北魏

(section)

publish: 2020-07-09, update: 2026-08-11

概要

名称 成立 滅亡 期間
北魏 386 534 148

北魏は拓跋珪によって建てられた王朝。 前秦の崩壊期に独立し分裂していた華北の統一を成した。 北魏の治世では南朝が東晋からと移行している。 胡漢融合の反発から六鎮の乱が起こり北魏は東西に分裂したが、北魏が作った基盤は後の隋を天下統一へ導いた。 一般に北魏と称されるが正式な国号は「魏」である。

特徴

子貴母死

北魏には後継者が皇帝に即位したときにその生母を殺す制度があった。 これを子貴母死と呼ぶ。 正確には殺すというよりは自殺を命じる(賜死)のだが、実情に大差はない。 賜死のタイミングは厳密ではなく、概ね皇太子が生まれた直後から皇帝即位までの間に行われた。 以下に皇太子の生母の没年を示す。

諡号 皇帝 生母 皇帝の生年 皇帝の即位 生母の没年
1 道武帝 拓跋珪 賀氏 371 398 396
2 明元帝 拓跋嗣 劉氏 392 409 409
3 太武帝 拓跋燾 杜氏 408 423 420
拓跋晃 賀氏 428 428
4 文成帝 拓跋濬 閭氏 440 452 452?
5 献文帝 拓跋弘 李氏 454 465 456
6 孝文帝 拓跋宏 李氏 467 471 469
元恂 林氏 483 483
7 宣武帝 元恪 高氏 483 499 496
8 孝明帝 元詡 胡氏 510 515 528

子貴母死は鮮卑拓跋部の慣例ではなく、拓跋珪によって始められた制度である。 よって、拓跋珪の生母は子貴母死によるものではない。 子貴母死の初例は拓跋嗣の生母・劉氏に始まる。

生母の没年が皇帝即位後になっているのは、子貴母死が廃止された胡氏だけである。 早世した拓跋晃や、廃嫡された元恂にいたっては、出産後まもなく賜死されている。 ただし、死因が子貴母死によるものなのかどうかは、全てにおいて断定はできない。 高氏にいたっては、別の理由で殺害された説がある。

現代から見ると甚だ残酷だが、理解に苦しむ制度ではない。 皇后の一族は外戚と呼ばれ、皇帝の一族に次ぐ権力を持っていた。 皇后は皇帝にもっとも近しい存在であり、皇后の一存が皇帝の意思決定に大きく影響するであろうことを考えれば、その権力の大きさは当然である。 皇后自身が強い権勢欲を持っている場合もあれば、皇后が権勢欲の強い一族のコネとして機能する場合もあった。 いずれにせよ、外戚は皇帝の権力を利己的に濫用する傾向があった。 歴史から見れば前漢から後漢にかけて外戚の禍は顕著に表れ、また当事者の現実から見れば鮮卑拓跋部が諸部族連合として母系の部族の影響を多大に受けたことが、拓跋珪に子貴母死を実現させた。 子貴母死とは外戚を掣肘する策として、外戚との関係性を断つことを目的とした制度であった。

子貴母死が行われたかはっきりしないのは、子貴母死が明確な制度ではないために史書に記録されなかったとも見て取れる。 儒教において尊属殺は最大の不孝であり、漢人文化に浸透しようとする彼らにとって子貴母死を公にするのは都合が悪かった。

主な出来事

背景

五胡十六国時代に鮮卑拓跋部によって建てられた代は、拓跋什翼犍の時代、376年に前秦の苻堅によって滅ぼされた。 拓跋什翼犍の孫であった拓跋珪は、母の出身である鮮卑賀蘭部に逃れ、次いで匈奴独孤部に逃れた。 その後、諸部族は前秦に従属したが、383年、淝水の戦いで前秦が東晋に大敗してその混乱が華北全土に伝わると、俄かに自立の機運が高まった。 拓跋珪を支持した独孤部大人・劉庫仁は慕容垂との抗争の中で慕容部の反乱を招いて殺害されるが、拓跋珪は賀蘭部の推戴に応じて自立した。

