります。 319年、石勒は皇帝即位を九度にわたって辞退したのち、大単于・趙王を称します(帝位に就くのは330年)。 これを後趙の成立と見なします。
前趙の滅亡
石勒は、東晋、前趙と抗争を続けました。 後趙と前趙にとって転機となったのが、328年の洛陽での戦いにおいてです。 この戦いは、元々は石勒が石虎に兵を与えて、西進させたものですが、劉曜自身が救援したため、石虎は敗走しました。 石勒は、石虎を救援するために洛陽へと進みます。 このため、洛陽の西郊には、前趙と後趙の両君主が対峙することとなり、この戦いで石勒は劉曜を捕縛します。 石勒は、はじめ劉曜を丁重に扱いましたが、劉曜に降伏の意思がないことを知ると、劉曜を暗殺しました。 それからの前趙の崩壊は早く、劉煕らは上邽を拠点に抵抗するものの、関中は瞬く間に後趙に侵攻され、隴西は前涼に占拠され滅亡します。
石勒の死
333年、石勒は病没します。 跡を石弘が継ぎ、石虎が輔弼する形をとりましたが、実情は、石弘は石虎の傀儡でした。 石虎は横暴な人事で、側近を重職に就け、政敵を排除しました。 ゆえに、石虎はもともと敵の多い人物と言えるでしょう。 劉皇太后をはじめ、多くの王族、重臣たちは憤り、各地で反乱が頻発することになります。 しかし、軍事をとっては石虎は後れをとることはなく、反乱はそれぞれ撃破されていきます。 334年、石虎は石弘に譲位されて皇帝に即位します。 石弘は海陽王に封じられますが、幽閉されて後に殺害されます。
内訌と外患
後趙は東晋、前涼、前燕と争い続けましたが、石虎の強い統率力のためか、後趙の勢威が衰えることはありませんでした。 石虎の政治は、性格を反映して極端に横暴でした。 一方で、石虎は、学問、宗教への関心も強く、当時の仏教の高僧であった仏図澄を厚く待遇した一面も持ちます。 石虎の治世が十五年という年月に渡った結果を見れば、石虎が悪政を布いたとは言えません。 また、石虎の死後、僅か一年程度で後趙が滅んだ結果をみると、後趙の政治がいかに石虎個人の能力に依っていたかが見て取れます。
石虎の死
349年、石虎は病没します。 以後、後趙は崩壊の坂道を転がり、残党を含めても、僅か二年の間に跡形もなく消え去ります。 まず、石虎の跡を継いだのが、張豺の後援を受けた石世です。 しかし、これは冉閔や李農ら重臣を味方につけた石遵によって廃位され、継いだ石遵も、朝政を主幹した冉閔によって廃位されます。 もはや、実力者であれば誰でも皇帝の位を狙う有様で、石虎の死後、皇帝の在位期間は以下の通りごく短いものとなりました。
- 石世:在位33日
- 石遵:在位183日
- 石鑑:在位103日
石鑑も冉閔によって殺害され、ここに形式上の後趙は滅びます。 冉閔は国号を大魏(以下、冉魏)として皇帝に即位しました。 石祗は襄国で抵抗を続けますが、ほどなくして冉閔に攻略され、実質的にも後趙は消え去ることとなります。
冉閔も、後趙を相続したとは言い難く、関中では前秦が独立し、河北では空白を埋めるように前燕の南下を誘発させました。 冉閔は、南下する前燕に敗北し処刑されるため(352年)、旧後趙領は、一部を一時的に冉魏に領有されたのち、前秦と前燕によって東西に分割されることになります。
後趙帝室系図
- 耶弈于
- 周曷朱
- 石勒 1
- 石弘 2
- 㔨邪
- 寇覓
- 石虎 3
- 石鑑 6
- 石遵 5
- 石祗 7
- 石世 4
- ※左側が年長者です。
- ※数字は皇位の継承順を意味します。
- ※皇位継承に関係のない筋は省略しています。
代 | 諡号 | 姓名 | 生年 | 即位 | 退位 | 没年 | 即位年齢 | 没年齢 | 在位期間 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 明帝 | 石勒 | 274 | 319 | 333 | 333 | 45 | 59 | 14 |
2 | (廃帝)海陽王 | 石弘 | 313 | 333 | 334 | 334 | 20 | 21 | 1 |
3 | 武帝 | 石虎 | 295 | 334 | 349 | 349 | 39 | 54 | 15 |
4 | (廃帝) | 石世 | 339 | 349 | 349 | 349 | 10 | 10 | 0 |
