西晋
publish: 2020-08-16, update: 2021-11-08,
章節
目次
概要
西晋は、司馬炎が魏の曹奐から禅譲を受けて成立した王朝です。 その統治期間は265年から316年の51年間です。 280年には、呉を滅ぼして、後漢以来の天下統一を、およそ100年ぶりに成し遂げました。 天下統一前の前半期と、天下統一後の後半期で、世情が大きく変化するのが特徴です。 後半期には外戚の専横が蔓延り、宗族の諸王が政争を繰り返したため、国力は急速に弱体化しました。
中華圏全域の統一期間は、呉の滅亡(280年)から西晋の滅亡(316年)までのわずか26年間です。 その後、中華全土は動乱の時代へ戻り、その期間は、隋が天下統一を成す(589年)までの、約300年間に渡ります。 このおよそ300年間に及ぶ動乱期を、五胡十六国時代、および南北朝時代と呼びます。
正式な国号は「晋」ですが、後に司馬睿が建てた「晋」と区別して「西晋」と呼称します。
特徴
強力な宗室
司馬炎は、宗族を諸王に封じて、兵権を含む強力な権限を付与しました。 この背景には、前王朝の魏がとった方針が考慮されています。 魏では、曹操の死後、曹丕とその弟たちを巡って後継問題が起きたことから、以後、魏の宗族たちは強い監視下に置かれ、任官などに制限が設けられました。 このため、魏の第3代皇帝・曹芳の頃には、宗室の内紛は抑えられたものの、一方で朝廷を主導するような有力な宗族はおらず、皇帝の権力は孤立化し、結果として弱体化しました。
魏の宗族の弱体化をきっかけに成立した司馬氏の西晋では、魏の轍を考慮して、宗族に対する任官の制限を解き、多くを王に封じました。司馬炎の即位時には司馬氏から27人が郡王に封じられています。
司馬炎の意図は、宗室を盛り立てようとするものであり、それだけ宗族の団結を信頼したものでした。 しかし、諸王はのちに八王の乱と呼ばれる権力闘争を始めます。 強力な宗室は、その総領である皇帝の強い統制があって、制御できるものでした。 残念なことに、第2代皇帝・司馬衷は即位前から皇帝の資質を危惧されていた人物であり、分散した諸王の権力を制御できる能力はありませんでした。 八王の乱では文字通り、8人の王が政権を争ったものですが、その構図は、8人の王が群雄割拠して抗争するものではなく、輿望を得た王が代わる代わる政権を奪取していく構図を成しているのが特徴です。
また、司馬衷の暗愚によって空白になりがちな皇帝権力を埋めたのが、楊氏や賈氏という外戚でした。 彼らの専横が、諸王の政争を誘引、助長、扇動したため、八王の乱は長期化しました。 宗族の有力者は、西晋の国力と世論のある限りを使って政争を続け、芋づる式に失脚していったため、強力であった皇帝権力は大いに弱体化し、それだけでなく西晋の国力そのものが大きく低下しました。
主な出来事
禅譲
司馬炎の祖父・司馬懿は、曹操の代から仕えた魏の重臣であり、晩年に至っては軍功において並び立つ者はおらず、高平陵の変によって曹爽一派を粛清し、司馬氏による朝廷掌握を進めました。 司馬懿は251年に病没しますが、その子である、司馬師、司馬昭の兄弟によって、その基盤は強化され、寿春三叛と呼ばれる反乱の鎮圧や、皇帝・曹髦の弑逆を経て、司馬氏に対する潜在的な敵対勢力は消失します。 極めつけは蜀の討伐であり、蜀を滅亡せしめた大功によって、司馬昭は晋王に封じられます。 司馬昭自身は、間もなく病没して皇帝にこそ即位しませんでしたが、その権力は子の司馬炎に引き継がれ、禅譲への布石は現実化していきました。 司馬昭から司馬炎への権力の推移は、まさに自ら皇帝にならなかった曹操を倣うものでした。
265年、このような背景のもと、司馬炎が曹奐から禅譲を受けたことによって、西晋は成立しました。 なお、曹氏一族は、西晋においては比較的優遇されました。 曹奐は陳留王に封じられて、南朝の斉の時代まで、陳留王としての曹氏の記録が残っています。 また、司馬炎は早々に、曹氏の任官禁止を解いています。 後の、五胡十六国時代と比較すれば、亡国の一族としては破格の待遇とも言えます。
