東晋
publish: 2020-05-20, update: 2022-02-03,
章節
目次
概要
名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
---|---|---|---|
東晋 | 317 | 420 | 103 |
東晋は司馬睿が立てた王朝。 永嘉の乱によって西晋の皇帝が不在となると、王族の筆頭であった司馬睿が華南をまとめ上げて西晋を継承した。 後漢以降、隋が統一するまで、東晋は北魏に次ぐ長期王朝となり、後の南朝を方向付ける制度、文化を確立した。 都合上、西晋、東晋と区別して表記するが、いずれも正式な国号は「晋」である。
年表
背景
- 303
- 張昌・石冰の乱
296年、氐の斉万年が反乱を起こしたとき、反乱自体は299年に鎮圧されたものの、大量の流民が生じた。 この難民を率いた李特が、蜀の地に入り、成都を陥れて、後の成漢を築くのだが、西晋政府は益州刺史の羅尚を救援させるべく、荊州方面から援軍を発した。 ところが、折しも八王の乱で混乱する世情の中での徴発であったため、荊州の民心は不穏な状況に陥った。
303年、荊州の混乱に乗じて、民衆を扇動し、反乱を起こしたのが張昌である。 この反乱は大いに広がり、荊州、江州、揚州、豫州、徐州の5州にまたがるほどとなった。 しかし、その後の統治が疎漏であったため、徐々に反乱は支持を失い、荊州刺史の劉弘が、陶侃らに軍を与えて、張昌らを滅ぼした。
この反乱は、華北の混乱のあおりを受けて、華南も大きく動揺していたことをうかがわせるものであった。 305年には、張昌の反乱鎮圧に功のあった陳敏が、江東で割拠せんとして挙兵した。 これに対し、江南の豪族は追従せず、陳敏は周玘、顧栄、甘卓らに滅ぼされる。 続いて、310年には銭璯が反乱を起こすが、郭逸、周玘らがこれを鎮圧した。 このように、当時の西晋は、反乱が起きては新たな反乱を誘発させる、いわば火薬庫のような状態であった。
306年、江南の動揺した状況下で、王族である琅邪王・司馬睿が、安東将軍・都督揚州諸軍事なる軍政の大権を持って揚州に赴任した。 司馬睿による東晋初期の政権は、動揺する江南の安定化を望む江南の有力豪族(貴族)と、江南の支配を確立したい司馬睿の利害一致によって成立することとなる。
初期
- 317
- 東晋政権が成立する
かつての呉が、豪族連合の背景を有していたように、江南の豪族は一枚岩ではなかった。 さらに、東晋政権には、混乱する中原を逃れて亡命してくる華北の有力者が多くいた。 北来の貴族と、江南の豪族は対立しがちで、江南で続出した反乱の鎮圧に活躍した名家の周玘ですら、江南の豪族を差し置いて北来の貴族が顕職に着く現状に憂憤し、政変を企図するほどであった。 周玘は政変を実行せずに病死するものの、病死の間際、「私を殺したのは中原の人々だ」と言い残した。
この権力構造の下で朝廷を運営したのが、絶大な調整力という類まれな政治力を持った王導だった。 王導の政治は、北来貴族の収攬と、江南貴族の分断を旨として、江南に支持基盤を持たない司馬睿政権の権力掌握を確実なものにしようとしたものであった。 この結果、江南随一の大豪族である周玘ですら、頭を抑えられて沈黙せざるを得ず、一方で、北来貴族の人心をまとめ上げて、九品官人法などの制度を通じて華北の価値観を江南に浸透させることに成功した。
永嘉の乱が極まった316年、江南では司馬睿以上に輿望を持った施政者はおらず、長安の陥落とともに司馬鄴が前趙の平陽に拉致されると、翌年の317年、司馬睿は皇帝に即位し、晋の王朝を引き継いだ。
- 322
- 王敦の乱
王敦は王導の従兄であり、杜弢の反乱の鎮圧などを通じて、東晋の軍権の筆頭にあった。 王敦の権勢は絶大であり、「王馬天下を共治す」とまで言われ、これはつまり王氏と司馬氏が同等に扱われる自体を意味する。 司馬睿は王氏の権力を嫌い、劉隗や刁協を重用して、王氏の権力分散を図った。 322年、王敦はこの処置に憤り、劉隗・刁協の廃除を名目に、武昌にて兵を挙げて長江を下り、建康の要衝である石頭城を一挙に落とした。