鮮卑拓跋部の独立

386
拓跋珪が代王を称して自立する

同年、国号を魏に改め盛楽を都とした。

その後、匈奴独孤部の劉顕を破って部族間の内紛を収め、北征して柔然、庫莫奚、高車の諸部族を服属させた。

391
劉衛辰を討ちオルドスを支配する
395
参合陂の戦いにて後燕を破る

当初、北魏は華北平原を支配する後燕に対し劣勢で、勢力維持のために積極的に後燕と修好したが、諸部族をまとめて国力を高めると、西燕の扱いを巡って後燕と対立するようになった。 西燕が後燕によって滅ぼされると後燕による北魏征討の動きが活発化したが、参合陂の戦いで北魏が後燕に勝利すると、まもなく後燕の慕容垂が死去したことも重なり形勢が逆転した。 以後、後燕は河北を維持し得ず、南燕や北燕という残党政権のみが存続し、北魏は河北の支配権を得た。

398
皇帝に即位し平城を都とする
402
柴壁の戦いにて後秦を破る

北魏の華北統一

409
拓跋珪(道武帝)が次男・拓跋紹によって殺害される
423
拓跋嗣(明元帝)が崩ずる
431
平涼を占拠して赫連定を処刑する(夏の滅亡)

オルドスを支配した夏は、赫連勃勃の死後、急速に衰えた。 北魏は426年に統万城を落として赫連昌を上邽に追いやり、428年に赫連昌を捕らえた。 平涼にて残党を糾合した赫連定はオルドスの失地を一時的に回復するも、430年、北魏は平涼を制圧し、赫連定は吐谷渾に捕縛された。

436
北燕の馮弘が高句麗へ亡命する(北燕の滅亡)
439
姑臧を占拠する(北涼の滅亡)

一般にこれをもって五胡十六国時代の終わりとする。

漢化政策

450
崔浩が誅殺される
452
拓跋燾(太武帝)が宗愛によって殺害される
465
拓跋濬(文成帝)が崩ずる
471
拓跋弘(献文帝)が崩ずる
493
洛陽へ遷都する
499
元宏(孝文帝)が崩ずる
515
元恪(宣武帝)が崩ずる

六鎮の乱

523
六鎮の乱が起こる

沃野鎮の破六韓抜陵 はろくかんばつりょう は、人々を糾合して反乱を起こし、鎮将を殺害して真王の元号を立てた。 さらに部将を派遣して、武川鎮と懐朔鎮を包囲させ、高平鎮の胡琛など呼応するものが多数現れた。 これが六鎮の乱(あるいは北鎮の乱)の始まりである。

反乱軍は臨淮王・元彧や安北将軍・李叔仁を撃破したため、乱は諸鎮へと波及し大規模化した。 しかし、使持節、開府北討大都督として李崇が北伐を行うと、柔然が北魏を救援したこともあって、反乱軍の勢力は縮退した。 破六韓抜陵は広陽王・元淵に敗れて消息を断つが、鮮于修礼、杜洛周、葛栄、胡琛、万俟醜奴らが断続して反乱を主導した。

六鎮とは、懐朔鎮、武川鎮、撫冥鎮、柔玄鎮、沃野鎮、懐荒鎮の6つの鎮(駐屯地)を指す。 鎮の目的は、北方の遊牧民族である柔然への抑えにあった。 鎮は国境付近に配備された州規模の行政単位で、より軍政が主体となっていると捉えることができる。 鎮は国防の要であったため、鎮の住民(鎮民)は特別待遇を受け、当初その身分は名実ともに高いものであった。 ところが、北魏の華北統一が成り国防の事情も変容すると、北魏内部でも漢化政策が進んだために、鎮の存在は形骸化して実を失っていった。 当初、国境付近で警備に当たる代わりに、望族と呼ばれる名実を得ていた鎮民は、のちに府戸と呼ばれる出世の見込みがない身分へと没落した。 このような鎮民の不満が六鎮の乱の背景にはあった。