三国時代の終焉
279年から280年にかけて、西晋は大軍を江南へ派遣して、三国の最後である呉を滅ぼします。 この大軍は、司馬伷、王戎、胡奮、賈充、杜預、王濬、王渾らに率いられて、6方面から攻め入ったものでした。
この頃、呉では第4代皇帝・孫皓の暴政により国力が大きく低下しており、令名の高い陸抗も既に亡く、人材に乏しかったため、呉軍は各地で西晋軍に撃破されました。 また既に、西晋は蜀を併呑して長江の上流を抑えており、呉は本来、防衛の要として機能すべき長江の水利も失っていました。 建業に迫る西晋軍を前にして、呉軍の将兵たちは逃亡するありさまで、為す術のなくなった孫皓は降伏しました。
これをもって、後漢末期の黄巾の乱を発端にした、群雄割拠の時代、三国時代は終わり、およそ100年ぶりに中華圏は西晋によって統一されました。
八王の乱
290年、司馬炎が病没しました。 これにより、朝廷内で実権を握ったのが、外戚として権勢を強めていた楊駿ら楊氏一族です。 司馬炎は、病を得ると、後事を司馬亮と楊駿に任せるよう遺詔を残しましたが、司馬炎の皇后であった楊芷は、遺詔を書き換えて、司馬亮の名を消したため、楊駿による専横は深刻になりました。 楊駿は実績に拠って昇進したわけではなく、外戚という立場に拠って権力を得たため、朝廷を専断しては失政を繰り返し、人望を失う結果となりました。 楊駿の弟である楊珧、楊済は、兄とは違って実力で昇進したため、楊駿を度々諫めましたが、楊駿には肉親の諫言を聞く耳はありませんでした。
楊駿の専横を殊のほか苦々しく観察していたのが、第2代皇帝・恵帝・司馬衷の皇后である賈南風でした。この皇后派と皇太后派という外戚同士の対立は、後漢でも頻発した構図と相似したものです。賈南風は、都督荊州諸軍事・楚王・司馬瑋の協力を得ると、宦官を遣わせて謀略を起こし、楊駿を謀叛の罪で免職する勅令を皇帝・司馬衷から引き出しました。楊駿は逃亡を図りましたが殺され、皇太后の楊芷は庶人に落されて監禁されたのち殺されました。
楊駿の一党が朝廷から悉く粛清されると、政治を主管したのが汝南王・司馬亮と太保・衛瓘でした。これに不満を持ったのが、また賈南風です。賈南風は私怨により政敵を排斥してきましたが、それでも、なお賈氏の権限が抑制されていることに不安を覚え、司馬亮と衛瓘を除くことを密かに計画します。賈南風は、皇帝・司馬衷に対して、司馬亮、衛瓘の謀叛の企てを誣告し、司馬衷の勅令をもって司馬瑋を動かしました。司馬瑋は勅令により軍を動員して、司馬亮と衛瓘の逮捕に動きます。これにより、司馬亮と衛瓘は処刑されました。さらに、司馬瑋の存在に危機感を覚えた賈南風は、司馬瑋を誅殺すべしとする張華の進言を入れて、張華を司馬衷の下に派遣し、司馬瑋が独断で司馬亮、衛瓘を殺害したのだと誣告させました。司馬瑋は、司馬亮、衛瓘討伐の勅令を盾にして冤罪を訴えましたが、捕えられて処刑されました。これらの政変は、司馬炎の死後、僅か1年余りの間に起きたことでした。
しばらく、賈氏の時代が続きます。この背景には、賈氏政権を支えた張華の存在があります。 張華は優れた能力を持つ賢臣であったため、賈南風からも敬意を受ける人物でした。 また、張華は賈氏一族ではなく、重職につけても世間の誹りを受けることがないため、侍中・中書監として、朝政を司るようになりました。 張華は裴頠、賈模、裴楷、王戎とともに、朝廷を安定して運営させることに成功します。 このため、賈氏政権は、その後10年近くに渡って継続することになります。
張華が国政を安定させる一方で、賈南風の逸脱した行為は徐々に激化していきました。 張華は賈南風の信任を得ていましたが、盲目的に賈南風に忠義を立てているわけではなく、常に賈南風の行動に憂慮していました。 賈氏一族の賈模ですら、一族に禍が及ぶことを恐れて、賈南風の廃妃を裴頠、張華らと協議するほどでした。 賈模は、度々、賈南風を諫めましたが聞き入られず、返って遠ざけられたため、ほどなく憂瘁して病没します。 張華も自らの著書である『女史箴』などで、賈南風の淫蕩を暗に風刺しました。 しかし、廃妃のような強硬手段は、楊駿の前例のように、国を大きく揺るがしかねないことから、ついに張華らが自らの政権を自浄することは出来ませんでした。
