北魏

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publish: 2020-07-09, update: 2026-04-09

概要

北魏は拓跋珪によって建てられた王朝です。 その統治期間は、386年から534年の148年間です。 前秦の崩壊期に独立し、分裂していた華北の統一を成しました。 この間に、南朝では、東晋からと王朝が移り変わっています。 胡漢融合の反発から六鎮の乱が起こり、北魏は東西に分裂して終焉を迎えますが、北魏が作った道筋は後の隋を天下統一へ導きました。 北魏と称しますが、正式な国号は「魏」です。

特徴

胡漢融合

華北の歴史は、胡漢(胡族と漢族)の対立から融合への軌跡と言っても過言ではありません。

【加筆中】

子貴母死制度

北魏には、後継者が皇帝に即位したときに、その生母を殺す制度がありました。 正確には、殺すというよりは、自殺を命じる(賜死)のですが、実情に大差はありません。 この制度を子貴母死と呼びます。

賜死のタイミングが厳密に分かりませんが、皇太子が生まれた直後から皇帝即位までの間に行われています。

諡号 皇帝 生母 皇帝の生年 皇帝の即位 生母の没年
1 道武帝 拓跋珪 賀氏 371 398 396
2 明元帝 拓跋嗣 劉氏 392 409 409
3 太武帝 拓跋燾 杜氏 408 423 420
4 文成帝 拓跋濬 閭氏 440 452 452?
5 献文帝 拓跋弘 李氏 454 465 456
6 孝文帝 拓跋宏 李氏 467 471 469
7 宣武帝 元恪 高氏 483 499 496
8 孝明帝 元詡 胡氏 510 515 528
拓跋晃 賀氏 428 428
元恂 林氏 483 483

生母の没年が皇帝即位後になっているのは、子貴母死が廃止された胡氏だけです。 早世した拓跋晃や、廃嫡された元恂にいたっては、出産後まもなく賜死されています。 ただし、死因が子貴母死によるものなのかどうかは、全てにおいて断定できるものではありません。 高氏にいたっては、別の理由で殺害された説もあります。

現代から見ると甚だ残酷な制度ですが、理解できないほど理由がないわけでもありません。 皇后の一族は外戚と呼ばれ、皇帝の一族に次ぐ権力を持っていました。 皇后は皇帝にもっとも近しい存在ですから、皇后の一存が皇帝の意思決定に大きく影響するであろうことを考えれば、その権力の大きさは当然です。

皇后自身が強い権勢欲を持っている場合もあれば、権勢欲の強い一族のコネとして機能する場合もありました。 いずれにせよ、外戚は皇帝の権力を利己的に濫用する傾向がありました。 この傾向は、前漢から後漢にかけて特に顕著に表れた傾向です。 そのため、北魏では、外戚を掣肘する策として、外戚そのものを生み出さない方針を採りました。 その結果が、子貴母死の制度です。

この制度は、第2代皇帝・拓跋嗣のときに始まるものですが、そもそも鮮卑拓跋部の風習であったともいいます。 やがて、北魏が漢化していくにあたり、第7代皇帝・元恪の時代に制度は終わります。 元恪の皇后であり、元詡の母であった胡氏は、子貴母死を免れて、皇太后として摂政を行っています。 しかし、歴史は皮肉なもので、胡太后による摂政は朝廷に混乱を招き、六鎮の乱を長期化させて爾朱栄の台頭を許し、結果として北魏を弱体化させる遠因になりました。

子貴母死は残酷な制度でありながらも、権力構造の実情に則して、北魏の安定に寄与していたと解釈できます。

主な出来事

鮮卑拓跋部の独立

五胡十六国時代に代を建てた鮮卑拓跋部は、拓跋什翼犍の時代、376年に前秦の苻堅によって滅ぼされます。 拓跋什翼犍の孫であった拓跋珪は、母の出身である鮮卑賀蘭部に逃れ、次いで匈奴独孤部に逃れました。 383年、淝水の戦いで前秦が東晋に大敗すると、前秦崩壊の混乱は華北全土に伝わりました。 386年、拓跋珪は賀蘭部の推戴を受けて、魏王を称し内モンゴルにおいて、前秦から独立します。 これをもって、北魏の建国とされます。

