前燕

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publish: 2020-12-31, update: 2026-04-11

概要

名称 成立 滅亡 期間
前燕 337 370 33

前燕は鮮卑慕容部の慕容皝が建てた王朝。 正式には大燕と称する。 当初は、東晋の遼東公や燕王という従属した立場であるため、厳密には慕容儁が皇帝に即位した352年を成立年と見る場合もある。 ただし、独立勢力としての基盤を明確に築いたのは慕容廆の代であり、前燕の独立には緩やかなグラデーションがある。 最大で洛陽以東の淮北を領し、前秦と中原統一を争った。

年表

鮮卑慕容部

魏が成立したころ、東北部に居住していた鮮卑諸族の有力大人の一人に莫護跋なるものがいた。 莫護跋はやがて魏との関係を強め、魏の領域である遼西に入居し、公孫淵の討伐で司馬懿に協力するなどを経て、魏における地位を確立していった。 これが、鮮卑慕容部の始まりとされる。 莫護跋は慕容部の始祖とされるが、彼や彼の子孫が慕容を称した由来は諸説あり定まらない。

その後、慕容木延、慕容渉帰と代を重ねるにつれ、魏、次いで西晋への功績も高まり、そのために、鮮卑慕容部は鮮卑の中でも宇文部や拓跋部、段部に比べて優位な立場になっていった。 とは言え、西晋に対して従属を拒んで討伐を受けるなどしているため、常に中華王朝に対する利害関係者としての立ち位置を保持した。

独立

307
慕容廆が鮮卑大単于を自称する

この頃、西晋は八王の乱を経て威光を失いつつあり、蜀では李雄が成漢を、山西では劉淵が前趙(この頃は漢)を立て、すでに西晋の令は東北辺境へは届かなくなっていた。 単于とは元々は匈奴で使われた君主の称号であり、鮮卑にとっては中華王朝から授けられる称号に過ぎなかったが、慕容廆はこれを自称することによって周辺の地域や諸族に対する統御を図った。 これにより、軍事的な衝突や外交的な修好を経て、諸族は鮮卑慕容部としてまとまっていく。

法令の整備と人材の登用といった行政の仕組みを整える動きは、周辺の対抗勢力と比べて際立っており、これは前燕としての優位性と創業の基盤となった。 一方で後に東晋が成立したときには従属するように、自身の統治の正統性については並々ならぬ慎重さがあった。 慕容廆の爵位は遼東公に留まり、ついに燕王には封じられなかった。

337
慕容皝が燕王を自称する

中原進出

352
慕容儁が皇帝を自称する

349年に後趙の石虎が死ぬと、後継者争いを経て中原は混乱に陥り、これが前燕の中原進出のきっかけとなった。 後趙は冉閔の反乱と独立もあって、前燕の攻勢には為す術がなく、後趙の残存勢力は各々が自活の道を歩んで帰順なり独立なりしたが、山東の諸勢力は前燕へ吸収されていった。 このとき、最も有力な後趙の残存勢力として山西以西に領土を拡大したのが後の前秦である。

慕容儁はこの年までに鄴を攻略すると、ついに東晋に対する従属を捨て、皇帝を称した。

衰亡

367
慕容恪が没する

360年に崩じた慕容儁は享年41歳という早世であった。 次帝・慕容暐は10歳の年少であったが、慕容儁の中原進出を支えた一族は優れたものが多く、特に慕容儁の弟である慕容恪は、病床の慕容儁から後事を託された賢人であった。 慕容恪を中心に前燕は東晋の洛陽を制圧して最盛期を築く。

しかし、慕容恪が病に倒れると前燕は急速に綻びはじめる。 前燕の衰えは東晋の桓温や前秦の苻堅や王猛らにいち早く察知され、前燕は防戦を強いられる。 さらに、国防を担った慕容垂はその声望を妬んだ慕容評によって前秦へ亡命せざるを得ない事態となり、慕容恪と慕容垂を失った前燕の統制は破綻したも同然であった。

370
前燕の滅亡

前秦の攻勢に対して慕容評は対抗するものの、首都である鄴の陥落をもって前燕は滅亡した。 慕容恪が没してわずか三年の出来事であった。 苻堅の方針により、慕容暐や慕容評を始めとする皇族は助命され、彼らが後に前秦崩壊後の後燕、西燕、南燕、北燕を形作った。

系譜

  • 莫護跋

    -

    • 慕容木延

      -

      • 慕容渉帰

        -

        • 慕容吐谷渾

          -

        • 慕容廆

          -

          • 慕容皝

            文明帝

            1

            • 慕容儁

              景昭帝

              2

              • 慕容暐

                幽帝

                3

  • 左側が年長者
  • 数字は皇位の継承順
  • 継承に関係のない筋は省略

歴代君主

慕容皝

297年-348年。字は元真。前燕の初代王。文明帝。慕容廆の三男。父慕容廆の死後、弟慕容仁と覇権を争うが、これを収めて遼東公となる。燕王を称し東晋に追認される。同じ鮮卑の段、宇文を滅ぼし、高句麗、後趙へ外征した。落馬の重症が元で病没。在位15年。