300年、賈南風は、皇太子・司馬遹を廃立しました。 司馬遹は賈南風の実子ではなく、往年から賈氏と対立していたため、賈南風が司馬遹を除こうとしていることは、この頃すでに周知の事実でした。 当初、賈南風は司馬遹を廃太子だけでなく処刑する計画でしたが、司馬遹への賜死の勅令は、張華らが頑なに反対したため実現しませんでした。 ところが、この頃、賈南風の権威に取り入っていた趙王・司馬倫が、賈南風を唆して司馬遹を謀殺させます。 このきっかけは、司馬遹に仕えていた司馬雅、許超が、廃太子に憤り、賈南風を廃そうとして、司馬倫の協力を仰いだことでした。 しかし、協力を持ちかけた相手を間違ったと言わざるを得ません。 司馬倫は、表向きは賈南風の廃位に同意しましたが、裏では賈南風廃位の計画を漏らし、賈南風に司馬遹を殺害させたうえで、司馬遹殺害の罪で賈南風を除こうと目論んだのです。 権勢欲を持つ司馬倫にとっては、賈南風も司馬遹も邪魔な存在でしかありませんでした。 この非道な謀略を進言したのが、司馬倫の腹心である孫秀でした。 司馬倫は、賈南風が司馬遹を暗殺し、葬儀を終えるのを待つと、司馬肜、司馬冏と共に、賈氏一族の討伐を決行しました。 賈氏一族は処刑され、賈氏政権は幕を閉じました。
張華は、司馬倫や孫秀が必ず簒奪を成すであろうことを予測し、司馬倫から招聘を受けても拒絶しました。 張華、裴頠らの賈氏政権の中枢もまた、捕えられて処刑されました。 張華による政治は、西晋最後の安定と言えるもので、以後、西晋は皇族同士が血で血を洗って、混迷を深めていくことになります。
301年、司馬倫は、朝廷内の権力を掌握すると、司馬衷を上皇に押しやって、帝位を簒奪しました。 ところが、司馬倫の政治は、張華とは違って優れたところがなかったため、瞬く間に人望は失墜していきました。 これを見計らって三王起義と呼ばれる、斉王・司馬冏を筆頭とした、成都王・司馬穎、河間王・司馬顒らの挙兵が起こります。 司馬冏は、司馬倫の賈氏粛清に従った王の一人ですが、その後、司馬倫から危険視されて左遷させられたため、司馬倫に対する不満をもっていました。
初戦こそ、司馬倫は反乱に対して優位に立ちましたが、戦が長引くにつれて、朝廷内では、司馬倫を退位させて司馬冏に謝罪する風潮が現れます。 ついに、左衛将軍・王與らは、軍を宮中に入れて孫秀を殺害し、司馬倫に退位を迫りました。 幽閉された司馬倫は、実兄・司馬肜にすら賜死を上表されるほどで、まもなく毒酒によって自害しました。 司馬倫は、趙庶人という蔑称で扱われ、皇帝即位は僭称とされ、歴代皇帝には数えられません。
司馬冏は大軍を擁して上洛し、朝廷を掌握しました。 しかし、司馬冏もまた悪政を布いて、諫言を聞かなかったため、急速に世論の支持を失いました。 三王起義において司馬顒は、はじめ司馬倫を支持していたため、その後、司馬冏から遠ざけられていました。 司馬顒は、司馬冏政権の低迷を見て取ると、司馬冏の討伐を決心します。 その計画は、まず、長沙王・司馬乂に司馬冏を攻撃させ、司馬乂が敗れて殺されたら、それを口実にして司馬冏を攻めようとするものでした。 司馬乂は司馬冏に不満を持つ一人でしたが、勢力は弱く、一方、司馬冏は大きな軍事力を持っていたため、司馬顒に捨て駒として期待されたのでした。 ところが、司馬顒の期待に反して、司馬乂には旗鼓の才があり、寡兵で洛陽を苛烈に攻撃すること3日におよび、ついに司馬乂は司馬衷を擁して司馬冏を下すことに成功します。