387年、拓跋珪は匈奴独孤部の劉顕を破って部族間の内紛を収め、391年には、匈奴鉄弗部の劉衛辰を破って河套(オルドス)地方を傘下に入れます。 さらに北方の高車や柔然にも攻勢をかけ、勢力を拡大しました。 395年には華北平原を支配する後燕と抗争を始め、当初、北魏は劣勢であったものの、参合陂の戦いと後燕の慕容垂の死去によって徐々に形勢が有利になります。 398年には、中原をほぼ手中に収め、同年、盛楽から平城へ遷都して、北魏の皇帝に即位します。

北魏の華北統一

407年、後秦の後ろ盾を得ていた赫連勃勃がオルドス地方を支配して後秦から自立し、夏を建国します。 同年、後燕の残存勢力を母体にして、遼東、遼西に北燕が建ちます。 407年時点で、以下の国が並立していることになります。

  • 東晋(華南)
  • 後秦(関中)
  • 西秦(隴西)
  • 北魏(中原一帯)
  • 南涼(河西回廊南部)
  • 北涼(河西回廊東部)
  • 南燕(山東半島)
  • 西涼(河西回廊西部)
  • 夏(オルドス地方)
  • 北燕(遼西、遼東)

※括弧内は主な支配地域

多くの国が乱立していますが、この中で強勢だったのは北魏と東晋で、残りはいずれも弱小勢力であったと言わざるを得ません。 東晋は417年までに南燕、後秦を滅ぼし、北魏は439年までに夏、北燕、北涼を滅ぼして、華北を統一します。

王朝 建国 滅亡 説明
後秦 384 416 東晋により滅亡
西秦 385 431 夏により滅亡
南涼 397 414 西秦により滅亡
北涼 397 439 北魏により滅亡
南燕 398 410 東晋により滅亡
西涼 400 421 北涼により滅亡
407 431 北魏により滅亡(直接滅ぼしたのは吐谷渾)
北燕 409 436 北魏により滅亡

厳密には仇池が存続しており、北魏が北涼を滅ぼした439年を五胡十六国時代の終わり、北魏が仇池を滅ぼした442年を北魏による華北統一と見なします。 このとき、北魏は既に第3代皇帝・太武帝・拓跋燾の治世でした。

漢化政策

【加筆中】

六鎮の乱

523年、沃野鎮の破六韓抜陵(はろくかん ばつりょう)が、人々を糾合して反乱を起こし、鎮将を殺害して真王元年の元号を立てます。 さらに部将を派遣して、武川鎮と懐朔鎮を包囲させ、高平鎮の胡琛など、呼応するものが多数現れます。 これが六鎮の乱の始まりです。

六鎮とは、懐朔鎮、武川鎮、撫冥鎮、柔玄鎮、沃野鎮、懐荒鎮の6つの鎮(駐屯地)を指します。 鎮設置の目的は、北方の遊牧民族である柔然への抑えにありました。 鎮は国境付近に配備された州規模の行政単位で、より軍政が主体となっていると捉えることができます。 鎮は国防の要であったため、鎮の住民(鎮民)は特別待遇を受け、当初その身分は名実ともに高いものでした。 ところが、北魏の華北統一が成り国防の事情も変容すると、北魏内部でも漢化政策が進んだために、鎮の存在は形骸化して実を失っていきます。 当初、国境付近で警備に当たる代わりに、望族と呼ばれる名実を得ていた鎮民は、のちに府戸と呼ばれる出世の見込みがない身分へと没落するのです。 このような鎮民の不満が六鎮の乱の背景にはありました。

反乱軍は臨淮王・元彧や安北将軍の李叔仁を撃破したため、反乱は諸鎮へと波及し大規模化します。 しかし、使持節・開府北討大都督として李崇が北伐を行うと、柔然が北魏を救援したこともあって、反乱軍の勢力は縮退します。 李崇は配下の横領事件の責任を問われたため、指揮権は広陽王・元淵に引き継がれますが、大勢が変わることは無く、六鎮の乱は530年までに鎮圧されることになります。 この乱により、次代の重要人物である爾朱栄、高歓、賀抜岳らが頭角を現します。