司馬睿は追い詰められて、王敦に謝罪せざるを得ない状況になり、王敦は敵対した刁協、戴淵、周顗、甘卓らを処刑し、劉隗は後趙へ亡命した。 司馬睿は王敦との和睦をなして間もなく死去した。 この混乱のさなか、王敦は軍権を持ってはいても、東晋を滅ぼす、あるいは皇統を操作する政治的な力、あるいは意志を持っていなかった。 この点で、東晋には王導もまだ健在であり、王敦が朝政を専断するだけの権力集中が成されていなかったことを示している。 司馬睿の死後、司馬睿の第1子である司馬紹が皇帝に即位した。
司馬紹は果敢な人物であり、その性格ゆえに、王敦は太子時代から司馬紹を忌避していた。 そのため、司馬紹と王敦の関係は緊迫した。 王敦は先の反乱を通じて粗暴であり、一族の王導からですら大きく不評を買っている一面があった。 324年、先の反乱に学んだ朝廷は国境の祖約、蘇峻らを呼び戻したうえで、王敦討伐の勅命を発した。 王敦は再び兵を挙げるが直ぐに病を発して、自ら指揮をとれなくなり、間もなく病没した。 王敦の一派はことごとく誅殺されたが、王導はなお健在であり、王導の巧みな政治力が垣間見える。
- 327
- 蘇峻の乱
司馬紹は若くして評判が高く、将来を嘱望されたものの、王敦を滅ぼした翌年、にわかに死去した。 司馬紹は死に際して、王導、庾亮、温嶠らに司馬衍を輔弼せよと遺言した。 このとき、庾亮は妹を司馬紹の皇后として輩出しており、司馬衍の義理の父にあたるれっきとした外戚だった。 庾亮は摂政の筆頭として、朝政を仕切ったが、その政治は厳格で、王導の寛容さとは反するものであったため、朝廷内では不満が募った。 327年、庾亮は常々朝廷を軽視する蘇峻の軍権を解こうとすると、蘇峻は対抗して反乱を起こした。
蘇峻は歴陽を発して、長江を下り、後に遷都を議論させるほど、建康を荒廃させた。 一方で、庾亮はこの戦線を突破して江州刺史(揚州と荊州の間)の温嶠と合流し、これに荊州刺史の陶侃や徐州刺史の郗鑒を加えて戦況を一転させた。 329年、陶侃らは石頭城の攻防を制して蘇峻を処刑し、乱を鎮圧することに成功する。
中期
- 347
- 桓温が成漢を攻める(成漢の滅亡)
西府の長たる荊州刺史は陶侃に始まり、334年に陶侃から庾亮、340年に庾亮から庾翼、345年に庾翼から桓温へ引き継がれた。 温嶠は329年、王導は339年に死去しており、東晋建国の功臣はこの頃多くが死去して、桓温は代替わりした新しい世代であった。 桓温の父・桓彝は、蘇峻の反乱で戦死した世代である。
346年、桓温は巴蜀に割拠する成漢の討伐を敢行し、その翌年には成漢を滅ぼした。 この頃、成漢を統治したのは李勢で、失政により国内は混乱しており、桓温はこの機を突いたものであった。 西晋を継承した東晋にとって蜀の地は失陥した旧領でもあり、失地を回復した桓温の軍功は大きなものであった。
- 356
- 桓温が北伐を行う
朝廷では桓温を警戒する動きが強まり、桓温への抑えとして殷浩がその任を追うようになる。 349年、後趙で石虎が死去すると華北は瞬く間に混乱し、これを東晋朝廷は中原奪還と桓温への牽制の絶好の機会と捉え、殷浩を北府の長に任じて北伐を委ねた。 ところが、殷浩の北伐は失敗に終わる。 東晋朝廷は、北伐の難しさを既に認識しており、殷浩に慎重さを求めたものの、北伐を強引に進めた殷浩は敗北を重ねた。 このため、殷浩を弾劾する桓温の上奏に、朝廷も殷浩を罷免せざるを得ず、権力は桓温へと集中した。
殷浩に代わって北伐した桓温は、二度の北伐を経て洛陽を攻略した。 洛陽は後漢以来の首都であり、この地の奪還は、その事実だけでなく象徴的にも評価されるものであった。
- 372
- 桓温が司馬奕を廃する