河陰の変

528
元詡(孝明帝)が崩ずる

六鎮の乱は523年の破六韓抜陵の挙兵に始まり、528年の葛栄の滅亡により下火に入り、530年には完全に終息することとなるが、この反乱を通して最大の立身を成したのが爾朱栄であった。

六鎮の乱から遡ること515年、元詡は僅か五歳で即位した。 幼年のため、高陽王・元雍や任城王・元澄、胡太后らが摂政して朝廷の実権を握るが、やがて江陽王・元叉や宦官の劉騰らが朝廷を専横するようになり、胡太后は幽閉された。 525年、宦官らの助けを得て胡太后が復権し、元叉政権は終了するが、胡太后の執政は秩序がなく混乱したため、元叉が胡太后を幽閉した理由に正当性が無いとも言えない。 この頃、既に始まっていた六鎮の乱を徒に長期化させた一因は胡太后政権にあった。

この年、元詡は実母・胡太后の失政を改めるべく、晋陽にあって六鎮の乱に対応していた爾朱栄を召還しようとした。 しかし、これを良く思わない胡太后の一派によって元詡は毒殺された。

胡太后は、この後始末として、元詡の唯一の子であった女子を、男子と偽って皇帝に即位させた。 当然のことながら、この偽装はすぐに発覚したため、胡太后は直ぐにこの女子を廃位して、臨洮王・元宝暉の子である元釗を即位させたが、この顛末を知った爾朱栄は胡太后を君側の奸と称して兵を挙げた。 爾朱栄は、長楽王・元子攸と合流して元子攸を即位させ、胡太后と元釗を捕えて処刑した。 胡太后一派の処刑は二千人におよび、胡太后を始めその遺体は黄河へ投棄されたという。 これをもって爾朱栄は北魏の実権を掌握した。 この一連の政変を河陰の変と呼ぶ。

爾朱栄の死と高歓の台頭

530
爾朱栄が暗殺される

爾朱栄は娘の大爾朱氏を元子攸の皇后として外戚の地位すらも得た。 その権勢を恐れ、自身が爾朱栄の傀儡に過ぎないことを悟った元子攸は、温子昇、楊侃、元徽らと図って、皇子の誕生祝いに参内した爾朱栄を殺害した。

531
元子攸(孝荘帝)が殺害される

ところが、爾朱氏一族の対応も迅速だった。 爾朱世隆、爾朱度律、爾朱兆らは長広王・元曄を擁立して洛陽を攻め立てた。 元子攸は彼らが一枚岩ではないことを知って離間しようとするが、対抗し得ず捕縛された。 身柄は晋陽に移され処刑された。

531
高歓が挙兵する

高歓は爾朱栄の股肱であり、爾朱栄亡き後も始めは爾朱兆らに協力的であった。 しかし、一族の連携は希薄で、洛陽に爾朱世隆、大梁に爾朱仲遠、晋陽に爾朱兆、関中に爾朱天光があって、それぞれが放恣な政治を行っていたため世論の支持を失った。 同年、爾朱世隆は元曄を廃位して元恭を立て、保身を図るものの求心力の回復は叶わず、まもなく爾朱氏を見限るように高歓が元朗(後廃帝)を擁立して挙兵した。 高歓は韓陵の戦いで爾朱兆、爾朱天光、爾朱度律らを撃破すると、爾朱氏は没落した。

東西分裂

河陰の変以後、ここに至って在位の短い皇帝が四人擁立された。

  • 元子攸(孝荘帝)
  • 元曄(東海王)
  • 元恭(節閔帝)
  • 元朗(安定王)

このうち、元曄、元恭、元朗は存命だったが、いずれも皇室の嫡流からは遠く、朝廷を掌握した高歓はその権力の帰属先として相応しい血筋を求めて、孝明帝・元詡の従弟である元脩を改めて擁立した。 生き残った三人の廃帝たちは、後難を避けるべく処刑された。