爾朱栄の台頭と河陰の変

六鎮の乱は523年の破六韓抜陵の挙兵に始まり、528年の葛栄の滅亡により下火に入り、530年には完全に終息します。 この間に、北魏において大きく実力を伸ばし、勢力を張ったのが爾朱栄です。

六鎮の乱から遡って515年、時の皇帝・元詡が僅か5歳で即位しました。 そのため、高陽王・元雍や任城王・元澄、胡太后らが摂政して、朝廷の実権を握りますが、やがて江陽王・元叉や宦官の劉騰らが朝廷を専横するようになり、胡太后に至っては幽閉されます。 中山王・元熙や右衛将軍・奚康生などが元叉の粛清を図りますが、いずれも失敗しています。

525年、宦官らの助けを得て胡太后が復権し、元叉の官職を剥奪することに成功します。 ここに、元叉による政権は終了し、翌年には、元叉は自殺を命じられています。 政権を取り戻した胡太后ですが、その政治はもともと優れたものではありませんでした。 彼女の執政は秩序がなく混乱したため、かつて元叉が胡太后を幽閉した理由に正当性が無いとも言えません。 このころ既に六鎮の乱は始まっていたため、六鎮の乱を無暗に拡大させた一因は、胡太后と、胡太后を中心とした政争によるものとも言えます。

元詡は皇帝として長ずるにあたり、実母・胡太后の失政を徐々に把握するようになります。 528年、元詡は胡太后の摂政を牽制せんとして、当時、晋陽にあって六鎮の乱に対応していた爾朱栄を召し寄せようとします。 しかし、これが胡太后に露見し、元詡は胡太后によって毒殺されるのでした。

胡太后は、この後始末として、元詡の唯一の子であった女子を、男子と偽って皇帝に即位させます。 当然のことながら、この偽装はすぐに発覚したため、胡太后は直ぐにこの女子を廃位して、臨洮王・元宝暉の子である元釗を即位させます。 爾朱栄は洛陽へ向かう途中、元詡の訃報と、筋の通らない廃立を聞き、激怒して兵を挙げます。 爾朱栄は、長楽王・元子攸と合流して、元子攸を即位させ、胡太后と元釗を捕えて処刑します。 この政変を、河陰の変と呼びます。

爾朱栄が実権を得た背景には、六鎮の乱による国内の混乱と、胡太后を中心とした政争による権力的空白がありました。 爾朱栄は時流に乗って、この空白を上手に埋めたと言えます。 河陰の変により、朝廷内での爾朱栄の実権はほぼ定まりました。 さらに、爾朱栄は自らの娘を元子攸に嫁がせて、外戚の地位も得ます。

爾朱氏の滅亡

爾朱栄の天下は長くは続きませんでした。 爾朱栄は専横を強め、さらに帝位簒奪の機会も窺っていたため、元子攸を中心に暗殺が計画されたからです。 そして、爾朱栄暗殺の計画は、爾朱栄が参内した折に実行され、爾朱栄の一派は粛清されることになります。

しかし、残された爾朱氏一族の対応も迅速でした。 530年、爾朱栄が暗殺されると、爾朱世隆、爾朱度律、爾朱兆らが長広王・元曄を擁立して洛陽を攻め、元子攸を捕縛してそのまま殺害します。 爾朱一族による専横は続きますが、一族の連携は希薄で、爾朱世隆は洛陽にありながら、爾朱仲遠は大梁に、爾朱兆は晋陽に、爾朱天光は関中にあって、それぞれが放恣な政治を行いました。

  • 爾朱羽健
    • 爾朱郁徳
          • 爾朱天光
      • 爾朱代勤
        • 爾朱新興
          • 爾朱栄
            • 爾朱兆
        • 爾朱買珍
          • 爾朱彦伯
          • 爾朱仲遠
          • 爾朱世隆
          • 爾朱度律

このため、爾朱氏に対する民心は急速に離れます。 531年、爾朱世隆は元曄を廃位して、元恭を立て保身を図りますが、求心力を回復することはできませんでした。 同年、爾朱氏を見かねて挙兵したのが、爾朱栄の股肱ともいえる高歓です。 高歓は挙兵するにあたって、元朗を擁立しました。