桓温が司馬奕を廃して、司馬昱を擁立した経緯にはいくつかの背景を挙げることが出来る。 ひとつには、華北に台頭してきた鮮卑拓跋部を母体とする前燕が、洛陽をはじめとする河南の攻略に着手したことである。 桓温は再び洛陽を攻略せんと北伐を催したが、これは前燕の慕容垂に阻まれ、敗北した。 大功を重ね続けた桓温にとっては初めての蹉跌であり、以後、戦績は揮わず軍歴にはひとつの傷がついた。 ふたつには、桓温には践祚する欲望があった。 大功により世論を得て禅譲を受けるという筋道を取る桓温にとっては、北伐の失敗は返上しなければならない汚名であった。 焦った桓温は褚太后へ迫って男色に耽った罪で司馬奕を廃位させると、代わって司馬昱を皇帝に即位させた。
しかし、桓温が禅譲する道は成されなかった。 この頃の東晋朝廷には、桓温だけでなく謝安や王坦之などの一角の人物が健在であり、この年、司馬昱は病没するものの、彼らが遺言を買い替えたことにより、皇帝の位は司馬曜に継がれた。 桓温は皇帝の位が自分に禅譲されるものと思っていたために、この皇位継承の結果を知って憤った 翌年、桓温は病を得て、謝安の先延ばし工作の中で、失意のまま没した。
- 383
- 前秦の苻堅が東晋を攻める(淝水の戦い)
東晋最大の出来事は、世界史の教科書にも載る淝水の戦いを置いてほかにない。 桓温が北伐に失敗して、東晋の圧力が消えた華北では、前秦と前燕の間に争いが起こり、この年までに、前秦が華北の諸勢力を傘下に収めて、西晋以来の華北統一を成し遂げていた。 この偉業を成し遂げた英傑が前秦の第三代皇帝・苻堅である。 苻堅は中華全土の統一を目指した理想主義者で、華北を統一した余勢を駆って、この年、大規模な南征を企図した。 しかし苻堅による遠征は、東晋の謝安らによって阻まれた。 この淝水における敗戦たった一つにより、前秦の支配体制は瓦解し、以後、旧王朝の皇族や遺臣たちにより、前秦は分裂して華北の覇者としての主導権を完全に失った。
末期
- 399
- 孫恩・盧循の乱
桓温の死後、朝廷の重責を負ったのが謝安だった。 謝安は、王導に似て各勢力の調整に長け、北府には一族の謝玄を長として任じ、西府には桓温の一族である桓豁と桓沖を任じており、淝水の戦いで前秦の攻勢を退けるなど、国内を安定させた。 しかし、385年、謝安が病没すると、東晋の朝廷は俄かに堕落した。 この頃、王坦之は375年に既に亡く、司馬曜が親政を取るようになると、弟の司馬道子とともに実権を握って朝廷に逸脱と放恣をもたらした。
こうなると次に起こるのは自浄作用という名の政変である。 まず、北府の長・王恭と西府の長・殷仲堪が人事に不満をもって君側の奸を誅さんとして挙兵した。 この権力闘争は些か複雑で、最終的には司馬道士が調略した劉牢之、桓玄によって王恭、殷仲堪は敗亡した。
この混乱を目にして東晋の衰微を予感したのが民衆であり、五斗米道の師であった孫泰だった。 孫泰はその名声により東晋朝廷にも出入りするほどの地位にあったが、この年、民衆を扇動して反乱の計画を立て、察知された司馬道子に処刑された。 しかし、その勢いは消えず、甥の孫恩が信徒たちを引き継いで反乱を起こすと、呉郡、呉興郡、会稽郡の広範囲で民衆が同調した。 この反乱は、402年に孫恩の敗死によって一時収束するも、継いだ盧循が411年に死ぬまで各地で断続的に続いた。
- 402
- 桓玄の乱
朝廷内外の混乱により、東晋内部の勢力図は一挙に書き換わった。 桓温の末子・桓玄が西府軍団を掌握したことは、その最たるものである。 もともと桓玄は、父の失脚により罷免され、義興郡太守、広州刺史と復職を成したものの、自身の不遇を歎息する身であった。 しかし、司馬道士を中心とする権力闘争を上手くかいくぐり、西府軍団を手に入れたことは、桓玄に大きな転機をもたらした。 桓玄は次いで劉牢之から北府を奪って全権を掌握すると、司馬徳宗に禅譲を迫って皇帝に即位した。 とはいえ、これは余りにも性急だったと言えよう。 即位のわずか三カ月後には、劉裕によって建康を追われ、殺害された。
- 420
- 司馬徳文が劉裕に禅譲する(東晋の滅亡、宋の成立)
混乱の中で最終的に権力が転がり込んだのが、寒門の出身で一軍人にすぎなかった劉裕の掌であったことは、歴史の面白さのひとつであろう。 劉裕はもともと劉牢之の属官であり、その前半生はその名をほとんど残さない。 ところが、孫恩の乱や、桓玄の乱により劉牢之をはじめ上層部が軒並み退場していくと、身を保持し得たのが劉裕だったというわけである。