302年、司馬乂によって、司馬冏は処刑されました。 面白くないのは、司馬乂を嗾けた司馬顒と司馬穎です。 司馬乂は朝廷内での実力者となりましたが、これまでの諸王とは違い、朝廷を壟断することは無く、決裁は司馬穎に委ねて、国政の安定を企図しました。 しかし、司馬穎は司馬倫討伐の功に増長し、司馬乂を目の上のたん瘤としか見ていませんでした。 さらに、司馬顒も、司馬乂は捨て駒であったにもかかわらず、意図せず朝廷の第一人者となっていることに不満を持ちました。
303年、かくして司馬穎と司馬顒は、司馬乂を除くために実力行使に出ました。 司馬穎、司馬顒は、司馬乂を弾劾して牽制しますが、意に反して司馬衷が司馬乂を擁護し、司馬穎、司馬顒を逆賊と表現して、司馬乂を都督中外諸軍事に任命しました。 これにより、司馬乂と司馬穎、司馬顒の対立は、決定的となりました。 司馬穎、司馬顒の軍事力は司馬乂に比べて圧倒的に優位でしたが、司馬乂は寡兵でも強兵であり、司馬穎、司馬顒は司馬乂に連敗しました。
304年、司馬乂と司馬穎、司馬顒の対立は、年が明けても結着が付かず、長期化を呈します。 洛陽を攻略中の司馬顒の配下、張方は、洛陽攻略を諦めるほどでしたが、一方で、司馬乂側も局所的には勝利しながらも、勢力の弱さゆえに大勢を覆せない現状に焦りを感じていました。 ここに、司馬乂陣営として限界を感じていたのが、東海王・司馬越でした。 司馬越は司馬乂を捕縛すると、あっさりと張方に降伏します。 さらに、司馬越は、張方の陣営が官軍以上に指揮が低いことに気付くと、司馬乂の復帰を恐れて、司馬乂を張方に速やかに処刑させました。
続いて、政権を握ったのは司馬穎ですが、司馬穎には政権を運営する能力はありませんでした。 司馬穎は、皇太弟、丞相として位を昇り詰めましたが、反比例するように人望は失い続けました。 これに呆れたのが、司馬越で、同年、陳眕らと謀って挙兵します。 司馬穎は司馬越を討って敗退させますが、司馬越は東海へ帰還して反旗を維持しました。 形勢が変わったのは、都督幽州諸軍事・王浚が司馬越に与して、司馬穎の本拠である鄴を攻撃したからです。 司馬穎が洛陽へ逃げ込むと、張方は皇帝・司馬衷と司馬穎を連れて、司馬顒の本拠である長安への遷都を強行します。 この顛末により、司馬顒は司馬穎を丞相から解任して謹慎させ、さらに皇太弟を廃して、あらたな皇太子として司馬熾を立てました。 司馬穎は、その後、司馬穎の残党を収攬したい司馬顒によって復帰させられますが、司馬越との対立は劣勢のままでした。
306年、司馬穎は、司馬顒が司馬越に降伏しようとしていることを知ると、荊州へ向けて逃亡し、その途上で頓丘郡太守・馮嵩によって捕えられました。 司馬穎は鄴へ連行されて司馬虓の下で監禁され、司馬虓の死後、処刑されました。 一方の司馬顒も、敗色が濃厚になると、張方を誅して司馬越への降伏を求めますが、司馬越はこれを許しませんでした。 張方を失った司馬顒の勢力は瓦解し、司馬顒はただ長安を保持するのみとなります。 司馬越は、司馬顒が無力化したことを知って、司馬顒を洛陽へ招聘しますが、その意図を解さなかった司馬模によって、司馬顒は殺されました。
永嘉の乱
306年をもって八王の乱は終結を見ます。 八王の乱は、司馬越が司馬穎、司馬顒を殺害して朝廷を掌握したことにより、終結したと解釈されます。 307年には、司馬衷が病死し、司馬熾が即位しました。 ただし、司馬熾と司馬越は、今までの諸王と変わらず朝廷内で軋轢を起こしており、放っておけば八王の乱はいつまでも続いたことでしょう。 八王の乱は形式的に終了したものではなく、度重なる政治闘争の結果、その闘争の器であった西晋という国家そのものが壊れ、それ以上の政治闘争を行う土台が無くなったことによります。
八王の乱を実質的に終結させたのは、永嘉の乱によるものと認識することができます。 永嘉の乱は、定義に曖昧さを残します。 指し示すものは、永嘉年間(307年から312年)に起きた西晋の騒擾についてですが、特に前趙が西晋を実質的に滅ぼしたことに対する意味を持つようです。 一方で、当時は全国で西晋の威令に従わない独自勢力が割拠していましたから、八王の乱によって西晋全土が乱れていた結果を示すと捉えることもできます。