高歓は爾朱氏それぞれの独立性が強いことを見てとり、爾朱氏を離間していきます。 532年、韓陵の戦いにおいて、高歓が爾朱兆、爾朱天光、爾朱度律らを破ると、爾朱氏の勢力は一挙に没落します。 爾朱仲遠は梁に亡命しましたが、他はみな捕えらえて処刑されました。

東西分裂

爾朱氏に代わって実権を握った高歓は、擁立した元朗を廃位して、あらたに元脩を擁立します。 爾朱栄の立てた元子攸いらい、北魏の皇帝は実力者たちの傀儡であり、もはや禅譲を受けるためだけの踏み台でしかありませんでした。 斜陽の王朝の皇帝がどのような末路を取るか、既によく知っていた元脩は、平陽王という身分を捨てて農村に隠棲していたところ、斛斯椿と王思政に探し出され、半ば強制的に皇帝に即位させられました。 元脩にとって、実権を握っていた高歓の存在は脅威以外の何物でもなく、また高歓に属さない北魏の官僚や諸将も、同様に高歓の専横を恐れていました。 元脩は漢中の賀抜岳や、荊州の賀抜勝をもって、高歓を牽制しようとしますが、賀抜岳は高歓に暗殺されます。

534年、斛斯椿、王思政、宇文顕和らによって元脩は洛陽から関中に入り、賀抜岳の後を統制していた宇文泰に迎えられます、 一方、皇帝が不在となった洛陽では、高歓が代わりに元善見を立てて皇帝に即位させます。 元脩の魏を「西魏」、元善見の魏を「東魏」と呼び、北魏は東西に分裂します。 同時に、この時点をもって、北魏は滅亡したと解釈されます。

北魏帝室系図

  • 拓跋珪 1
    • 拓跋嗣 2
      • 拓跋燾 3
        • 拓跋晃
          • 拓跋濬 4
            • 拓跋弘 5
              • 拓跋宏 6
                • 元恪 7
                  • 元詡 8
                • 元懐
                  • 元脩 13
              • 元羽
                • 元恭 11
              • 元勰
                • 元子攸 9
          • 拓跋楨
            • 元彬
              • 元融
                • 元朗 12
            • 元怡
              • 元曄 10
        • 拓跋余 (4)
  • ※左側が年長者です。
  • ※数字は皇位の継承順を意味します。
  • ※皇位継承に関係のない筋は省略しています。

系図から見る北魏の特徴は、第8代皇帝・元詡までは非常に綺麗な継承が行われていることです。 系図を見るときに、継承順の数字が、最短で下に向かって伸びているとき、世情は安定したといえます。 逆に、数字が遠くへ飛ぶときは混乱している兆しと見ることができます。 実際に、北魏でも元詡の時代に六鎮の乱が起こり、元詡自身も胡太后に殺害され、その後の北魏は混乱を極めています。 北魏148年間のうち、141年間が元詡までの治世です。

諡号 姓名 生年 即位 退位 没年 即位年齢 没年齢 在位期間
1 道武帝 拓跋珪 371 398 409 409 27 38 11
2 明元帝 拓跋嗣 392 409 423 423 17 31 14
3 太武帝 拓跋燾 408 423 452 452 15 44 29
南安隠王 拓跋余1 ? 452 452 452 ? ? 0
4 文成帝 拓跋濬 440 452 465 465 12 25 13
5 献文帝 拓跋弘 454 465 471 476 11 22 6
6 孝文帝 拓跋宏 467 471 499 499 4 32 28
7 宣武帝 元恪 483 499 515 515 16 32 16
8 孝明帝 元詡 510 515 528 528 5 18 13
9 孝荘帝 元子攸 507 528 530 531 21 24 2
10 東海王 元曄 ? 530 531 532 ? ? 1
11 (前廃帝)節閔帝 元恭2 498 531 532 532 33 34 1
12 (後廃帝)安定王 元朗 513 531 532 532 18 19 1
13 孝武帝、出帝 元脩3 510 532 534 535 22 25 2
平均 16.8 28.7 9.8