また、劉裕は桓温や桓玄とは異なり、性急ではなかった。 政敵の廃除に入念で、数度の遠征により南燕、後蜀、後秦を滅ぼし、土断も行った。 この間、18年に及ぶ地道ながら並び立たない政略を行い、いわば臣として出来ることをし尽くしたうえで、ついに司馬徳宗を暗殺して司馬徳文を擁立し、そのまま禅譲を迫って皇帝に即位した。
特徴
北府と西府
東晋国内で起きた初期の度重なる反乱は、いずれも農民反乱ではなく朝廷内の権力闘争によるものである。 この鎮圧を通して後の南朝を特徴づける仕組みが形成された。 それが北府と西府である。 北府と西府は一言で表現するならば幕府であった。 共に大きな軍政の権限を持って、以後、互いに勢力をけん制しあうことで、時には安定を、時には不安定を東晋にもたらした。 北府は長江下流域を管轄し、郗鑒の軍を基盤とした。 一方、西府は長江中流域を管轄し、その基盤は陶侃の軍であった。 東晋では、この北府と西府の長は名門貴族から輩出され、後の貴族権力の牙城となった。
貴族性社会
魏において施行された九品官人法は、魏、西晋を通じて、豪族を生まれながらに地位を保障された貴族へと変貌させた。 東晋は西晋の流れを汲み、その政権初期を主導した王導は北来の貴族、制度、文化を優遇したため、東晋でも貴族制度は存続し、強化された。 これは、異民族による実力支配によって、貴族制度や文化が減退した華北とは方向性を大きく異にするものである。
東晋では北府と西府が軍団の双璧をなし、この軍団の長は有力貴族から輩出された。 この北府と西府はどちらが有力になることもなく、互いにけん制しあうことで東晋に安定をもたらした。 一方で、貴族たちの権力バランスの安定によって運営された東晋の朝廷において、皇帝と宗族の権力は弱いものとなった。 司馬昱や司馬道子が朝廷中央で実権を握った例はあるものの、北府や西府で軍権を握った例はない。
貴族性社会がもたらした安定による余力は、王羲之などの芸術面の開花や、貨幣制度が追いつかないほどの商業発展に繋がっていった。
土断
土断とは戸籍登録のことを指す。 東晋では、その全期間を通じて、華北から華南への移民が絶えなかったが、移民の多くは本籍を華北に置いたまま、華南では無戸籍となった。
この状況は必ずしも庶民だけではなく、北来の貴族でも同様であった。 徴税や徴兵は戸籍に基づいて行われたため、無戸籍の移民は徴税や徴兵の対象外となった。 徴税や徴兵を逃れる移民たちの存在は、在来の住民の生活を侵害するものであり、移民と在来住民の軋轢は、たびたび反乱の芽となった。 杜弢の乱は、その軋轢の最初期で大規模な例となる。
一方で、無戸籍のまま生活に困窮した一部の庶民は、江南の豪族の私有民として取り込まれていった。 これは豪族の力の源泉ともなり、中央集権を目指す東晋の国家運営を妨げるもだった。
このため、移民流入が続く東晋ではたびたび土断が行われた。 ところが、東晋政府そのものが移民による政権であったため、土断の実行は必ずしも効果的なものではなかった。 土断実施による利権が、朝廷内の貴族の利権と密接に関連していたからである。 また、移民自体は東晋の国力を増強するものであり、移民に対する一定の優遇は、東晋としても看過したいというジレンマを持っていた。 大規模で効果的な土断は桓温や劉裕といった実力者でしか成し得ず、ただの戸籍登録と言えども、その実施は大きく評価されるものである。
土断の実施において、僑州、僑郡、僑県といった行政区分が発生した。 「僑」とは「仮の」といった意味を持つ。 僑州、僑郡、僑県とは、移民が移住した土地に対して、移民の本籍を行政区分として仮に置いたものである。 例えば、雍州は関中一帯を指す行政区分だが、雍州からの移民が襄陽一帯に移民したため、華南にも僑州としての雍州が設置された。 移民は当初は華北の戦乱を逃れた一時的なものと捉えられていたが、移民自身が華南で世代を重ねるにつれて、華南を本籍と捉えるようになり、次第に僑州、僑郡、僑県は消えていく。