慕容儁

319年-360年。字は宣英。前燕の第2代王。景昭帝。慕容皝の次男。父の死後王位を継ぐ。石虎の死後混乱する後趙へ出兵し幽州・冀州を制圧する。冉魏を滅ぼして河北を掌握すると皇帝に即位した。河南への進出を企図するなか病没した。在位11年。

慕容暐

350年-384年。字は景茂。前燕の第3代君主。幽帝。慕容儁の三男。河南へ進出し東晋領の洛陽を得るも慕容恪の死後は国威が低下する。洛陽の領有問題を起点に前秦と敵対し大敗のすえ鄴は陥落、降伏した。在位11年。淝水の戦い以後没落する苻堅の暗殺を試みるが失敗し殺害された。

主な宗族

慕容評

生没年不詳。慕容廆の子。軍を率いては功を重ね、慕容恪とともに朝政を管掌した。しかし統治には暗く、慕容垂を政敵として離反させ、慕容恪の死後は政治が腐敗した。前秦の攻撃を受けて高句麗へ亡命したが捕縛、送還された。苻堅によって范陽郡太守に任じられ、任地にて没した。

慕容運

生没年不詳。慕容渉帰の子。慕容吐谷渾、慕容廆の弟。事跡に乏しいが子孫は興隆して、孫の慕容永は西燕最後の皇帝となったほか、同じく孫の慕容精、曾孫の慕容勝は姓を豆盧(とうろ)に変えて北魏から隋唐時代にかけて繁栄した。

慕容木延

生没年不詳。魏晋時代の鮮卑慕容部の大人。莫護跋の子。慕容廆の祖父にあたる。左賢王の地位にあり、毌丘倹の高句麗討伐に協力して功を立てた。

莫護跋

生没年不詳。三国時代の鮮卑の大人。慕容部の始祖。慕容廆の曾祖父にあたる。司馬懿が遼東で自立する公孫淵を討伐したおり、協力して率義王に封じられた。以後、遼西に居住し勢力を築いた。

慕容渉帰

?-283年。鮮卑慕容部の大人。慕容木延の子。慕容廆の父にあたる。西晋への一貫した従属関係に変化をもたらし、遼東へ移住して西晋に離反した。

慕容吐谷渾

246年-317年。鮮卑慕容部の人。慕容渉帰の子。慕容廆の兄。庶長子であったため嫡子とされず、部族を分け与えられた。嫡子の慕容廆との対立を避け西へ移住した。部族は陰山、枹罕に至り、後に子孫は西零、甘松に移って吐谷渾を国名とする独立勢力を築いた。

慕容廆

269年-333年。慕容渉帰の子。慕容吐谷渾の弟。前燕の基盤を築いた。元来西晋に帰属していたが国勢を年々弱める西晋に変わって遼西・遼東の統治体制を確立させた。引き続き東晋に臣従し遼東公に封じられた。病没。鮮卑慕容部の大人としての在位は49年。

慕容翰

?-344年。字は元邕。慕容廆の庶長子。父の寵愛を受け、大任をこなす才略を持ち徳望を集めた。庶子という立場から慕容皝に疎まれて、段部や宇文部に亡命した。後に慕容皝に迎えられて帰国し厚遇されたが、病床に伏せるようになると讒言を信じた慕容皝に賜死を受けた。

慕容恪

?-367年。字は元恭。慕容皝の第4子。後趙、宇文部、高句麗を相手に多くの戦線に従軍した。後趙滅亡を機に中原へ進出し版図を広げた。治政にも優れ前燕の最盛期を築いた。病没。当代随一の宰相、将軍として歴史に残る。武廟六十四将に数えられる。

主な人物

裴嶷

生没年不詳。字は文冀。河東郡聞喜県の人。西晋で中書侍郎となり昌黎郡太守として遼東に赴任した。兄の死後、中央に召還されて遼西を通過したとき、慕容廆に礼遇されて以後、慕容廆に仕えた。慕容廆からは天が君を下賜したと言わしめて絶大な信任を得た。手腕は謀略、政治の広範におよび、前燕の基盤確立に貢献した。

慕輿虔

生没年不詳。前燕の中軍将軍。零陵公。慕容恪が東晋領の洛陽を攻略したとき、降将であった沈勁を助命しようとした慕容恪を諫めた。その他の事跡は不明。

傅顔

生没年不詳。前燕の長楽郡太守。李黒の反乱の鎮圧、東晋の諸葛攸による侵攻の迎撃、慕輿根の誅殺、呂護の討伐などに関わった。前燕が衰退すると桓温の北伐を受け、その一軍を率いた朱序に敗れた。その後の事跡は不明。