歴代君主

拓跋珪

371年-409年。北魏の初代皇帝。道武帝。拓跋什翼犍の孫、拓跋寔の子。苻堅の死後自立する。各地を転戦して華北を征服すると北魏を立てて皇帝に即位した。胡漢融合と中央集権を目指した。やがて酒に溺れ精神に異常をきたしたため次男の拓跋紹に殺害された。

拓跋嗣

392年-423年。北魏の第2代皇帝。明元帝。拓跋珪の第1子。父拓跋珪が弟拓跋紹に殺害されると、拓跋紹を討って皇帝に即位した。崔宏、崔浩を重用した。周辺諸国と絶えず係争し北魏による華北統一の道筋を作った。宋との戦役中に陣没した。在位14年。

拓跋燾

408年-452年。字は仏狸。北魏の第3代皇帝。太武帝。拓跋嗣の第1子。父拓跋嗣の死後即位する。夏、北燕、北涼を相次いで滅ぼし華北を統一、五胡十六国時代を終わらせた。宋に対する南征は元嘉の治による宋の最盛期を覆した。宦官の宗愛によって殺害された。在位19年。

拓跋濬

440年-465年。北魏の第4代皇帝。文成帝。拓跋燾の子拓跋晃の第1子。宗愛が拓跋燾、拓跋翰、拓跋余を相次いで弑逆すると、これに対抗した陸麗、劉尼、源賀によって擁立された。内政に力を注ぎ国力の拡充を図った。仏教弾圧を廃止し雲崗石窟を造営した。在位13年。

拓跋弘

454年-476年。北魏の第5代皇帝。献文帝。拓跋濬の第1子。父拓跋濬の死後即位する。即位時は幼少であったため、丞相の乙渾や馮太后が補佐に当たった。親政を行うと馮太后と対立し子の拓跋宏への譲位を余儀なくされる。国内の法治を整備したが、馮太后に毒殺された。在位6年。

拓跋宏

467年-499年。北魏の第6代皇帝。孝文帝。拓跋弘の第1子。父拓跋弘の譲位により即位する。馮太后による垂簾聴政により北魏を最盛に導いた。拓跋から元への改姓、平城から洛陽への遷都、九品官人法の部分導入など、漢化と中央集権化を通して胡漢融合を促進した。在位28年。

元恪

483年-515年。北魏の第7代皇帝。宣武帝。拓跋宏の第2子。兄元恂の廃太子により立太子され、父拓跋宏の死後即位した。外戚の高肇の専横により、一族や高官の粛清が絶えなかった。在世中は梁、柔然への軍事行動が活発化した。熱心な仏教徒であった。在位16年。

元詡

510年-528年。北魏の第8代皇帝。孝明帝。元恪の第2子。父元恪の死後即位するが幼年のため、胡太后の垂簾聴政を受けた。大乗の乱、胡太后の悪政、権臣達の争いの末に六鎮の乱が起こり北魏分裂のきっかけを生んだ。胡太后を幽閉するも後に復権され毒殺された。在位13年。

元子攸

507年-531年。北魏の第9代皇帝。孝荘帝。元勰の第3子、拓跋宏の甥。孝明帝元詡が胡太后に毒殺され皇統が乱れると、これを正さんと挙兵した爾朱栄に擁立され皇帝に即位した。後に権力を掌握する爾朱栄を殺害するが、爾朱兆、爾朱世隆らの反抗を受けて殺害された。在位3年。

元曄

?-532年。北魏の第10代皇帝。東海王。拓跋濬の弟拓跋楨の孫、元怡の子。爾朱栄が元子攸に殺害されると、爾朱世隆らに擁立された。爾朱世隆の傀儡であり、傍系の出身でもあって人望を得られなかったため、即位翌年に廃立された。後に後難を恐れた元脩に殺害された。

元恭

498年-532年。北魏の第11代皇帝。節閔帝、または前廃帝。拓跋宏の弟元羽の子。爾朱世隆らに元曄が廃立されると代わって擁立された。既に北魏の朝廷は混乱を極め、高歓に擁立された元朗、梁に支援された元悦が並び立った。爾朱天光らが高歓に敗れたため高歓によって殺害された。