東晋帝室系図
- 司馬懿
- 司馬伷
- 司馬覲
- 司馬睿 1
- 司馬紹 2
- 司馬衍 3
- 司馬丕 6
- 司馬奕 7
- 司馬岳 4
- 司馬聃 5
- 司馬昱 8
- 司馬曜 9
- 司馬徳宗 10
- 司馬徳文 11
- ※左側が年長者です。
- ※数字は皇位の継承順を意味します。
- ※皇位継承に関係のない筋は省略しています。
代 | 諡号 | 姓名 | 生年 | 即位 | 退位 | 没年 | 即位年齢 | 没年齢 | 在位期間 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 元帝 | 司馬睿 | 276 | 317 | 323 | 323 | 41 | 47 | 6 |
2 | 明帝 | 司馬紹 | 299 | 323 | 325 | 325 | 24 | 26 | 2 |
3 | 成帝 | 司馬衍 | 321 | 325 | 342 | 342 | 4 | 21 | 17 |
4 | 康帝 | 司馬岳 | 322 | 342 | 344 | 344 | 20 | 22 | 2 |
5 | 穆帝 | 司馬聃 | 343 | 344 | 361 | 361 | 1 | 18 | 17 |
6 | 哀帝 | 司馬丕 | 341 | 361 | 365 | 365 | 20 | 24 | 4 |
7 | (廃帝) | 司馬奕 | 342 | 365 | 371 | 386 | 23 | 44 | 6 |
8 | 簡文帝 | 司馬昱 | 320 | 371 | 372 | 372 | 51 | 52 | 1 |
9 | 孝武帝 | 司馬曜 | 362 | 372 | 396 | 396 | 10 | 34 | 24 |
10 | 安帝 | 司馬徳宗 | 382 | 396 | 419 | 419 | 14 | 37 | 23 |
11 | 恭帝 | 司馬徳文 | 386 | 419 | 420 | 421 | 33 | 35 | 1 |
平均 | 21.9 | 32.7 | 9.4 |
第7代・廃帝・司馬奕は、桓温によって廃位されたのち、海西公に降格されて、その後の15年間の余生を全うしている。 皇帝は、病死なり処刑なり、その死をもって退位することがほとんどであるから、中国の歴史を俯瞰したときに、司馬奕は廃位されてなお、命を全うした数少ない人物の一人となる。 その後、酒色に耽ることで自分の才能を隠し、朝廷からの警戒を逸らす一方で、時代は謝安による小康期を迎えたことも幸いしたと言える。
第8代・簡文帝・司馬昱が51歳で即位していることも特徴的である。 司馬昱は、初代皇帝・司馬睿の末子であり、第5代皇帝・司馬聃以来、若い皇帝を補佐し、長らく朝廷を鎮めてた皇族の長老的存在である。 司馬昱の即位は、桓温の擁立によるものだが、権力者が傀儡政権を目指す場合、より御しやすい幼年の皇帝を擁立することが常のなか、既に51歳である司馬昱を桓温が擁立したことは些か不可解である。 結果論的に言えば、司馬昱は高齢でありながら、桓温にとって十分御しやすい人物だったということになるが、珍しい事例の一つと言えよう。
第10代・安帝・司馬徳宗の在位は23年と長いものだが、その治世は桓玄による楚の建国によって一時途絶していることと、復位後は朝廷を掌握した劉裕の時代であったことに留意が必要となる。 桓玄の治世はわずか3ヶ月であるが、劉裕の朝廷掌握の時代はその後の15年に及ぶ。
歴代君主
司馬睿
276年-323年。字は景文。東晋の初代皇帝。元帝。司馬懿の曾孫、司馬伷の孫。父司馬覲が死去すると琅邪王を継ぐ。鄴で司馬穎の監視下に置かれたが脱出して琅邪に帰還した。王導の献策に従い建業へ移った。愍帝が殺害されると皇帝に即位した。五馬王の筆頭。病没。在位6年。
司馬紹
299年-325年。字は道畿。東晋の第2代皇帝。明帝。司馬睿の第1子。司馬睿の死去により即位する。緊張関係にあった王敦に討伐の勅命を出し、王敦の病死も重なって王敦の乱を収束させた。司馬昭による簒奪の経緯を知り皇統の存続を危ぶんだという。若くして病没。在位2年。