304年、司馬穎の配下であった劉淵は、司馬越、王浚を相手に劣勢に立った司馬穎を救援する名目で、左国城に入り、同地で匈奴を糾合し、前趙を建てて独立しています。 当初、前趙の勢力は、西晋から見て、続出するひとつの反乱にすぎませんでした。 しかし、これらの反乱に対処することなく、司馬穎、司馬顒、司馬越らは大軍を催して争ったため、司馬越が朝廷を掌握するころには、反乱は反乱として看過できない規模に拡大していました。
八王に数えられる最後の王である東海王・司馬越は、反乱の鎮圧に一定の成果を挙げますが、全体としては衆望を失い、西晋の形勢を大きく変えることはできませんでした。 司馬越には、まず保身が先立ってあり、本来は戮力しなければならない、司馬熾の側近たちを粛清するほどでした。 疑心暗鬼の暗闘であった八王の乱を、くぐり抜けてきた司馬越にとっては、保身こそ第一の優先課題であったとしても、不思議ではありません。
311年、前趙の中でも強勢を誇った石勒の討伐を名目に、司馬越は自ら洛陽を出陣しますが、ほどなく病死しました。 司馬越は、司馬熾の反対を押し切って出鎮したために、ついに、司馬熾と司馬越の対立は決定的となっていました。 司馬熾は司馬越の討伐の勅令を出したために、司馬越は憂憤によって病を得たといいます。 総帥を失い、当初の目的を失った司馬越の軍勢は、やむなく司馬越の封地である東海国へと進みました。 しかし、この混乱を見逃す石勒ではありませんでした。 石勒に強襲された司馬越の軍は、跡形もなく粉砕されて、西晋の主戦力は壊滅することになります。 王衍などの朝臣の多くが捕縛・処刑され、これにより西晋の朝廷は機能をほぼ失いました。 というのも、司馬越は出鎮するにあたって、朝臣を多く引き連れて、いわば出先機関としての幕府を作ったため、皇帝・司馬熾のいる洛陽は、もぬけの殻同然であったからです。 このため、司馬越の与党が、石勒によって壊滅させられたというのは、西晋の朝廷機能が喪失したことと同義です。
司馬越の死後、僅か3か月後には、劉聡によって洛陽は陥落し、西晋は事実上滅亡します。 洛陽に残留していた皇帝を初めとする宗族や朝臣は、ことごとく捕縛され、平陽へと拉致されました。 第3代皇帝・司馬熾は亡国の皇帝としては当初は厚遇を受けましたが、西晋の残党政権が活発に動くと、劉聡からあからさまに疎まれるようになりました。 最後には、奴隷同然の扱いを受け、毒殺されました。
長安の陥落
洛陽の陥落によって司馬熾が拘束された後、継いで即位したのが司馬鄴です(即位するのは司馬熾が殺害された313年)。 司馬鄴は洛陽陥落時に前趙の軍勢を避けて許昌への脱出に成功していました。 その後、与党を集めて、長安へ遷都しています。
司馬鄴を輔翼する勢力として、司馬睿、司馬保、張軌、王浚、劉琨などが健在でしたが、西晋は全体としてずたずたに引き裂かれた状態であり、各勢力は各々の勢力を維持することに手一杯で、互いに連携をとることが難しい状況でした。
316年、長安は陥落しました。 司馬鄴の勢力は、一時は前趙の侵攻を退けていました。 しかし前述の通り、長安政権は国家としての連携が取れていなかったために、連年執拗に攻撃する前趙にたいして疲弊を呈するようになり、主に北から前趙に侵食されていきました。長安を包囲されるにあたって、ついに司馬鄴は降伏を決断しました。 司馬鄴の身柄は平陽へと送還され、見世物のような扱いを受けたあと処刑されました。
西晋の残党たる各勢力も、前後して前趙に滅ぼされていきますが、涼州刺史・張軌の勢力は長らく存続して後に「前涼」として認知されることになります。また、江南に勢力を固めた司馬睿は、司馬鄴の死後、皇帝に即位して晋を継ぐことになり、これは「東晋」と認知されることになります。
西晋帝室系図
- 1武帝司馬炎
- 2恵帝司馬衷
- -呉王司馬晏
- 4愍帝司馬鄴
- 3懐帝司馬熾
- ※左側が年長者です。
- ※数字は皇位の継承順を意味します。
- ※皇位継承に関係のない筋は省略しています。
歴代君主
司馬炎