5 | (廃帝) | 石遵 | ? | 349 | 349 | 349 | ? | ? | 0 |
6 | (廃帝) | 石鑑 | ? | 349 | 350 | 350 | ? | ? | 1 |
7 | 新興王 | 石祗 | ? | 350 | 351 | 351 | ? | ? | 1 |
石虎の子の兄弟関係については、石鑑が第3子、石遵が第9子、石世が末子とされていますが、石祗は長幼の順番が定まりません。
石勒と石虎の血縁関係も不明です。 石勒と石虎は同族であり、石虎が幼いときに父・寇覓が亡くなったため、石虎は周曷朱の養子になったといいます。
主な人物
杜洪
?-352年。京兆郡の人。冉閔と石祗が対立すると、王朗、麻秋は長安から洛陽に入ったため、張琚と共に関中を占拠した。枋頭から関中攻略を目指して西進する苻健に敗れ、司竹、宜秋に逃れた。張琚によって殺害されたとも、苻健の攻撃によって敗死したともある。
歴代君主
石勒
274年-333年。字は世龍。後趙の創建者。明帝。劉淵に従い前趙の将軍として河北を転戦し、西晋の幽州刺史王浚、并州刺史劉琨など、諸勢力を滅ぼした。前趙から独立して後趙を建て、河北に拠って前趙を滅ぼした。奴隷から皇帝まで上った中国史上唯一の人物とされる。在位15年。
石弘
313年-334年。字は大雅。後趙の第2代皇帝。海陽王。石勒の次子。石勒の死後、石虎を恐れて帝位を譲ろうとするも、石虎に拒まれて強制的に皇帝に即位した。しかし、実質は石虎の傀儡であり石虎の権力掌握は進んだ。その後、石虎によって廃位され殺害された。在位1年。
石虎
295年-349年。字は季龍。後趙の第3代皇帝。武帝。石勒の甥。暴虐な性格であり石勒が戒めても改まらなかった。石勒の死後、石弘を廃して皇帝に即位した。造反が絶えなかったが、統率力に優れてその都度鎮めた。東晋、前燕と抗争を続け後趙の最盛を築く一方で、過大な支出により経済的な疲弊をもたらした。在位16年。
石世
339年-349年。字は元安。後趙の第4代皇帝。廃帝。石虎の子。皇太子石宣が誅殺されると代わりに皇太子に立てられる。石虎の死後僅か11歳ながら皇帝に即位するも、帝位簒奪を目論む石遵により廃された。まもなく殺害された。在位33日。
石遵
?-349年。字は大祗。後趙の第5代皇帝。廃帝。石虎の九男。皇太子石宣が誅殺された折、石世と並んで立太子の候補にされた。石虎の訃報を聞いて挙兵し鄴に上って石世を廃した。兵権を握る冉閔を危険視し除こうとしたが、石鑑の密告を受けた冉閔により処刑された。在位183日。
石鑑
?-350年。字は大朗。後趙の第6代皇帝。廃帝。石虎の三男。冉閔粛清を本人に密告し石遵の廃位を招いた。冉閔に擁立され皇帝に即位するも実権はなく傀儡だった。諸方で冉閔・李農を除く企てが起こるなか冉閔に幽閉され、後に復権を企むも露見し廃位、殺害された。在位103日。
石祗
?-351年。後趙の第7代皇帝。新興王。石虎の子。冉閔が石鑑を廃して冉魏を建てると封地の襄国で皇帝に即位した。冉閔討伐の兵を興すも一進一退し、冉閔に敗れて保身を図った配下の劉顕によって殺害された。史書によっては君主として数えられない。
主な宗族
石琨
?-352年。汝陰王。石虎の子。石虎の死後は石遵や冉閔に従ったが、冉閔が独自に国号を改めると、冀州を拠点に襄国の石祗と呼応した。冉閔に対して一進一退したが、石祗が劉顕に殺害されると東晋へ亡命した。東晋において亡命は許されず、建康にて処刑された。
主な人物
王朗
生没年不詳。後趙の領軍、車騎将軍を歴任し、石虎に重用された。石虎の死後、後趙が乱れると長安に駐屯し、東晋の北進に備えた。冉閔と敵対し、冉閔に通じた麻秋によって誅殺されかけると、襄国の石祗を頼った。張挙、石琨らと鄴の冉閔を攻撃したが敗北した。前秦に降った後、事跡は不明。
申鍾
生没年不詳。魏郡魏県の人。後趙に仕えて侍中、司徒を歴任した。石虎の横暴を諫めた争臣としての逸話が残る。冉閔が魏を建国すると、これに従い太尉となった。前燕によって冉閔が滅亡すると、捕縛されて薊に送られるが、許されて慕容儁に登用された。その後の事跡は不明。
張賓