司馬衍
321年-342年。字は世根。東晋の第3代皇帝。成帝。司馬紹の第1子。司馬紹の死後即位する。蘇峻の乱では建康が陥落したときに身柄を拘束されるが、乱が鎮圧されると建康に戻った。幼くして即位したため政治は王導、庾亮、温嶠らによって為された。若くして病没。在位17年。
司馬岳
322年-344年。字は世同。東晋の第4代皇帝。康帝。司馬紹の第2子。司馬衍の弟。司馬衍の死後、司馬衍の子がいずれも幼かったため、年長者として庾冰に擁立されて即位する。兄と同様早世する。在位2年。
司馬聃
343年-361年。字は彭子。東晋の第5代皇帝。穆帝。司馬岳の第1子。司馬岳の死後、2歳で即位した。治世は太后の褚蒜子、何充、司馬昱らによって運営された。成漢を併呑し、洛陽を奪還するなど領土の拡大に成功した。若くして病没した。在位17年。
司馬丕
341年-365年。字は千齢。東晋の第6代皇帝。哀帝。司馬衍の第1子。司馬聃の死後即位する。この頃すでに桓温が政治を掌握していた。傀儡同然で顧みるべき政治もなく不老長寿を求めて薬物を濫用し中毒を起こして死去した。在位4年。
司馬奕
342年-386年。字は延齢。東晋の第7代皇帝。廃帝。司馬衍の第2子。兄司馬丕の死後即位する。失政によってその勢力を弱体化させつつあった桓温に簒奪を謀られ、廃位されて海西公に降格された。その後は朝廷からの警戒をそらし続けた。病没。在位7年。
司馬昱
320年-372年。字は道万。東晋の第8代皇帝。簡文帝。司馬睿の末子。司馬奕を廃した桓温に擁立されて即位されたためその実は傀儡であった。即位の翌年には病に伏せり「諸葛亮、王導の如くせよ」と桓温へ遺言した。在位は1年に満たない。
司馬曜
362年-396年。字は昌明。東晋の第9代皇帝。孝武帝。司馬昱の第6子。父司馬昱の死後、桓温の権勢が続く中で王坦之、王彪之、謝安の尽力で即位した。治世は淝水の戦いで前秦を崩壊させるなど東晋の全盛期となったが、謝安の死後は後宮に入り浸り張貴人に暗殺された。在位24年。
司馬徳宗
382年-419年。字は徳宗。東晋の第10代皇帝。安帝。司馬曜の第1子。父司馬曜の死後即位する。重度の知的障害者であったとされる。孫恩の乱や桓玄の乱が起こり、桓玄には一時帝位を奪われるが劉裕の助力で復位した。のち劉裕に殺害された。在位22年。
司馬徳文
386年-421年。字は徳文。東晋の第11代皇帝。恭帝。司馬曜の第2子。兄司馬徳宗に対する劉裕の害意を察知したが防げなかった。司馬徳宗の死後劉裕に擁立されて即位するが、劉裕による禅譲の布石であり禅譲の余儀は無かった。宋によって零陵王に封じられたが翌年殺害された。
主な宗族
司馬元顕
382年-402年。司馬道子の子。無手の父に代わって権力を握って劉牢之や桓玄を懐柔し、王恭、殷仲堪を排除した。政治は乱暴かつ放恣で孫恩の乱を引き起こした。劉牢之や桓玄に見限られ為す術を持たなかった。建康に入った桓玄によって捕縛され父に先立ち処刑された。
司馬道子
364年-403年。字は道子。第8代皇帝・司馬昱の子。琅邪王、次いで会稽王。司馬曜からの信任が厚く、謝安を左遷させると中央の要職を掌握した。やがて酒におぼれて無頓着となり、王国宝と共に朝廷を恣縦した。王恭、桓玄らが反乱すると子に実権を委ねて事態を収拾させた。司馬元顕が失脚すると捕縛、毒殺された。
司馬休之
?-417年。字は季豫。譙王の司馬恬の子。司馬懿の弟・司馬進の来孫にあたる。荊州刺史を務めたが桓玄に追われて南燕に亡命し、桓玄の滅亡後に帰国した。後秦や北魏の支援を受けて劉裕と敵対するが、敗れて長安に逃れ、続けて後秦が滅びると北魏の庇護を受けた。病没。
主な人物
顧愷之
生没年不詳。字は長康。晋陵郡無錫県の人。顧悦之の子。桓温や殷仲堪の属官を務め、晩年は中央に入って散騎常侍となった。多才であり才絶、画絶、癡絶の三絶を備えると云われ、多くの名画を残して画聖と称される。肖像画を得意とし描線の美を知らしめた。真筆は散逸したが模写が傑作と評価されて残る。
謝道韞