532
元脩が即位する

このとき、斜陽の王朝において皇帝がどのような末路を取るか、既によく知っていた元脩は、平陽王という身分を捨てて農村に隠棲していたという。 元脩は高歓の命により斛斯椿と王思政に探し出され、半ば強制的に皇帝に即位させられた。

534
元脩が出奔し高歓が元善見を擁立する(北魏の滅亡)

元脩にとって実権を握る高歓の存在は脅威以外の何物でもなく、また高歓に属さない北魏の官僚や諸将にとっても高歓の権勢は脅威であった。 ここに、権力を掌握しようとする元脩と高歓の対立と、その対立を上手く利用して保身しようとする勢力の暗闘があった。

賀抜岳や高乾の死を経て元脩と高歓の対立も極まると、元脩は斛斯椿らと共に洛陽から脱出し宇文泰を頼って長安へ移った。 一方、皇帝不在となった洛陽では、高歓が代わりに元善見を擁立した。 ここに、北魏は西魏と東魏に分裂した。 両政権は互いに北魏の正統を主張したが、この時点をもって北魏は滅亡したと解釈される。

北魏帝室系図

  • 拓跋珪

    道武帝

    1

    • 拓跋嗣

      明元帝

      2

      • 拓跋燾

        太武帝

        3

        • 拓跋晃

          【追】景穆帝

          -

          • 拓跋濬

            文成帝

            4

            • 拓跋弘

              献文帝

              5

              • 拓跋宏

                孝文帝

                6

                • 元恪

                  宣武帝

                  7

                  • 元詡

                    孝明帝

                    8

                • 元懐

                  広平文穆王

                  -

                  • 元脩

                    孝武帝

                    13

              • 元羽

                広陵恵王

                -

                • 元恭

                  節閔帝

                  11

              • 元勰

                彭城武宣王

                -

                • 元子攸

                  孝荘帝

                  9

          • 拓跋楨

            南安恵王

            -

            • 元彬

              章武恭王

              -

              • 元融

                章武武荘王

                -

                • 元朗

                  安定王

                  12

            • 元怡

              扶風王

              -

              • 元曄

                東海王

                10

        • 拓跋余

          南安隠王

          -

系図を見るとき、継承順の数字が最短で下に向かって伸びている時代は世情が安定したと言え、逆に、数字が左右へ遠くへ飛ぶときは時代が混乱していると見ることができる。 実際に、北魏でも元詡の時代に六鎮の乱が起こり、元詡自身も胡太后に殺害され、その後の北魏は混乱を極めた。 北魏148年間のうち、141年間が元詡までの治世であった。

諡号 姓名 生年 即位 退位 没年 即位年齢 没年齢 在位期間
1 道武帝 拓跋珪 371 398 409 409 27 38 11
2 明元帝 拓跋嗣 392 409 423 423 17 31 14
3 太武帝 拓跋燾 408 423 452 452 15 44 29
南安隠王 拓跋余1 ? 452 452 452 ? ? 0
4 文成帝 拓跋濬 440 452 465 465 12 25 13
5 献文帝 拓跋弘 454 465 471 476 11 22 6
6 孝文帝 拓跋宏 467 471 499 499 4 32 28
7 宣武帝 元恪 483 499 515 515 16 32 16
8 孝明帝 元詡 510 515 528 528 5 18 13
9 孝荘帝 元子攸 507 528 530 531 21 24 2
10 東海王 元曄 ? 530 531 532 ? ? 1
11 (前廃帝)節閔帝 元恭2 498 531 532 532 33 34 1
12 (後廃帝)安定王 元朗 513 531 532 532 18 19 1
13 孝武帝、出帝 元脩3 510 532 534 535 22 25 2
平均 16.8 28.7 9.8

歴代君主

拓跋珪

371年-409年。北魏の初代皇帝。道武帝。拓跋什翼犍の孫、拓跋寔の子。苻堅の死後自立する。各地を転戦して華北を征服すると北魏を立てて皇帝に即位した。胡漢融合と中央集権を目指した。やがて酒に溺れ精神に異常をきたしたため次男の拓跋紹に殺害された。