元朗

513年-532年。北魏の第12代皇帝。安定王、または後廃帝。拓跋濬の甥元彬の孫、元融の第3子。反爾朱氏を掲げて挙兵した高歓に擁立されて即位した。高歓が爾朱氏を滅ぼすと廃位された。安帝王に降格され同年、高歓によって殺害された。

元脩

510年-535年。北魏の第13代皇帝。孝武帝、または出帝。元恪の甥、元懐の第3子。乱れる北魏朝廷を避けて農村に身を隠したが、元朗が高歓に廃されると代わりに擁立された。高歓の傀儡であることを恐れて宇文泰を頼り北魏を分裂させた。後に宇文泰に殺害された。

主な宗族

拓跋晃

428年-451年。拓跋燾の子。聡明であり皇太子でありながら拓跋燾の後見を受けて、実質的に北魏の政治を行った。農業振興に務めるとともに、北魏初期の漢化方針を採った。宗愛と対立して憂憤を強め、24歳で病没した。元法僧を除く後の皇帝はみな拓跋晃の血統である。

拓跋余

?-452年。北魏の南安隠王。拓跋燾の第6子。拓跋燾が宗愛に殺害されると宗愛に擁立されて即位した。宗愛の傀儡であり、まもなく宗愛と対立し宗愛に殺害された。皇帝として認められておらず後継の拓跋濬からは王として葬られた。在位7か月。

元愉

487年(以前)-508年。字は宣徳。京兆王。拓跋宏の子。徐州刺史を務め中書監となる。違法な徴収を行い杖罰を受け、冀州刺史に転出した。弟・元懐との対抗意識が強く、冀州にて反乱を起こし皇帝を称した。李平の討伐を受けると連敗して捕縛された。洛陽へ送還中に野王にて死去。高肇に殺されたとも。子は助命され、後に皇籍に戻された。

元懌

487年-520年。字は宣仁。清河文献王。第6代皇帝・拓跋宏の子。元悦の兄。東魏皇帝・元善見の祖父。外戚の高肇が専権を揮う中、太傅、太尉まで登って北魏の中枢を担った。専横を強める元叉を抑えようとして、逆に誣告され殺害された。

元顥

?-529年。字は子明。北海王。元詳の子。六鎮の乱が起こると、侍中、驃騎大将軍、開府儀同三司、相州刺史など強力な軍権をもって対応した。爾朱栄が政変を起こすと、保身を図って梁へ亡命した。蕭衍に皇帝として擁立され洛陽を攻略するが、爾朱栄の反撃に相次いで敗れ戦死した。

元悦

494年-532年。汝南文宣王。第6代皇帝・拓跋宏の子。兄・元懌が元叉に殺害されると、元叉に阿って高位に上った。爾朱栄によって河陰の変が起こると、難を逃れて梁へ亡命した。梁の後援を得て皇帝に即位し洛陽に入った。爾朱氏が滅びると、洛陽を押さえた高歓によって殺害された。

元法僧

454年-536年。元鍾葵の子。拓跋珪の第3子・拓跋煕の曾孫。益州刺史に任じられるが統治は拙く、徐州刺史に転任した。元叉による粛清を恐れて、彭城にて挙兵し、皇帝を自称した。梁に救援を求め、北魏と戦いつつ梁へ亡命した。梁の武帝・蕭衍によって東魏王に封じられるが、間もなく病没した。

主な人物

長孫嵩

358年-437年。長孫仁の子。代の南部大人。代が前秦に滅ぼされると劉庫仁に従った。拓跋珪が独立すると再び南部大人となり、柔然、後燕、東晋を相手に歴戦して、北魏初期の軍事を支えた。北魏3代に仕えた。病没。武廟六十四将に数えられる。

王憲

378年-466年。字は顕則。北海郡劇県の人。前秦の河東郡太守・王休の子。幼くして父を亡くし伯父の王永に従った。王永が慕容永に殺害されると民間に潜伏した。北魏の勢力が伸長すると拓跋珪に礼遇され、并州刺史、北海公まで昇った。病没。享年89歳と長命。