生没年不詳。字は令姜。謝奕の子。謝玄の姉。謝安の姪。王凝之の妻。才女として知られる詩人。降りしきる雪を風に舞う柳の花に例えて謝安を感嘆させた。柳絮(詠雪)の才の故事成語となる。孫恩の乱では賊を切り殺す気性の激しさを持った。夫とは不仲であった。
祖逖
266年-321年。字は士稚。祖武の子。西晋の各王の属官を歴任したため、八王の乱が進むと各王から召集されたが、いずれにも応じなかった。永嘉の乱で洛陽が陥落すると一族を挙げて徐州へ移住した。司馬睿により徐州刺史に任じられ、河南の地を後趙から奪還した。病没。
紀瞻
253年-324年。字は思遠。紀陟の子。顧栄や周玘らと共に陳敏の反乱を鎮圧した。江南に駐屯した司馬睿に仕え、王導と共に司馬睿の皇帝即位を推進した。司馬紹から社稷の臣と評され、爵位は臨湘県侯、官職は散騎常侍、驃騎将軍まで昇る。病没。五儁の一人。
王敦
266年-324年。字は処仲。王基の子。王導の従兄。司馬睿と共に江東に移った。行政を取り仕切った王導に対して軍権を掌握した。王氏の強権を警戒した司馬睿に忌避されたため、反乱を起こして政敵を粛清した。司馬紹から討伐の勅命が出され、再び反乱を起こしたが病没した。
蘇峻
?-328年。字は子高。長広郡挺県の人。西晋の安楽相・蘇模の子。永嘉の乱では掖県にて塢壁を築き、内外の評価を得た。青州を実効支配した曹嶷の討伐を受けると広陵へと避け、東晋の麾下に入った。王敦の乱で功績を挙げ高位に上ると、庾亮に異心を疑われ反乱した。一時は建康を落すも陶侃らの反攻を受け敗死した。
陶侃
259年-334年。字は士行。陶丹の子。劉弘に招聘されて張昌の乱を皮切りに江南に続出した反乱を鎮圧した。やがて江南を支配する司馬睿に帰順すると、杜弢、王敦、蘇峻の乱で功を成し西府軍団の母体を築いた。晩年は襄陽を回復した。朝廷への干渉を慎み続けた。病没。
干宝
?-336年。字は令升。汝南郡新蔡県の人。干統の孫。干瑩の子。代々呉の官吏を務めた。王導の推薦を受けて史官となり、国史を編纂した。著作郎を経て散騎常侍まで昇る。幅広く著作を残し、『晋紀』『周易注』『春秋左氏函伝義』『周官礼注』『捜神記』がある。
王導
276年-339年。字は茂弘。王覧の孫、王裁の子。琅邪王氏。利害調整に長け、寛大な政治を旨として人心をまとめたため、東晋の黎明を作った。王敦の乱や蘇峻の乱など度々政敵から攻撃を受けたが、失脚することなく執政を全うした。病没。
郗鑒
269年-339年。字は道徽。父の名は不明。郗慮の玄孫。司馬倫に仕えたが八王の乱で司馬倫が殺害されると処罰を免れて江南に渡った。司馬睿により兗州刺史に任じられ後趙と鎬を削る一方で、王敦・蘇峻の反乱鎮圧を経て北府軍団の母体を築いた。病没。
庾亮
289年-340年。字は元規。庾琛の子。永嘉の乱を江南に逃れ司馬睿が赴任すると王敦の推挙で任官した。王導の融和政策とは対称に法治政策をとり、蘇峻の乱を招いた。温嶠、陶侃の支持を得て蘇峻を滅ぼした。陶侃の死後、荊州刺史として西府軍団を後継した。病没。
庾冰
296年-344年。字は季堅。庾琛の子。一族と共に江南に移り、華軼の討伐に功を成した。蘇峻の乱では敗退して王舒の属官を務めたが、乱の鎮圧後は荊州に赴任する兄に代わって中央職を歴任した。幼帝の即位と後見を巡って何充と争った。庾翼の後援として江州刺史となった。病没。
庾翼
305年-345年。字は稚恭。潁川郡鄢陵県の人。庾琛の子。庾氏の末弟で幼少に一族と共に江南へ逃れた。蘇峻の乱では庾亮配下で善戦したが温嶠のもとへ敗走した。陶侃の属官を経て諸郡の太守を務め、庾亮の死後は荊州刺史として西府軍団を統括した。病没。書家としても高名。
王羲之
303年-361年。字は逸少。王曠の子。王導、王敦の従兄弟甥。人格と才覚を評価されて度々要職へ任官されたが、その度に辞退し地方官への任官を望んだ。後に会稽郡に移住し悠々自適と精進の中から楷書・行書・草書の各書を確立させた。書の芸術性を見出したとされ書聖と称される。
桓温