拓跋嗣

392年-423年。北魏の第2代皇帝。明元帝。拓跋珪の第1子。父拓跋珪が弟拓跋紹に殺害されると、拓跋紹を討って皇帝に即位した。崔宏、崔浩を重用した。周辺諸国と絶えず係争し北魏による華北統一の道筋を作った。宋との戦役中に陣没した。在位14年。

拓跋燾

408年-452年。字は仏狸。北魏の第3代皇帝。太武帝。拓跋嗣の第1子。父拓跋嗣の死後即位する。夏、北燕、北涼を相次いで滅ぼし華北を統一、五胡十六国時代を終わらせた。宋に対する南征は元嘉の治による宋の最盛期を覆した。宦官の宗愛によって殺害された。在位19年。

拓跋濬

440年-465年。北魏の第4代皇帝。文成帝。拓跋燾の子拓跋晃の第1子。宗愛が拓跋燾、拓跋翰、拓跋余を相次いで弑逆すると、これに対抗した陸麗、劉尼、源賀によって擁立された。内政に力を注ぎ国力の拡充を図った。仏教弾圧を廃止し雲崗石窟を造営した。在位13年。

拓跋弘

454年-476年。北魏の第5代皇帝。献文帝。拓跋濬の第1子。父拓跋濬の死後即位する。即位時は幼少であったため、丞相の乙渾や馮太后が補佐に当たった。親政を行うと馮太后と対立し子の拓跋宏への譲位を余儀なくされる。国内の法治を整備したが、馮太后に毒殺された。在位6年。

拓跋宏

467年-499年。北魏の第6代皇帝。孝文帝。拓跋弘の第1子。父拓跋弘の譲位により即位する。馮太后による垂簾聴政により北魏を最盛に導いた。拓跋から元への改姓、平城から洛陽への遷都、九品官人法の部分導入など、漢化と中央集権化を通して胡漢融合を促進した。在位28年。

元恪

483年-515年。北魏の第7代皇帝。宣武帝。拓跋宏の第2子。兄元恂の廃太子により立太子され、父拓跋宏の死後即位した。外戚の高肇の専横により、一族や高官の粛清が絶えなかった。在世中は梁、柔然への軍事行動が活発化した。熱心な仏教徒であった。在位16年。

元詡

510年-528年。北魏の第8代皇帝。孝明帝。元恪の第2子。父元恪の死後即位するが幼年のため、胡太后の垂簾聴政を受けた。大乗の乱、胡太后の悪政、権臣達の争いの末に六鎮の乱が起こり北魏分裂のきっかけを生んだ。胡太后を幽閉するも後に復権され毒殺された。在位13年。

元子攸

507年-531年。北魏の第9代皇帝。孝荘帝。元勰の第3子、拓跋宏の甥。孝明帝元詡が胡太后に毒殺され皇統が乱れると、これを正さんと挙兵した爾朱栄に擁立され皇帝に即位した。後に権力を掌握する爾朱栄を殺害するが、爾朱兆、爾朱世隆らの反抗を受けて殺害された。在位3年。

元曄

?-532年。北魏の第10代皇帝。東海王。拓跋濬の弟拓跋楨の孫、元怡の子。爾朱栄が元子攸に殺害されると、爾朱世隆らに擁立された。爾朱世隆の傀儡であり、傍系の出身でもあって人望を得られなかったため、即位翌年に廃立された。後に後難を恐れた元脩に殺害された。

元恭

498年-532年。北魏の第11代皇帝。節閔帝、または前廃帝。拓跋宏の弟元羽の子。爾朱世隆らに元曄が廃立されると代わって擁立された。既に北魏の朝廷は混乱を極め、高歓に擁立された元朗、梁に支援された元悦が並び立った。爾朱天光らが高歓に敗れたため高歓によって殺害された。

元朗

513年-532年。北魏の第12代皇帝。安定王、または後廃帝。拓跋濬の甥元彬の孫、元融の第3子。反爾朱氏を掲げて挙兵した高歓に擁立されて即位した。高歓が爾朱氏を滅ぼすと廃位された。安帝王に降格され同年、高歓によって殺害された。