236年-290年。字は安世。西晋の初代皇帝。武帝。司馬昭の子。司馬昭の死後、魏帝・曹奐に禅譲を迫って皇帝に即位し、西晋を建てた。呉を滅ぼし天下を統一した。名君としての前半期と、堕落した後半期で評価が分かれる。多くの宗族を王に封じたことが、後の八王の乱を成した。病没。
司馬衷
259年-307年。字は正度。西晋の第2代皇帝。恵帝。司馬炎の第2子。兄・司馬軌が夭折したため立太子された。司馬炎の死後、即位するが、皇帝として暗愚と評価される。皇后の賈南風を筆頭とする外戚の台頭や、八王の乱を抑えることができなかった。病没。司馬越による毒殺とも。
司馬熾
284年-313年。字は豊度。西晋の第3代皇帝。懐帝。司馬炎の第25子。司馬衷の死後、即位した。全国の反乱に応対するが、西晋の衰退を止めることは出来なかった。司馬越が洛陽を空にして出鎮したまま病死すると、前趙の攻撃により洛陽は陥落した。平陽に拉致されたのち処刑された。
司馬鄴
300年-318年。字は彦旗。西晋の第4代皇帝。愍帝。司馬炎の孫。司馬晏の第3子。永嘉の乱で洛陽が陥落すると、長安へ脱出し、荀藩らに擁立された。涼州刺史・張寔の支援を受けるも、西晋の体制は不随であり、前趙の執拗な攻撃により長安は陥落した。平陽に拉致されたのち処刑された。
主な宗族
司馬攸
246年-283年。字は大猷。斉王。司馬昭の第3子。子がいない司馬師の猶子となった。聡明でありながら人徳を有し、宗族の中で一際輿望を集めた。後継問題を背景に、司馬炎から疎まれて、封地への帰国を命じられた。まもなく病没。司馬攸帰藩事件として、八王の乱の初端と解される。
司馬瑋
271年-291年。字は彦度。楚王。司馬炎の第5子。八王の一人。賈南風による楊駿排斥に協力した。その後、補政の任に当たった司馬亮や衛瓘と対立し、賈南風に唆されて司馬亮、衛瓘を粛清した。賈南風によって司馬亮、衛瓘殺害の罪を押し付けられ処刑された。横暴の評価が残る。
司馬亮
?-291年。字は子翼。汝南王。司馬懿の第3子。八王の一人。宗族の長老的存在。賈南風と結託した司馬瑋が専横を揮った楊駿を粛清すると、衛瓘と共に執政にあたったが、賈南風や司馬瑋と対立し殺害された。第2子・司馬矩の子孫は、東晋の汝南王として存続した。
司馬遹
278年-300年。字は煕祖。司馬衷の子。聡明さを祖父・司馬炎に溺愛されたが、成長と共に学問から遠ざかり、次第に評判を失った。実子のいない賈南風から疎まれ、賈謐と対立した。賈南風によって謀叛の罪を着せられて、廃太子ののち、庶人に落とされた。まもなく賈南風によって暗殺された。
司馬倫
?-301年。字は子彝。趙王。司馬懿の第9子。八王の一人。賈南風が司馬遹を廃太子すると、賈南風を教唆して司馬遹を殺害させ、司馬遹殺害の罪で賈氏一族を粛清した。司馬衷を上皇として自ら皇帝を称した。朝廷は混乱し司馬冏らの三王起義を誘発させた。王輿らにより捕縛され、のち毒殺された。
司馬冏
?-302年。字は景治。斉王。司馬昭の孫。司馬攸の子。八王の一人。司馬倫に協力して賈氏一族を滅ぼすが、後に司馬倫から軽んじられた。司馬倫が暴政を行うと、司馬穎、司馬顒らと決起して司馬倫を退位させ、司馬衷を復位させた。司馬顒が挙兵すると洛陽で呼応した司馬乂によって捕縛され、処刑された。
司馬乂
277年-304年。字は士度。長沙王。司馬炎の第6子。八王の一人。兄・司馬瑋が罪に問われたとき連座したが、三王起義に加わり中央に戻った。司馬冏が悪政を行うと、司馬顒に協力して司馬冏を捕縛した。まもなく司馬顒、司馬穎と対立し戦況は優位に進んだが、降伏を望む司馬越に裏切られ殺害された。
司馬穎
279年-306年。字は章度。成都王。司馬炎の第16子。八王の一人。三王起義の一人として司馬倫を討伐した。後に司馬冏、司馬乂、司馬越と立て続けに対立した。司馬越に敗れて司馬虓に幽閉されていたが、復権を恐れられて処刑された。配下の劉淵は救援を名目に匈奴を独立せしめ、後の前趙を構成した。
司馬越