312年-373年。字は元子。桓彝の子。庾翼の後を継いで西府を統括した。成漢の討伐、中原の回復、大規模な土断に成功して、東晋史上最大級の功を成した。司馬奕を廃して司馬昱を擁立し、簒奪の準備を進めたが、謝安らの反対に遭い禅譲は実現しなかった。病没。
釈道安
314年-385年。姓は衛。常山郡扶柳県の人。12歳で出家し仏図澄を師とした。仏図澄の死後は各地を流転し門徒を増やした。襄陽に移って檀渓寺に住む頃には盛況した。前秦の襄陽攻略で長安に連行され、以後苻堅をパトロンとした。仏教の研究のほか、鳩摩羅什の招聘や東晋遠征の反対などの建言を行った。
謝安
320年-385年。字は安石。謝裒の第3子。桓温の属官を経て中央へ任官した。桓温が簒奪を企てると王坦之と共に反対し、桓温が病死するまで先延ばし工作をした。前秦の南下を謝石、謝玄らに対応させ、淝水の戦いで大勝させた。晩年は司馬道子と対立して中央を辞した。病没。
謝玄
343年-388年。字は幼度。謝奕の子、謝安の甥。桓温の辟召を受けて属官となる。謝安に推挙されて北府を管轄し、劉牢之などを登用した。前秦の強勢を退け淝水の戦いでは前秦を大破した。その後の前秦の混乱を好機とし兗・青・司・豫州の四州を平定したが、間もなく病没した。
王恭
?-398年。字は孝伯。太原郡晋陽県の人。王蘊の子。司馬曜の皇后・王法慧の兄。外戚。謝玄亡き後の北府軍を継承した。王国宝によって軍権を解任されると殷仲堪と挙兵して、司馬道子に王国宝を処刑させた。司馬道子討伐のために再度挙兵したが、調略された劉牢之に敗北し処刑された。
殷仲堪
?-399年。陳郡長平県の人。殷師の子。殷浩は従伯父にあたる。謝玄の属官を経て、荊州刺史として西府軍を統括した。王恭に同調して王国宝を殺害せしめるが、再度挙兵した際には調略された桓玄と敵対し敗死した。果断に乏しく軍人としては評価されないが、恤民に溢れて政治に優れた。
劉牢之
?-402年。字は道堅。劉建の子。前漢の楚元王・劉交の末裔。謝玄に招聘されて北府軍を率いて前秦と戦った。謝玄の死後は北府を引き継いだ王恭の配下となった。軍事を取っては常勝であったが政略は皆無であり、王恭、司馬元顕、桓玄を裏切り、最後は人望を失って憂憤のうちに自害した。
桓玄
369年-404年。字は敬道。桓温の庶子、末子。司馬道子が専横すると、王恭、殷仲堪に呼応して挙兵した。挙兵は失敗するも自身は西府軍団の掌握に成功した。孫恩の乱では鎮圧を通して司馬元顕、劉牢之を除き、朝廷を掌握した。司馬徳宗を廃して皇帝を称し国号を楚とするが、劉裕の攻撃を受けて逃亡中に殺害された。
劉毅
?ー412年。字は希楽。小字は盤龍。沛郡沛県の人。徐州で任官して桓弘の属官となった。桓玄が楚を立てると劉裕、何無忌と共に挙兵して江北を制圧した。東晋復興と続く盧循の乱で功績を残したが、自負が強く劉裕と折り合わず、劉裕から謀反の嫌疑をかけられて自害した。
慧遠
334年-416年。姓は賈。雁門郡楼煩県の人。釈道安を師として出家した。前秦との戦乱を尋陽郡柴桑県に避け、廬山に入って以後30年間、山を下りなかった。白蓮社なる念仏結社を創り中国浄土宗の祖となった。仏法は王法に従属しないと説き、桓玄と意見を対立させた。
沈田子
383年-418年。字は敬光。呉興郡武康県の人。沈穆夫の子。劉裕が桓玄討伐に挙兵すると従った。北伐に従軍したほか、盧循の乱にも対処して功を挙げた。長安占領時は劉義真の下で王鎮悪と共に防御に当たったが、不信を募らせて王鎮悪を殺害した。まもなく王修に殺害された。
王鎮悪
373年-418年。北海郡劇県の人。王猛の孫。王休の子。前秦が崩壊して関中が混乱すると、叔父の王曜に従って東晋へ亡命した。武芸は不得意だったが学問には優れ、推薦を受けて劉裕に仕えた。劉裕の北伐に大きく貢献した。沈田子の救援に譴責をもって応えたため、沈田子の不信を買って殺害された。
陶潜
365年-427年。字は淵明。陶侃の曾孫。393年以降、断続的に東晋の属官として出仕するが、官吏の職務を嫌い彭沢県の県令を最後に隠遁生活に入った。晴耕雨読の中で詩文を残し、桃源郷の語源を作った。その詩業は世俗から離れた理想を表現したものとして評価が高い。陶淵明の名で知られる。