元脩

510年-535年。北魏の第13代皇帝。孝武帝、または出帝。元恪の甥、元懐の第3子。乱れる北魏朝廷を避けて農村に身を隠したが、元朗が高歓に廃されると代わりに擁立された。高歓の傀儡であることを恐れて宇文泰を頼り北魏を分裂させた。後に宇文泰に殺害された。

主な宗族

拓跋晃

428年-451年。拓跋燾の子。聡明であり皇太子でありながら拓跋燾の後見を受けて、実質的に北魏の政治を行った。農業振興に務めるとともに、北魏初期の漢化方針を採った。宗愛と対立して憂憤を強め、24歳で病没した。元法僧を除く後の皇帝はみな拓跋晃の血統である。

拓跋余

?-452年。北魏の南安隠王。拓跋燾の第6子。拓跋燾が宗愛に殺害されると宗愛に擁立されて即位した。宗愛の傀儡であり、まもなく宗愛と対立し宗愛に殺害された。皇帝として認められておらず後継の拓跋濬からは王として葬られた。在位7か月。

元愉

487年(以前)-508年。字は宣徳。京兆王。拓跋宏の子。徐州刺史を務め中書監となる。違法な徴収を行い杖罰を受け、冀州刺史に転出した。弟・元懐との対抗意識が強く、冀州にて反乱を起こし皇帝を称した。李平の討伐を受けると連敗して捕縛された。洛陽へ送還中に野王にて死去。高肇に殺されたとも。子は助命され、後に皇籍に戻された。

元懌

487年-520年。字は宣仁。清河文献王。第6代皇帝・拓跋宏の子。元悦の兄。東魏皇帝・元善見の祖父。外戚の高肇が専権を揮う中、太傅、太尉まで登って北魏の中枢を担った。専横を強める元叉を抑えようとして、逆に誣告され殺害された。

元顥

?-529年。字は子明。北海王。元詳の子。六鎮の乱が起こると、侍中、驃騎大将軍、開府儀同三司、相州刺史など強力な軍権をもって対応した。爾朱栄が政変を起こすと、保身を図って梁へ亡命した。蕭衍に皇帝として擁立され洛陽を攻略するが、爾朱栄の反撃に相次いで敗れ戦死した。

元悦

494年-532年。汝南文宣王。第6代皇帝・拓跋宏の子。兄・元懌が元叉に殺害されると、元叉に阿って高位に上った。爾朱栄によって河陰の変が起こると、難を逃れて梁へ亡命した。梁の後援を得て皇帝に即位し洛陽に入った。爾朱氏が滅びると、洛陽を押さえた高歓によって殺害された。

元法僧

454年-536年。元鍾葵の子。拓跋珪の第3子・拓跋煕の曾孫。益州刺史に任じられるが統治は拙く、徐州刺史に転任した。元叉による粛清を恐れて、彭城にて挙兵し、皇帝を自称した。梁に救援を求め、北魏と戦いつつ梁へ亡命した。梁の武帝・蕭衍によって東魏王に封じられるが、間もなく病没した。

主な人物

長孫嵩

358年-437年。長孫仁の子。代の南部大人。代が前秦に滅ぼされると劉庫仁に従った。拓跋珪が独立すると再び南部大人となり、柔然、後燕、東晋を相手に歴戦して、北魏初期の軍事を支えた。北魏3代に仕えた。病没。武廟六十四将に数えられる。

王憲

378年-466年。字は顕則。北海郡劇県の人。前秦の河東郡太守・王休の子。幼くして父を亡くし伯父の王永に従った。王永が慕容永に殺害されると民間に潜伏した。北魏の勢力が伸長すると拓跋珪に礼遇され、并州刺史、北海公まで昇った。病没。享年89歳と長命。

源賀

407年-479年。禿髪傉檀の子。元の姓名を禿髪破羌という。西秦によって南涼が滅亡すると北涼、次いで北魏に亡命した。北涼攻略では先導を務めて功を立てた。拓跋余が宗愛に殺害されると、禁軍を率いて宮中を制圧し拓跋濬を擁立した。病没。