?-311年。字は元超。東海王。司馬馗の孫。司馬泰の子。八王の一人。司馬乂を裏切って殺害した。司馬穎、司馬顒と対立して一時劣勢となるが、王浚らの援軍を得て司馬穎、司馬顒の排斥に成功した。司馬衷の死後、司馬鄴を擁したが、拡大する前趙を抑えられないまま、陣没した。
司馬保
294年-320年。字は景度。司馬模の子。司馬越の甥。洛陽の陥落以後、秦州一帯を領有した。司馬睿と並んで司馬鄴を補佐する立場にあったが、後に司馬鄴を軽んじて、積極的に援護せず長安陥落を傍観した。皇帝を自称したが、前趙に対して劣勢となると、配下の張春に殺害された。病没とも。
主な人物
羊祜
221年-278年。字は叔子。羊儒の曾孫、羊続の孫、羊衜の子。諸事に慎ましく先見の明を持ち、才幹に身を滅ぼす事が無かった。都督荊州諸軍事として積極的な呉征伐を論じる一方で、呉将の陸抗と交誼を重ねて羊陸之交の故事成語を残した。病没。後任に杜預を推挙した。
賈充
217年-282年。字は公閭。賈逵の子。賈南風の父。曹爽の失脚後、司馬氏に取り立てられた。曹髦殺害を指揮して罪に問われなかったように、司馬氏の腹心として絶大な信任を得た。派閥を好み、人事評価は好悪が先んじた。西晋建国の功臣として筆頭に挙がる。病没。
杜預
222年-284年。字は元凱。杜畿の孫、杜恕の子。前漢の御史大夫・杜周の末裔。蜀、呉の討伐に深く関わった。政策に無駄がなく杜武庫の異名をとった。破竹の勢いの語源を残した。春秋左氏伝を研究した学者でもある。武廟六十四将の一人。詩聖・杜甫は末裔に当たる。
王濬
206年-285年。字は士治。司隸弘農郡湖県の人。武廟六十四将の一人。羊祜の厚遇を受けて巴郡太守、広漢太守を経て益州刺史を務めた。呉征伐では水軍編制を急進し、長江を降って建業を攻めた。征呉の功を巡って王渾と対立したが、鄧艾の轍を恐れて身を引いた。
楊駿
?-291年。字は文長。一族の楊艶、楊芷が司馬炎の皇后となった。外戚として権力を集め、重職を委ねられるようになったが、能力に不足し人望は高まらなかった。専横を憎む賈南風一派の政変によって失脚し、一族もろとも処刑された。暗愚だったが、敵対者を無暗に殺害しなかった。
王渾
223年-297年。字は玄沖。并州太原郡晋陽県の人。王昶の子。京陵侯を継承したが曹爽の失脚で免官となった。懐県県令として復帰以後は累進し豫州刺史、豫州諸軍事となった。呉征伐では一軍を率いて南進し、功は王濬と双璧を成した。晩年は兵権を返上し顕職を歴任しては名声を落とした。
賈南風
257年-300年。司馬衷の皇后。賈充の3女。嫉妬深く権謀を好んだ。司馬炎からは5つの欠点を指摘されたが、賈充派の強い後押しがあって太子妃となった。楊駿の殺害後は八王の乱の中心人物となり、司馬亮、衛瓘を初めとする宗族や重臣を粛清した。皇太子・司馬遹殺害の罪で、司馬倫に処刑された。
趙廞
?-301年。字は叔和。祖先は張魯に従ったが、張魯が曹操に降伏してから趙に移った。県令、郡太守を歴任して司馬倫からの評価を得、益州刺史、大長秋まで昇った。賈氏が誅殺されると婚姻関係にあった自らの立場を危ぶみ、李特ら流民を私兵として益州の占有を図った。配下の鎮撫に失敗し李特の攻撃を受け横死した。
孫秀
?-301年。字は俊忠。琅邪郡の人。初め潘岳に仕えたが、狡猾、貪淫と評され度々処罰を受けた。司馬倫が琅邪王の頃に仕え、文章を賞されて累進した。多くの謀事に関り、司馬遹の殺害、賈氏の誅殺など数多の凶行を主導した。朝廷を専断して諸王の挙兵を招き、内部から呼応した趙泉に斬られた。
陸機
261年-303年。字は士衡。呉郡呉県の人。陸抗の子。始め呉の牙門将となったが、滅亡と共に隠棲し10年に渡って在野で学問にはげんだ。招聘されて張華、賈謐と親交を結んだ。司馬倫の政変に協力したために罪を得たが司馬穎に救われた。司馬穎政権に参与して讒言を受けた司馬穎に処刑された。
王戎
234年-305年。字は濬沖。王雄の孫、王渾の子。琅邪王氏。魏、晋の官職を歴任した。呉討伐の一軍を率いるなど大きな功績を残す一方で、職権乱用、軍法違反、贈賄などの容疑を受けた。処世に巧みで、積極的に政治力を発揮しないことで寿命を全うした。竹林の七賢の一人に数えられる。