源賀

407年-479年。禿髪傉檀の子。元の姓名を禿髪破羌という。西秦によって南涼が滅亡すると北涼、次いで北魏に亡命した。北涼攻略では先導を務めて功を立てた。拓跋余が宗愛に殺害されると、禁軍を率いて宮中を制圧し拓跋濬を擁立した。病没。

高肇

?-515年。字は首文。高颺の子。高照容の兄。外戚。渤海郡蓨県の人。元恪の代に尚書令、平原郡公まで昇る。元詳、于皇后、元昌、元愉、元勰の死に関与したほか、多くの諸王を幽閉した。元詡が即位すると、元雍や于忠らによって排除が計画され参朝するところを殺害された。

楊大眼

?-518年。後仇池の王・楊難当の孫。国内の反乱や梁の国境を転戦した。飛ぶように走るなど身体に優れ、その武勇は関羽や張飛に比肩された。豪傑としての逸話は豊富に残る。文盲だったが記憶力に優れた。鍾離の戦いでは兵卒に降格となったが、後に復職した。

葛栄

?-528年。懐朔鎮の鎮将。六鎮の乱に際して定州を拠点に反乱した鮮于修礼に従い、鮮于修礼の死後はその反乱軍を掌握した。柔玄鎮の杜洛周らを併呑して強勢を誇ったが、高歓らの離脱と重なって爾朱栄に敗北し、捕らわれて処刑された。六鎮の乱における組織立った最後の指導者。

爾朱栄

493年-530年。字は天宝。爾朱新興の子。李崇の配下として六鎮の乱以降、頭角を現した。胡太后が元詡を殺害すると、高歓を先鋒として洛陽を攻撃し、胡太后らを処刑した。元子攸を擁立して、娘を娶らせると外戚として専横を強めた。帝位簒奪も目前であったが、元子攸に殺害された。

蕭宝寅

?-530年。字は智亮。斉の第5代皇帝・蕭鸞の子。斉の諸軍事、刺史を歴任したが、兄・蕭宝巻が蕭衍に殺害されると北魏へ亡命した。梁への南征に従軍して武功を積み、晩年は関中を鎮めた。北魏が乱れると皇帝を称して独立したが勢力を維持できず、爾朱天光に捕縛された。旧功のため助命の嘆願もあったが処刑された。

楊逸

500年-531年。字は遵道。弘農郡華陰県の人。楊津の子。河陰の変では爾朱栄に従い、孝荘帝・元子攸を河陽に迎えた。元子攸が爾朱栄を粛清すると活路を一族で協議したが、爾朱仲遠の使者により殺害された。行政に優れてその慧眼を千里眼と畏敬され、成語としての千里眼の語源となった。

賀抜岳

?-534年。字は阿斗泥。賀抜度抜の子。賀抜勝の弟。武川鎮の出身で、爾朱栄の下で転戦して功を立てた。爾朱天光の副将として関中に入ったが、爾朱天光が高歓に敗れたため、高歓に帰順した。元脩と高歓の対立にあって、元脩の信任を得るが、その勢威を恐れた高歓に暗殺された。

斛斯椿

495年-537年。字は法寿。斛斯敦の子。爾朱栄の配下として転戦して爾朱氏から信任を得た。韓陵の戦いでは高歓を討つために戦うが、敗北後は寝返って爾朱彦伯、世隆兄弟を襲撃して殺害した。後に高歓に対して不安を抱き、保身から元脩と高歓の対立を煽った。西魏の重職を歴任して病没。

賀抜勝

?-544年。字は破胡。賀抜度抜の子。初め爾朱栄に従って転戦するが、爾朱氏の内訌が起こると高歓に降った。まもなく高歓と敵対し荊州刺史となるが、北魏の東西分裂に際して東魏側の侯景に攻撃されて梁へ亡命した。その後西魏へ帰還して宇文泰に仕え、北周建国の功臣となった。


  1. 拓跋余は皇帝に数えられない。諡号は隠王。 ↩︎

  2. 元恭の諡号である節閔帝は西魏において追諡されたものである。広陵王とも呼ばれる。 ↩︎

  3. 元脩の諡号である孝武帝は西魏において、出帝は東魏において贈られたものである。 ↩︎

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