高肇

?-515年。字は首文。高颺の子。高照容の兄。外戚。渤海郡蓨県の人。元恪の代に尚書令、平原郡公まで昇る。元詳、于皇后、元昌、元愉、元勰の死に関与したほか、多くの諸王を幽閉した。元詡が即位すると、元雍や于忠らによって排除が計画され参朝するところを殺害された。

楊大眼

?-518年。後仇池の王・楊難当の孫。国内の反乱や梁の国境を転戦した。飛ぶように走るなど身体に優れ、その武勇は関羽や張飛に比肩された。豪傑としての逸話は豊富に残る。文盲だったが記憶力に優れた。鍾離の戦いでは兵卒に降格となったが、後に復職した。

葛栄

?-528年。懐朔鎮の鎮将。六鎮の乱に際して定州を拠点に反乱した鮮于修礼に従い、鮮于修礼の死後はその反乱軍を掌握した。柔玄鎮の杜洛周らを併呑して強勢を誇ったが、高歓らの離脱と重なって爾朱栄に敗北し、捕らわれて処刑された。六鎮の乱における組織立った最後の指導者。

爾朱栄

493年-530年。字は天宝。爾朱新興の子。李崇の配下として六鎮の乱以降、頭角を現した。胡太后が元詡を殺害すると、高歓を先鋒として洛陽を攻撃し、胡太后らを処刑した。元子攸を擁立して、娘を娶らせると外戚として専横を強めた。帝位簒奪も目前であったが、元子攸に殺害された。

蕭宝寅

?-530年。字は智亮。斉の第5代皇帝・蕭鸞の子。斉の諸軍事、刺史を歴任したが、兄・蕭宝巻が蕭衍に殺害されると北魏へ亡命した。梁への南征に従軍して武功を積み、晩年は関中を鎮めた。北魏が乱れると皇帝を称して独立したが勢力を維持できず、爾朱天光に捕縛された。旧功のため助命の嘆願もあったが処刑された。

楊逸

500年-531年。字は遵道。弘農郡華陰県の人。楊津の子。河陰の変では爾朱栄に従い、孝荘帝・元子攸を河陽に迎えた。元子攸が爾朱栄を粛清すると活路を一族で協議したが、爾朱仲遠の使者により殺害された。行政に優れてその慧眼を千里眼と畏敬され、成語としての千里眼の語源となった。

賀抜岳

?-534年。字は阿斗泥。賀抜度抜の子。賀抜勝の弟。武川鎮の出身で、爾朱栄の下で転戦して功を立てた。爾朱天光の副将として関中に入ったが、爾朱天光が高歓に敗れたため、高歓に帰順した。元脩と高歓の対立にあって、元脩の信任を得るが、その勢威を恐れた高歓に暗殺された。

斛斯椿

495年-537年。字は法寿。斛斯敦の子。爾朱栄の配下として転戦して爾朱氏から信任を得た。韓陵の戦いでは高歓を討つために戦うが、敗北後は寝返って爾朱彦伯、世隆兄弟を襲撃して殺害した。後に高歓に対して不安を抱き、保身から元脩と高歓の対立を煽った。西魏の重職を歴任して病没。

賀抜勝

?-544年。字は破胡。賀抜度抜の子。初め爾朱栄に従って転戦するが、爾朱氏の内訌が起こると高歓に降った。まもなく高歓と敵対し荊州刺史となるが、北魏の東西分裂に際して東魏側の侯景に攻撃されて梁へ亡命した。その後西魏へ帰還して宇文泰に仕え、北周建国の功臣となった。


  1. 拓跋余は皇帝に数えられない。諡号は隠王。 ↩︎

  2. 元恭の諡号である節閔帝は西魏において追諡されたものである。広陵王とも呼ばれる。 ↩︎

  3. 元脩の諡号である孝武帝は西魏において、出帝は東魏において贈られたものである。 ↩︎

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