張方
?-306年。寒門の出身だったが、関中を統治した司馬顒に仕官して累進した。以降、司馬顒、司馬穎の一派として、司馬倫、司馬乂、司馬越と戦って軍の中核を成した。後に、司馬顒の敗色が濃厚になると、謀叛の罪を着せられて司馬顒に殺害された。
羅尚
?-310年。字は敬之。羅式の子。羅憲の甥。幼くして父を亡くし叔父の羅憲に養育された。荊州刺史・王戎の参軍を務め、呉征討では王戎の前衛として進軍した。梁州刺史ついで益州刺史を拝命した。難民を統率した李特と対立し、一時は李特を敗死させて優勢となったが、成都を保持し得ず巴郡を拠点とした。病没。
劉喬
249年-311年。字は仲彦。南陽郡安衆県の人。劉阜の子。前漢の長沙王・劉発の末裔。王戎の属官となり呉征伐の功で滎陽県令となった。楊駿の誅殺や賈氏の排斥に協力し昇進を重ねた。豫州刺史として張昌の乱を鎮め、承制する司馬越に反発した。司馬越が実権を握ると許されたが、司馬越の死後、石勒の攻撃により捕縛、処刑された。
華軼
?-311年。字は彦夏。平原郡高唐県の人。華澹の子。魏の太尉・華歆の曾孫。才気と博愛に富み、博士、散騎常侍を務めたほか、司馬越の属官も務めた。永嘉年間には江州刺史となった。勤皇の意志が強く、江南に赴任した司馬睿の人事に従わなかったため、王敦の攻撃を受け、衛展、周広に殺された。
苟晞
?-311年。字は道将。貧しい家の生まれだったが、東海王・司馬越に招聘されて、陽平郡太守まで昇進した。八王の乱では、主に司馬越に従い、公師藩、劉喬、汲桑らを討伐し、威光を高めた。青州刺史として曹嶷らと争った。後に司馬越と対立し、司馬越の死後、石勒によって滅ぼされた。有能であったが過酷でもあった。
賈疋
?-312年。字は彦度。魏の太尉・賈詡の曾孫。安定郡太守となり、司馬越に与して司馬顒と争った。永嘉の乱で洛陽とともに長安が陥落すると、前趙への帰順を示したが、後に長安を包囲して劉曜を敗退させた。司馬鄴を迎えて征西大将軍まで昇るが、彭天護との戦中、山間から転落して死亡した。
荀藩
245年-313年。字は泰堅。後漢の司空・荀爽の玄孫。荀勗の子。司馬顒が長安に居ながら二元政治を行ったとき、洛陽にいて政治を取り仕切った。永嘉の乱では洛陽から逃亡して臨時政府を立て、司馬睿を盟主とした。司馬鄴を迎えたが、長安遷都には従わなかった。司空まで昇る。病没。
王浚
252年-314年。字は彭祖。王沈の子。都督幽州諸軍事として幽州の軍事を総括した。辺境の地の利を活かして三王起義ではどちらにも与せず、司馬顒、司馬穎と敵対した。鮮卑と修好する一方で、劉琨と内訌した。西晋が著しく弱体化すると帝位を狙ったが石勒に滅ぼされた。
麹允
?-316年。金城郡の大豪族の出身。長安陥落時に逃走し、賈疋を説得して長安を奪還した。閻鼎を弾劾して政治を主導した。前趙と一進一退を繰り返すも、人心を得られず、長安は陥落した。平陽に連行されたのち自害したが、同時にその忠義を劉聡から評価された。
索綝
?-316年。索靖の第5子。兄の仇討で37人を殺害した。麹允と共に西晋の復興に力を尽くしたが、前趙の勢いを止めることはできなかった。長安が包囲されると、保身を計って劉曜へ偽計を用いたが、劉曜に看破された。長安陥落とともに平陽に連行されて刑死した。
劉琨
271年-318年。字は越石。劉蕃の子。漢の中山靖王・劉勝の末裔。司馬倫に従ったが司馬冏に許された。司馬騰が劉淵に敗れて晋陽から鄴へ移転すると、司馬越によって并州刺史に任じられ鮮卑と修好して前趙と争った。西晋滅亡後も并州を維持したが、段匹磾に殺害された。
羊献容
?-322年。羊玄之の子。泰山羊氏の出自。母が孫旂の娘であったことから、司馬倫が賈南風を廃位したとき孫秀によって恵帝皇后に擁立された。その後、八王の乱で主導者が入れ替わるたびに廃位と復位を繰り返した。洛陽陥落時には平陽へ連行され劉曜に保護され、後に皇后となった。皇后となること七度に及ぶ。