?-322年。字は孟孫。趙郡中丘県の人。漢人。張瑶の子。張宝とも。初め西晋に仕官したが望みを得ず辞職した。石勒が中原に進出すると自ら出仕し、早くから側近としての信任を得た。王弥暗殺の計画をはじめ、多くの遠謀を持って石勒の絶大な待遇を得てなお、処世に誤りが無かった。病没。
曹嶷
?-323年。劉柏根の反乱に従ったが、その死後は王弥の下で前趙に帰順した。王弥が石勒に殺害されると、独立を強めて青州一帯に勢力を築いた。東晋と修好したが、前趙を滅ぼした後趙の攻撃を受けると、各地で撃破されて降伏した。石虎に襄国へと送致され、石勒によって処刑された。
程遐
?-333年。石勒の挙兵に従い、早くから長楽郡太守を務めた。妹が石勒に嫁ぎ石弘を生んだため外戚として昇進した。張賓の死後その重職を継いだが、人格や能力は張賓に及ばなかった。石虎の横暴を度々上奏したが聞き入れられず、石勒の死後、石虎に誅殺された。
徐光
?-333年。字は季武。頓丘郡の人。張賓の死後、石勒に重用された。父の徐聡は牛医であったが、戦乱のため幼くして王陽に捕らえられ労働に従事した。学識を認められ石勒に取り立てられた。石勒の不興を買って一時幽閉されるが、後に許され顕職を務めた。石勒の死後、石虎に誅殺された。
夔安
?-340年。石勒十八騎の一人。天竺の出身であるが、遼東へ移り住んだ。傭兵稼業をする石勒と共に群盗となり各地を荒らした。石勒、石虎に従って文武を歴任した。晩年には、石鑑、冉閔、李農、張賀度、李菟ら五将を従え、荊州を攻めて東晋に名を響かせた。
張豺
?-349年。西晋末期、中原が乱れると割拠して王浚の傘下に入った。王浚の死後は石勒に帰順し、将軍職に任じられた。石虎の後継に石世を推し、石勒の死後、石世を即位せしめた。劉皇太后と共に政治を牛耳るが、石遵が挙兵すると孤立した。石遵に高位を与えて出迎えたが、捕らえられ処刑された。
徐統
?-349年。後趙の右光禄大夫、司隷校尉、侍中を歴任した。人を見る目を持ち、若き頃の王猛や苻堅を見出したと逸話が残る。石虎の死後、張豺らが朝政を乱すと、乱には預かれぬとして自殺した。後に、末子である徐攀は苻堅に取り立てられ、琅邪郡太守となった。
仏図澄
232年-349年。姓は白。亀茲国、または天竺の出身。石勒、石虎からの信頼を得て、仏教を急速に普及させた。訳経を行わず神異僧に数えられるが、その布教は高邁な教義や神異の力ではなく、日常生活に則した生活態度を根本とした。門下からは多数の高僧を出し、仏教の源流となった。
苻洪
284年?-350年。字は広世。元の姓を蒲とする。氐の出身。前趙、後趙に従い、石虎の代には使持節、都督六夷諸軍事、冠軍大将軍を受任し、西平郡公に封じられた。石虎の死後は冉閔と対立し、関中一帯に自立したが、麻秋に毒殺された。その勢力は子の苻健に引き継がれ、前秦の実質的な創建者と捉えられる。
李農
?-350年。後趙の司空。石虎の死後、張豺と敵対し、張挙に助けられて石遵に従った。冉閔に同調して石遵の廃位に関わったため、内外に政敵を作った。冉閔が帝位につくと斉王に封じられたが、最後はその権勢を恐れた冉閔に誅殺された。
麻秋
?-350年。胡人。後趙の武人で特に石虎に重用された。苻洪の反乱や、段遼ら鮮卑の侵攻、前燕、前涼の圧力に対して歴戦した。石虎の死後は冉閔に従い、王朗を攻撃して逃走せしめた。自立した苻洪に敗れて降伏するも、その勢力を奪わんとして苻洪を毒殺した。苻健によって処刑された。
張挙
?-351年。後趙の征北大将軍、太尉を歴任した。李農と親交が厚く、張豺と敵対する李農を逃がした。一貫して後趙の朝廷に従ったが、冉閔が国号を改めると、離反して襄国の石祗を頼った。石祗が冉閔に対して劣勢になると、前燕に援軍を求める使者となったが、石祗の死後、見返りの玉璽が偽物だと露見し処刑された。
冉閔
?-352年。字は永曾。冉魏の君主。武悼天王。冉瞻の子。石虎の養子。漢人。後趙の将軍として功績を立てる。石虎の死後混乱した後継問題に介入し、石遵、石鑑を廃して皇帝に即位した。後趙残党の石祗を滅亡させるも、前燕の南下を引き起こし慕容恪に捕らえられ処刑された。
劉顕
?-352年。石祗の属将。冉閔と戦って大敗を繰り返し、恐れるあまり石祗を始め重臣を殺害して冉閔に帰順した。一方で自立を目論み冉閔から離反するが、悉く敗れた。曹伏駒の寝返りで襄国に入城した冉閔によって処刑された。最終的に後趙に止めを刺した人物に当たる。