皇甫真

生没年不詳。字は楚季。安定郡朝那県の人。慕容廆に招かれて出仕した。慕容皝の不興を買って一時は免官となるが、後に復職し文武両道を示した。増長する慕輿根を痛烈に批判し慕容恪へ誅殺を促した。司空、太尉などの高位を歴任したが凋落の大勢は変えられなかった。前燕滅亡後は前秦の奉車都尉に任じられた。病没。

可足渾氏

生没年不詳。慕容儁の皇后。景昭皇后。慕容暐、慕容沖の母。猜疑心や妬心が強く、慕容垂の妻である段氏を死に至らしめたため、慕容垂とは徹底的に仲違いした。権力掌握を目指した慕輿根に利用されたり、慕容垂の誅殺を企むなど、前燕滅亡の遠因となった。

李績

生没年不詳。字は伯陽。范陽郡の人。李産の子。後趙の范陽郡功曹を務めた。後趙が混乱すると自立した王午に従い主簿となった。父・李産は既に前燕に降伏しており、節義を重んじた王午によって郷里に返され慕容儁に仕えた。昇進を重ねたが、慕容暐の不興を買って章武郡太守に左遷された。

李洪

生没年不詳。渤海郡蓨県の人。李臻の孫。永嘉の乱では潁川郡定陵県に移住し舞陽にて塢壁を築いた。王浚によって雍州刺史に任じられるが、後に慕容皝に帰順した。昇進を重ねて司空まで昇る。前燕滅亡時に長安に送られ駙馬都尉に任じられた。やがて没した。

李邽

生没年不詳。遼西郡の人。もともと冉魏の趙郡太守を務めたが、前燕の南進が至ると降伏した。慕容恪に取り立てられ、後に豫州刺史を拝受した。前燕の斜陽が深まるなか東晋の桓温の糧道を断った。前燕滅亡後は前秦の尚書となるが、以後の事跡は定かではない。

鮮于亮

生没年不詳。范陽郡の人。はじめ石虎に仕えたが後趙が段部を攻撃したとき、前燕の奇襲を受けて捕縛された。堂々とした態度が認められそのまま慕容皝に取り立てられた。前燕の高句麗討伐や中原進出では先鋒をになった。章武郡太守、斉郡太守を歴任した。

陽裕

生没年不詳。字は士倫。陽耽の甥。幼少に父を亡くし早くから自立した。幽州刺史和演の主簿となったが、王浚が和演を殺害して実権を握ると疎まれた。その後、段部、後趙と仕官先を変えながらも名声は高まり、後趙の段遼攻撃中に前燕に捕縛され慕容皝に取り立てられた。慕容皝の代に病没。

高開

?-352年。渤海郡蓨県の人。高瞻の子。父の高瞻は東夷校尉・崔毖に属したが、崔毖が慕容廆に敗れると憂死した。慕容儁の代に仕官し、昌黎郡太守となった。前燕の中原進出に従軍し、慕容恪に献策して不利な前燕軍を立て直した。冉閔との乱戦のなか傷を受け病没した。

王騰

?-356年。青州に割拠した段龕に仕えていたが、前燕の慕容恪の討伐を受けると降伏した。段龕を援けた東晋の徐州刺史・荀羨と戦うものの、荀羨の攻撃によって捕縛され処刑された。

慕輿根

?-360年。鮮卑の人。早くから慕容皝に服属し、将軍として頭角を現した。後趙戦線で活躍し前燕の中原進出に大きく貢献して太師まで昇った。慕容儁の死後は、傲慢で詭弁を弄し反意を抱いたため、慕容恪によって誅殺された。

封奕

?-365年。字は子専。渤海郡蓨県の人。封悛の子。祖父の封釈は西晋の侍中であり、東夷校尉として遼東一帯を管轄した。幼少より慕容廆と面識を深め、早くから前燕の黎明に携わった。国相を務めて官吏の筆頭となり、前燕の中原進出を支えた。慕容儁が皇帝に即位すると太尉に任じられた。病没。

陽騖

?-367年。字は士秋。右北平郡無終県の人。漢人。陽耽の子。慕容廆の代に多く献策し重用された。遼東郡太守、左長史、司隷校尉を歴任した。輔義将軍として三輔と称され中原進出の中核を担った。尚書令、司空などの顕職を歴任し誤りが無かった。病没。

悦綰

?-368年。鮮卑の人。慕容皝に服属した大人の一人。後趙の遠征を退けるなど一軍を率いて活躍した。并州刺史、尚書左僕射を歴任した。慕容評が悪政を行うと、上奏して多くの不正を摘発した。前秦の侵攻を前に病没するが、慕容評による暗殺の風聞も流れた。

黄泓

284年?-381年?。字は始長。魏郡斥丘県の人。黄沈の子。永嘉の乱が起こると薊へ避難し、王浚を昏暴と評し慕容廆に仕えた。天文学に通じ、学者として史官や太史令を務めた。その学識から歴代の謀主や参軍などの相談役、軍師職を兼任した。前燕滅亡時まで健在だったが老齢のため前秦には仕えなかった。享年97という。

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